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ただ、唄えばいい。それでいい。


27.28歳
"一番身体が動くとき"
というのは、自分の"思うまま"に動かせるという意味だと思っている。今が一番色んな意味で自由というか。
学生時代とは全然違う世界、社会人5.6年目。
ある程度自分の考え方や価値観が本当の意味で見えてきて、決まってくる頃。
高校生の頃からバイトをしていた私は10年以上"働く"ということに携わっていることになる。
同じ職場の人、お客さん、上司や後輩とのコミュニケーション、仕事へのモチベーションだったり、向き合い方だったり。礼儀やマナー
"社会へ出る者であれば当たり前にできること"がある。あるのだそうだ。
"社会人にもなって"、"いい歳になって"
『そんなこともできないのか?』
ある程度の"普通"という水準から逸れないようにみんな学校や会社、自分の部屋から出たもう一つの世界で生きなければならない。
そんな中で、この世界を1つにするためにはどうすればいいだろう?何がしたいのだろう?と昔から考えている。
きっと私はこの"2つの世界で生きる"ということがどうしても難しいのだと思った。
そもそも別世界と思っている人も少ないのかもしれないけど。
個人の価値観を尊重することってそんなにも難しいことなのだろうか?
『みんなそうしてるんだからあなたもしなさい』の怖さはじわじわくるし、根強く傷跡として残る。
何歳だろうと関係なく、人が生きている空間に根強く染み付いているのだ。
そうすることで成長したのだという実績のあるもの、安心できるものに縋っているように見えてしまう私はひねくれ者かなあ。
それって誰の言葉?というフィルターは休まることなく働いている。


"やさしいせかい"は自分で作る必要があると思う。作ることができるという表現の方が好きだけど。
もしくは誰かの作ってくれたそのせかいに飛び込むか。
私の場合2つある世界を1つにするというより、1つに戻すという感じ。
サードプレイスなんて言葉があるほど、自分がいるせかいは1つじゃなくていいんだけど、元々別れていた、離していたせかいを"元に戻したい"という感覚があるんだよなあ。
これだけは傷つけられまいと、必死に守ってきた"唄う"ということを徐々にだけどもっと解放してあげたい。
自分の作る"やさしいせかい"で唄えることが何よりの幸せで、その幸せが誰かに流れて、繋がるのなら、それは本望だ。


なんのために、なにをつたえたいのですか?
表現という道を進むものに立ちはだかる、ときには壁のような威圧感を感じるこの質問だけど、すぐに原点に戻れる。戻してくれる。
ああ、そうだ私はここにいる。
なんのために、なにをつたえたいのかわからないから唄っている。これも素敵だと思う。もちろん逆も然り。
きちんと明確なものがないのならないで、それでいい。
でも待っていても何もないというのは覚えておかなければならない。
どこへ道標を置くかは、自分が決めればいい。決めていいものなんだよ。
そこに何もないから唄って、どこかへ行こうとしている。
ただ、唄えばいい。それでいい。



Coco



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