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個性が欲しいってなんだろう





人との会話で困ること。
処理する情報量が多くて飲み込むまでに時間がかかる。
だからその量に差があったりするとあれ?って思う場面が結構ある。
ここまでしなくていいんだとか。
幸い、ここまでしなくちゃいけないんだとかは無くなった。
無くした方がいい。無くなればいい。
そこか!って部分が合わない人とは仕事できないなとか。
それもそのくらいやったから言える言葉であるから"そのくらい"やらなきゃいけないって思ってる。


その中の核を早く見つけられる人になりたい。
量よりも質なのはどの場面においてもそう。
これは余談だけど、量が少ないと心配してしまうような小心者は強いなと思っていて、それは最初からやることが前提な人たちで、そこに情熱を注げる人だから。
果たして"質"とは何なのかを考えればすぐにそうなれるんだと思う。
そして自分の中の"普通"を"異端"と認められた時に今すぐ発動できる充分な"個性"だなって。
異端の良し悪しを言うのではなくて、個性が欲しいって人に当てはまるなと思う。




そもそも個性が欲しいってなんなんだろう。
もう生まれたあのときから私たちは"個性"だと思う。
個性の塊だ。
じゃなきゃ社会なんて出来ないし、国なんて成り立たない。
皆平等なところから"社会"が出来たとするならば"社会"を作ったのは私たちと同じ人間なわけで、その社会に乗っかってるっていう感覚だからグラグラして不安定なんじゃないかなって。




社会は大きな川のように思っていて、入れば流されて下まで落ちて緩やかな流れで落ち着く。
上流で流されずに渡りきるには大きな支えが必要だ。
そして自分の身体を支える自分の足と、判断力。
どうすれば進めるのか、転ばないか、踏ん張る力。
飲まれないようにする、飲まれてしまえばいい、判断するのは自分自身だということ。
社会は私たちを飲み込むものではなく、枠組みとしてあるだけのように思う。
その枠組の世界と、その外ではまた世界が変わる。
それだけ自分で作った空想の世界を中心に動いているということがわかる。
またはその空想の世界をどれだけ色濃くしていけるか。



そして、外から受けた刺激をその世界に取り込む時色々な作用が働く。
何重にもなっている層のどこまで入って、吸収するのか弾くのか、消えるのか。
またその世界と自分の距離感でも全然違うなって。
人がどこまで求めていて、何を欲しているのか、そしてその人が気づいてないところまで潜ってそれを時には引き出してみたり、知ってても黙ってみたり。
だからすごい頭に力を注いでる。というより脳になのかな。
会話って神経擦り減るけど、擦り減らさないと増しもしないし、自分の心と話すよりかは人と話した方が、第三者と話した方が整理されるんだよな。
誰でもいいわけじゃない。
自分のことを知らない人と話すことが必要な時もあるけど。



噛み砕く処理能力は一種の割り切りというか。
言葉一つ一つに纏われているものを解くのに時間がかかるというか。
それは難しい言葉を使えばいいっていうことではなくてその上で感情や、その人独自の感覚、物の捉え方が乗っているとすごく楽しい。
テンションが上がって頭の回転も良くなるんだよな。
だから賢い人といるとまた賢い人と出会えて、似てる人と多く付き合うようになる。
やっぱり、人との会話って大切だなあ。あと太陽に浴びること。
処理能力が遅いこと、いちいち圧倒されてしまうことは欠点ばかりじゃない。
自分がそうであることを自覚してそれを軸にして動けば短所も長所に変われるなと思う。






Coco.




#エッセイ #コラム #polyhedra



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