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【LIVE】2020/11/1GRAPEVINE FALL TOUR(神奈川県民ホール)

2020年11月1日、なんと226日ぶりにライブに行った。観に行ったのは「GRAPEVINE FALL TOUR」の初日。会場は神奈川県民ホール。

手放しでは喜べなかったツアー

ライブに行かない日常に慣れてきたところでの初の有観客ライブ参加である。ツアー詳細が発表されたのは9月19日。奇しくもバンドがメジャーデビュー23年目を迎えたおめでたい日に発表された。Twitterを開けば、歓喜のタイムライン。粋なことするなぁと、普段通りの生活をしていればそう思ったのだろうけど、コロナへの不安が拭い切れない私は手放しでは喜べなかった。ただ発表された3公演ともに会場がホールで、制限を設けての開催であることから、絶対的な安心は正直持てなかったけれど、いや、それでも…と躊躇いながらもチケットを申し込んだのだ。

迎えた当日。入場は時間差で行われるとのことで、指定された時間に県民ホールまで赴くと、スタッフの声掛けに合わせゆっくりと中に入った。その間に検温され、チケットを見せると今度は半券を自分でもぎり、それをビニール袋に入れる。もちろんアルコール消毒液も設置してある。ライブの物販は通販オンリーにしているバンドも多いが、バインの場合は(もちろん対策をした上で)会場でも行われ、それなりに賑わっている。ファンをざわつかせたショッピング・バスケット(買物かご)はなんと売り切れたらしい…。ツアーは3日に大阪、7日は東京・中野で行われるが、ポスターらしきものはロビーの壁面には貼ってない。だいたい一つや二つは飾られているお花もない。これも写真撮影回避、つまり混雑を防ぐためだろうか。

そしていざドアを開けるとレトロなインド~ラテン系の曲がSEとして流れていて思わず吹き出しそうになり、緊張どころか逆に気が抜けてしまった(ちなみにライブ終演後も同じSEで以下同文。誰のセレクトだよ!)。座席は両サイド一席空いていて、それが前後でずれている市松模様スタイル。ライブが始まってからは両隣が空席だからこそゆったりでき堪能したが、開演前までとにかくこの見慣れない市松模様が落ち着かなかった。久しぶりのライブで、しかも待ちに待ったGRAPEVINEのライブを観るというのに、自分でも信じられないくらい実感が湧かない。なぜだろう?しかし、ステージの上には見慣れたいつものバンドセットがセッティング済みだ。

係員のアナウンスが入った。観客はマスク着用。大きな歓声を上げることは禁止だが、その代わりに拍手をお願いします、など。そして場内が暗転しステージが明るく照らされると、長く盛大な拍手がステージに送られ、GRAPEVINEのメンバーが登場!その瞬間はさすがに目の前が潤んでしまったけど意外な曲がライブのオープニングだったから、涙はすぐ引っ込んでしまう。タイトルは某タバコの銘柄、それを1曲目になぜ持ってきたのかと考えつつニヤニヤしながら聴いていたら、2曲目のギターのイントロが鳴り響いた途端に、涙が堰を切ったように流れ出した。思えばベタな選曲だ。でもこれが重要なのだ。彼らの物語が終わりじゃないことを私は実感したかったし、きっと今日県民ホールにいる人達もそれを確かめるために集まったと思うから。その想いに応えようと、バンドはとてつもない説得力を放ちながらホール一帯を力強く包み込んだ。これにはもう嗚咽である。

「音楽もライブも、人が生きていくためには絶対的に必要なものではない」コロナ禍に入ってから行く予定にしていたライブの延期や中止のアナウンスを耳にするたびに、そうなのだと言い聞かせてきた。しかし8月あたりから有観客のライブがポツポツと開催され、観に行きたいライブもいくつか発表された。でも行けなかった。何が正しくて何が違っているのか、判断が全て観に行く側に委ねられているからこそ迷い、不安になった。私には、ライブに行かない生活に慣れる必要もあるのかもしれない。そんな風に思う自分は、コロナをきっかけに人が変わってしまったのだろうか?特にここ数カ月はこんな葛藤を心の中で繰り返していたけれど、本当は失われたものを取り戻したかった。ライブに行きたかったのだ。その気持ちが全て涙に変わり流れていった。

「GRAPEVINEですっ!」MCの最中に田中さんは大きく両手を広げて、そう言った。その一言には「ただいま」「ようこそ」「ようやく」などとたくさんの想いが詰まっている気がして、鼻の奥がツンとしてしまう。バンドのライブは昨年10月に都内で行われたイベント以来、実に1年1カ月ぶりのライブ。最近は多くのバンドやシンガーが配信ライブを行っているが、GRAPEVINEの場合、バンドとしては過去のライブ映像をYouTubeでプレミアム公開しただけ。「バインもやったらいいのに」。私は何度もそう思ってきたが、未だに行う気配が見えない。でも彼らがライブにこだわる理由は、3曲目以降に解き明かされていくのだ。

セットリストに込められた想い

会場がホールであることと「FALL」(フォール、つまり季節の秋)を掛けた(?)今回のツアーでは、ホール映えする幻想的な照明演出が施された曲や季節感を味わえる切ない曲のセレクトももちろんあった。が、それとは別に何か裏コンセプトがあるのではないか?と勘ぐってしまうほど今回のセットリストに私は脱帽してしまった。

田中さんの綴る歌詞の目線は上からでも下からでもない。「偉そうなことを言うと、それが自分に返ってきそうな気がする」と、かつて歌詞について聞かれたインタビューでこのようなことを話していた通り、それが社会風刺であったとしても彼の手に掛かればクスっと笑えるユーモアに変わる。また今年発売された文學界7月号に掲載されたエセー「群れず集まる」の中では「勇気を与えることや聴いた人を元気にさせたい等の、おこがましく傲慢な動機で物を作ることを禁じている」と吐露しているが、彼の精一杯がささやかな光を描くことだとしても、そこに確かな愛は込められている。そんな、どこか控え目に映るGRAPEVINEの描く世界観、そこから垣間見える田中さんの価値観に激しく心を揺さぶられたのだ。

霞ヶ関に群がり出す政治家に呆れた日々。報道の在り方に疑問を持ちながらもなぜか観てしまうワイドショー。不安な朝、電車は今日も満員だ。きれいはきたない。きたないはきれい。ねぇワクチンは、いっそうのこと魔女に頼んでしまえば?なんて冗談を言える余裕は微塵もなくて、遠くの君を思いながらそらを見上げることしかできない日が続いた。緊急事態宣言が解除されると、少しずつ日常が戻ってきたように感じた。世界のどこかでは喜びに溢れているのだと信じていた。すると、悲しい出来事が起きて、喪失感と戦うことになった。目の前にあるありふれた光を見つめようとした。自分にとっての幸せとは何か、何が一番大切なのかを考えた。

次々と披露される新旧の楽曲を聴きながら、私は自分のことを振り返らざるを得なくなる。「なんだか、見透かされているなぁ…」そんな気分でいたら、2011年4月に開催された「真昼のストレンジランド」ツアー、東京・新木場STUDIO COAST公演のアンコールで披露されたあの曲が始まり大粒の涙が頬を伝う。9年前、新木場でこの曲を聴いてやっと「泣けた」感覚があった。でも当時よりも、今の私が生きる世界のほうがシビアだ。歳をとって解ってきたことが増えて、踏ん張らなくてはならないことも増えた。私は顔を両手で覆うようにしてライブを観ていた。そして、またここでようやく弱音を吐き出せた気がした。葛藤も、憎しみも、哀しみも全て出せる、ここはそれが許されている唯一の場所なんだ。《あなただけ/ 見失わぬよう/手 離すなって》。離してたまるかーーそう強く誓ったとき、自分が今ここでGRAPEVINEのライブを観ていることを偶然ではなく必然なのだと、思わずそう強く信じたくなった。

誰よりもロックバンドを信じているロックバンド

再びMC。田中さんは件の買い物かごについて触れ「そんな私も週2、3回はスーパーに通っている」という世間話のようなMCをしつつ5人で久しぶりにステージに立てた喜びを誰よりも強くかみしめていた(実際は「羨ましいだろ!うんたらかんたら(聞き取れなかった)」といつもの調子で言い放つ)。その姿からは、彼がGRAPEVINEというロックバンドを信じている気持ちが伝わってきた。今日を誰よりも待ちわびていたことも。

だっていつも以上に、嫌になる程田中さんの想いの全てが、歌声として、1階席後方から観ていた私の心にも届くのだ。そして、約1年のブランクを感じさせない圧倒的なバンドの演奏からも、ステージに立てた喜びがビシバシこちらに降りかかってくる。気合いの入りようが半端なかった亀ちゃんのドラムからも。唯一無二の存在感が凄すぎて嫉妬しそうになった西川さんのギターからも。ツアー初日かつ久しぶりのライブであるし、多少のミスはあったのかもしれない。けれど、全く気にならないくらい完璧な演奏だった。思えば、現体制(オリジナルメンバー3人+金戸さんと高野さんのサポートメンバー2人)で活動し始めて20年近くが経つ。なのに、互いの才能を高く評価しながらコンスタントにアルバムを作って、いつもケラケラ楽しそうにライブしているこのアラフィフバンドが、コロナのせいでステージに上がれないなんて。一体、どれほどキツイものだったのかを書きながら考えていたらなんだか泣けてきた、今になって。

そして、ライブが進んでいくうちに勘が戻ってきたのか、後半からアンコールにかけて「これぞバインのライブの醍醐味!」と言わんばりの熱いグルーヴが渦を巻き始めた。ホール一帯に爆音が鳴り響き、地鳴りのような低音が床を伝い私の座席まで届いてやっとGRAPEVINEのライブを観ている実感が湧く(遅い)。徐々に上がっていくバンドの体温を全身で感じながら、はっきり言ってこの感覚は配信ライブでは伝わり切れないとを痛感。「あぁ」と納得する。もしかしたらバイン側もそれをわかっているから、配信ライブを行うことを避けているのかもしれない。

何も無くても 意味が無くても

私がこの日観たものは、ロックバンドであることを肯定する姿勢、ロックバンドだからこそ社会に強く抵抗できる音楽表現だった。ただGRAPEVINEは基本的にご時世的なことを「発言しない」「触れない」バンドだから、このテキストは私の自分勝手な妄想であり、こじつけなのかもしれない。でも、それでも20年近くバインのライブに通い続けてきた私の胸に、神奈川県民ホールで観たライブの一部始終が深く胸に突き刺さっていて、しばらく抜けそうにないのは、彼らなりにコロナ禍を解釈し今鳴らすべき音を鳴らしてくれたからだ。私はそう思っている。

音楽もライブも、人が生きていくためには絶対的に必要なものではない。だけど私は誰かにとっては不要なものをこれからも信じたいし、愛し続けていきたい。それに意味などなくても、ただそれだけでいいんだよなあ?だって、世界を変えてしまうかもしれないし、今のきみは笑うかもしれないから。



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