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空虚が私を探すきっかけになる





『よく人を見てるね』と言われる。
なんとなく初めましての人でも体調の良し悪しがわかったり、人としての厚み、オーラは目に見えるものではないけどなんとなく感じている。
人としての厚みがある人からは『気の張り詰まったピリピリ』、そんなものを感じることが多い。独特の雰囲気がある。その人の人格を知るには数えきれないほどのツボの中からこれだ!と見つけ出す判断と決断、経験だったりそれを見つけたとしても言葉にする勇気が私にとっては必要だったりする。
その見ているものが例えばその人自身で作り出した虚像だとしてもそれが『カリスマ性』と呼ばれたりもするのは"不完全さ"があるからなのかなとか、そんな人間観察をよくする。
決めつけるのではなく、"正直よくわからない、でもわかる気もする"そんなどっちつかずのままの感覚が心地いいときもある。誰が誰を決めつけることもできないし、するものでもない。
肯定否定される、または肯定否定し合うことでそこに在ると証明されるのかもしれない。そっちの方がわかりやすいからそれを求める人も多い。でもただ呼吸をしていること、『今ここで生きている』それだけでもすごいということを私は念頭に置いている。
これは極論だけど、自分のことを全て理解できる人なんていない、むしろいなくていいとも思っている。その人を"全部理解している"と思ってしまうことこそ理解していないと言ってもいい気がする。空虚が私を探すきっかけになる。こういってしまうと少し寂しいようにも聴こえるけどそうではない。私にとっての"理解する"というのは誰と関わる時も、お互いに"歩み寄り続けること"だと思っているからだ。それは点と点が繋がるように、交わることはなく、お互いの心地いい距離感のまま同じように歩いていける、お互いの歩くペースを保つ、そんな関係がお互いを"理解している"だと思う。自分でさえ知らない自分を見てくれている人がいればそれでいい。自分が迷った時に軌道修正してくれるような、メンターのような存在。この思想を共有できる、そんな人と出会えるのは奇跡だと思うし感謝でしかない。友達でも恋人でも家族でもみんな同じ。"私"を見てくれている人がいてくれたらそれでいい、そう思っている。そしてその人たちにとっても私がそう在ることができるようにする。
ずっと穏やかに過ごすことが本望だけど、少しの余裕があるとき、心を安めることができれば、口にしたくないことも胸を締め付ける感情にも出会わない。
もっと興味のあるものだけに力を注げばいい。いちいち物音や人の気配を気にすることなく、言葉を蔑ろにしないで真っ正面から向き合っていたい。唄を唄いたい。自分が自分を俯瞰してみる視界をブワッと広げてどんどん小さくしていく、そして残った言葉や物、感情が私だ。自分の声を信じよう。無視しないでいよう。そうしてまた残ったものたちが私を創っている。





Coco





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