見出し画像

犀の角のようにただ独り歩みたいものです。

 信じられないようなことで、自分にとって最も身近な人を許しがたく感じてしまうことがある。

 例えばこんな感じ。夫の後にお風呂に入った妻が、洗顔用の石鹸が浴室の床に落ちているのを見つける。夫の仕業に違いないが、わざとやったわけではないことは明らかだ。おおかた、疲れてうとうとしながら顔を洗い、落としてしまったことに気づかなかった、そんなところだろう。分かってはいるが、妻は苛立つ。いくらするのかわかっているのか。もう2度とその石鹸は、夫には使わせまい。そんなことを考える。では、同じことをしたのが、10年ぶりに尋ねてきた幼馴染みなんかだったらどうだろう。あれ?疲れていたのかな。そんなミスくらい誰でもあるよね。と、多少訝しく思うことはあっても大目に見ようとするのではないだろうか。

 あるいは、こんなこともあるかもしれない。恋愛経験が乏しいわけではない、と自負する青春時代を送ってきた人が、40代に差し掛かる。結婚を焦り様々な婚活を試すもうまくいかない。親交の深い友人や可愛がってきた後輩たちの結婚、出産を横目に、だんだんと他人の幸せが適当にでもよろこべなくなってくる。ある日、独身仲間でもあった親友からの急な結婚報告に、えも言われぬショックを受ける。こんな惨めな気持ちになるとは。そう感じることで余計に情けなく、孤独と不安を深めてしまう。もちろん、もし自分が既婚者で子供は3人、パートナーとの関係はもはやラブラブとは言えないが離婚をリアルに考えたことはない、という状況なら、多少の羨望さえ込めて心から祝福できたことだろう。
 
 私たちは、自分と他者をいつも比較している。群れで生きる生物の、本能的な行動だという説もある。石鹸に苛立つ妻は、うとうとしながら顔を洗って浴室の床に石鹸を放置したりはしない。夫を自分と比較して、減点的に評価し、及第点に達しないことに苛立っている。なぜか。夫を自分自身の延長のように感じているからだ。自分が出来ることは夫も出来て当たり前、出来ないことにのみマイナスポイントが加算され、浴室の床の石鹸が許される日はこない。実際には、自分と夫は夫婦とはいえ、それぞれの命を生きる別々の人間であるというのに。

 逆に、親友の結婚に落ち込む40代は、自分の世界の一画を担う親友という存在と自分自身を比較した結果、自分を減点せざるを得なくなっている。こんなはずではなかった。自分もなんだかんだみんなと同じように家庭を持ったりするのだろうと思っていた。と、他者的な価値観を自ずから抱き込み、自分で自分の不足を苛む日々は結婚が実現する日まで続く。本当のところ、結婚しようがしまいが自分の人生をまっとうしているひとりの人間であることに、何ら変わりはない。

 そんなことが、世の中のあらゆるところのあらゆる段階で起きていて、特権的な社会の構造にも当てはまるように思う。前者はマジョリティや強者、後者はマイノリティや弱者において同じことが言える。強者が中立的な目線で自分と弱者を比較するとき、個々の事情など存在せぬかのように、強者の正当性と弱者の弱者たる所以が強化して論じられる。弱者が自分をとりまく強者の世界と自分を落ち着いて比較するとき、不合理を指し示すことは大きな痛みの予感を伴って、現れるのは敵対的な世の中だ。

 誤解を恐れずに言うなら、マジョリティも、弱者も、夫婦も、結婚も、幻想だ。人間が作った実在しない仕組みだと、乱暴に言い換えてもいいかもしれない(怒られそうだけど)。
 わたしたちは、誰一人として「ひとり」でない人はいない。自分と他者とを比較することに論理的な意味はあるかもしれないが、自分の命を論理で解決することはできない。なぜ生まれ、どうして死ぬのか、誰にもわからないのだから。極論だと思われるかもしれないが、実際のところ、原理的に言って自分で自分を認識することすらできないと同時に、自分の考えしか分からないのが、わたしたちという命だ。みんな自分の命を意図せず生きていて、自分以外の命を生かされたりすることはない。その意味ではお互いに徹底して無関係。ただただ、ひとり。比較もクソもない。というか、そんなことはどうだっていい。しかし、そのどうだっていいことを解決できないまま苦しみ続けるのが人生だともいえる。戦うこともあれば、無視することも、逃げることも、遊んでみることだってある。そんなふうにして、自分にとってたったひとつの世界に、みんなして生きている。ひとりで生まれて、ひとりで死ぬまで。


※2023.11.16(木) 渋谷flying booksで行ったLive&Talkイベント『犀の角・第一夜「ひとり」』の補足です。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

精進します……! 合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。