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新天地、沖縄での暮らしに向けて

今の仕事を辞めて沖縄に生きます

という宣言をした時、大抵の人たちが「ああ、そう。それはよかった」と安堵してくれたので、言ったこっちがほっとした。「なぜ?なんで?」と、引き止められるんではないかと心配していたので。

去年秋から体調を崩すことが多くて、しんどい事も多くて、このまままた1年ツレ無しで生きていったら、私死んじゃうかもしれない(大げさ)という危機感があった。

手始めにApplyしたOISTのフェローシップには見事に落ちてしまった。お祈りメールが英語で来るのははじめての体験。OIST用に勉強し始めたTOEICは結果的に650点だったので、応募要項にあった750点にはあと100点及ばななかったんだけれども、

「今週末TOEICを受けに那覇に行くので御社での面接を希望します」と突然メールをした沖縄不動産文庫から採用の連絡をもらうことができたので、結果オーライ。しかし、経験無し、資格なし、年齢は40を越えている私を受け入れてくれるなんて、なんておおらかな会社なんだろう!感謝しかない。。

土日だけ、那覇に行けばいいじゃない

今の職場の引き継ぎは、中途半端なままで終わりそうな予感。引き継ぐ途中で同僚の一人がこう言ってくれた。実はこの1年でツレの赴任先に行ったのは実質1回。週末に国内外の出張やイベント勤務などで「今週来られても困る」と言われることが多かったから、年末年始に高雄に帰った時だけ。

今までのサイクルを変えないとツレに会えない!と本気になったのだ。じわじわと水面下で計画を進めた。ほぼだれにも相談しないまま。ツレからは「できればこっちに来ないで欲しい」と言われていたし、正直自分の年齢で就職できるかどうか不安だったのもある。

面白いことだけ、しよう

「帯状疱疹を2回も、半年以内にやるのは尋常じゃない」と皮膚科の叔父に言われた。体重が減りすぎたのでは?と危惧されたけど、自分の中で原因は明確だった。

今の環境を変えたい!

自分がこのまま進んでいってもまた病気になるだけなら、お金にならなくても面白いと思う方に進んで行ったほうが自分のためになる。人生80年として残りの40年をどうやって生きていきたいのか、40歳という年齢で岐路に立ったのも大きい。

お金のこと

不安材料は費用。家のローンが残ったまま、赴任地の家賃も払う。車が必要な土地だから車も買う。沖縄のバイトの時給は800円。私の今の貯金で何年まかなえるだろう...。電卓を叩いて「2年はなんとかなりそう」という試算に。去年の秋からつけていた「なんちゃって家計簿」が役に立った。

やってみるか。

そう簡単に私たち夫婦は死なないようにできている。多分。生き延びる力が自他ともにあるとこの13年間で勘づいている。困ったら不思議と誰かが助けてくれる。高雄に帰るのも近くて安くなる。

やりたいこと

新しい仕事に向けて自分が本当にワクワクしている。「東京R不動産に影響を受けて始めたんです」とウキウキ語ってくれた社長の顔が、会社の幸先が良いことを示してくれていた。写真が下手です、とかもう言ってられない気がする。

ヨガのCathy先生に習いに行ける。「ああ、きっとそこの会社に受かりますね。働いてる姿が浮かびますもん」と卒業証書のような花束をもらいながら言ってもらったのが、会社面接当日の朝ヨガの時。Cathyさんに言われた言葉をお守りに受けにいって、結果OKだった!ミラクル☆

身体に優しい生き方をしたい。寝る時間、起きる時間、食べるもの、過ごす人。自分が無理なく呼吸できる環境でいたい。関東で暮らしていてもできることはやっていたけど、2人になれば強さが増す。温かいところで暮らしたかった。

沖縄で住んで仕事したかった。高雄の暑さもそうだけど、寒いより暑い環境が身体に合ってると思って、腰を上げられずにいたこの20年ほど。ツレのおかげで実現できる。ありがたや〜。

先のことは誰にもわからない

「戻ってきたらまた働かせてください」と言っても笑ってもらえる今の職場にも感謝。必要とされていたんだなぁ〜って今更実感。

来年にはオリンピックがある。その時に東京にいたくないなぁって思っていたら実現しちゃった。オリンピックは見てみたいけど、混乱したり混雑した都会にいたくなかった。ツレは仕事上、関わることになるかもしれないけど、それはそれ。

タイミングよく、元号が平成から令和に切り替わる。なんとなく新しい自分になってもいいころかもしれない。ちょっとしたことに怒りっぽくて飽きっぽくてふわふわ生きてる自分のまま。

サポートありがとうございます! 私に書くことの喜びを感じさせてくれて 心から感謝します。大切に使わせて頂きます(^-^)」