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コトノハ 第六話

香月は驚きの表情を全く隠すことなく、透の隣にすとんと腰を下ろした。
「ねえ、覚えてないかな? 私、第八中で一緒だったミヤマカツキ」
透は突然そう言われて、ぎこちなく「はい?」と返すのが精いっぱいだった。香月は構わずに続ける。
「人違いだったらごめんね、でもそうでしょう? 沢村くんでしょう?」
「香月ちゃん、特盛りがのびちゃうよ」
香月をけん制するように神谷がいうと、「あ、そうだった」と彼女は山のように盛られたナポリタンの置かれた席に戻った。こうなれば香月の関心は、目の前のナポリタンを元カレだと思ってどうやって食べきってやろうかという復讐心に移り変わる。
「あの」
美咲がそっと透に声をかけた。透がまるで警察から職務質問でも受けているかのように身を縮こませているものだから、美咲はそんな彼の緊張をほぐそうとにっこりと笑ってみせたのだ。
「ご注文、お決まりですか?」
「あ……」
空腹を思い出した透の胃袋が再びSOSを出す。美咲が「おすすめでいいですか? ナポリタンとガトーショコラ、からのブレンドコーヒーのコンボ! 最高ですよ」と明るい表情で提案してくれた。それでも透は「じゃあ、それで」と返すのでいっぱいいっぱいだったが、美咲が「マスター、おすすめコンボ一つ!」と発した声をきっかけに、周囲の視線が自分から逸れていくのを感じ、内心でほっと胸をなでおろした。
柱時計の鐘が2回鳴って午後2時を報せた。透はカウンターで身を固くしたまま、じっと姿勢よく料理が出てくるのを待っていた。それから少しの間、神谷はフライパンでナポリタンを作り、美咲はガトーショコラを盛りつけ、朋子は別の席で数学の参考書を広げ、ヨーコはベールの奥で読書をしていた。香月といえば「うおー」だの「このー」だのと言いながら、一口も残すまいと特盛ナポリタンと格闘している。
マグが大きなあくびをした。
やがて神谷の合図に気づいた朋子が席を立ち、手際よくナポリタンを透のもとへ運んできた。
「お待たせいたしました。名物たまねぎナポリタンです」
「たまねぎ?」
反射的に問うてしまった透はやはり反射的に「すみません」というのだが、神谷はいえいえ、と穏やかな口調で彼の疑問に答えた。
「このあたりは昔からたまねぎが名産でね。もともとはラーメンに刻んだ生のたまねぎをのせていたんだけど、まちおこしの一環で生まれたのが『たまねぎナポリタン』。よく混ぜて食べてね、たまねぎが甘くておいしいから」
新鮮な生たまねぎのみじんぎりに、しっかりと炒められたベーコンとピーマン。神谷の話ではベーコンも地元の肉屋から仕入れており、地産地消を心がけているのだという。
アルデンテより少し柔らかめに茹でられた太めのスパゲッティが、ケチャップを中心にしたソースにしっかり絡んでおり、ほんの少し焦げている部分からは程よく香ばしいかおりがする。
透は喉をごくりと鳴らした。しかし、いつまでたってもフォークを手に取ろうとしない。不思議に思った美咲が、「冷めちゃいますよ」というと、透は遠慮がちにこう返した。
「すみません」
「どうしました?」
「あの、許可を」
「許可?」
「……すみません、なんでもないです」
伏し目がちな透に、それでも美咲は笑顔を向けた。
「美味しいものは美味しいうちに食べてほしいです。このあとまだガトーショコラとブレンドが待ってますから、覚悟してくださいねー」
おどけた表現をする美咲に、朋子は鈴が鳴るようにころころと笑う。相変わらず硬い表情の透だったが、ナポリタンを一口食べると、とたんに体がまるで歓喜の声を上げているがごとく、フォークを持つ手はどんどん勢いをつけて止まらなくなった。
美味しい。素直にそう思った。空腹が美味しさを倍増させているのかもしれないが、人の手仕事によって作られた一品は、透の硬縮した気持ちをひどく揺さぶった。長らく病院食かコンビニ食しか食べてこなかったせいかもしれない。病院食は栄養バランスこそ優れたものだったが配膳に並んで決められた時間内に一斉に食事を摂ることは無味乾燥だったし、コンビニ食は味こそクオリティが高いがどこまでも孤食である。人の手の体温を感じる料理を食べたのは、果たしていつぶりだろうか。
「いい食べっぷり」
神谷が嬉しそうにすると、透は何度も「はい、美味しいです」と首肯した。あっという間に皿が空になって、透はなかば呆然と息をついた。すぐさま「こちらもどうぞ」と美咲がガトーショコラを持ってくる。大ぶりに切り分けられたガトーショコラがパウダーシュガーでお化粧され、添えられたクリームの上にはミントがひとかけのっていた。
「当店の自信作です」
「すみません」
「えっ、なにがですか?」
「いえ、ごめんなさい」
「いえいえ」
透は丁寧に盛り付けられたガトーショコラをしばし見つめた。
「……きれい」
意識せずに、そう呟いていた。神谷はそんな透を視界の隅に入れながら、機嫌よくブレンドコーヒーの支度をはじめていた。

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「ごちそうさまでした」
食事を終えた透は、じっと手を合わせた。「ゆっくりしてってね」と神谷が伝えると、透はこうべを垂れた。
「あー、やっぱりだめだ」
背後で朋子のぼやきが聞こえてきた。
「数学ってどうしてやらなきゃなんないんだろう。物理って理解できて何か意味あるかな?」
参考書の同じページの同じ個所に何度もシャープペンシルの跡がついている。朋子は口元をあひるのようにしてしかめっ面をした。
「やっぱり、そこでつまづいちゃうんだね。展開のところ?」
「うん……」
朋子があきらめ顔で参考書を閉じようとすると、ふと透がふり向いた。
「もしかして、数式の展開ですか」
「えっ?」
「……すみません、いきなり」
一瞬だけ驚いた朋子だったが、すぐに何かを彼女は直感したらしく、透に向かっていった。
「お兄さん、もしかして数学わかりますか」
「えっと、その……」
透が口ごもっていると、特盛ナポリタンとの格闘を終えて勝利した香月が、スマホをいじりながら「やっぱり沢村くんだね」と話に割り込んできた。
「市立第八中学校きっての秀才、沢村生徒会長。本当に覚えてない? 私、おんなじ生徒会で書記やってた三山だよ」
「すみません……」
「覚えてないかあ。残念」
香月は怯えたような様子の透に構うことなく続ける。
「懐かしいな。沢村くんと違って私は凡人だったから、入れる都立高校に行ってね、そのあとは介護福祉士になりたくて社会福祉学部のある大学に行ったの。今はこの近くの『とまりぎ』って老健で働いてるんだ」
「そうですか……」
「今の配属はデイケアでね。今日みたいに休みの日にはよくここに来てる。仕事は、まあ楽ではないけど楽しいかな」
「そうですか……」
透は相槌を打つのが精いっぱいだった。冷や汗が額に浮かんで、鼓動も徐々にだが不穏に早くなっていく。
「沢村くんは、今は何してるの?」
香月には一切悪意がない。それが却って透にはしんどかった。
「特に……」
「えっ?」
透は、蚊の鳴くような声をどうにか絞り出した。
「特に、何もしていません……」
コトノハのドアベルが鳴ったような音がしたが、少し強めの風に揺られただけだった。ベールの奥からヨーコが少しだけ険しい表情で透と香月の様子を見ていたことに、マグ以外は誰も気づいていないようだった。

つづく →

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