【連載小説】見習い魔女は魔王様と①
第一話 おばあちゃんの呪文
病床に伏した祖母が、自分はもう長くないと察し、手書きのメモを遺したのは、リコが小学5年生のときのことだった。
「今はまだ、読んじゃだめよ」
街はクリスマスムード一色で、まるでこの世界に憂く出来事が何ひとつないかのように、あけすけに浮足立つ雰囲気に満ちていた。リコとリコの母は、それをひどく疎ましく感じていた。
しかし、当の祖母は最期までそんなことはどこ吹く風だった。むしろ、「イルミネーションに見送ってもらっているようで、心地いいわ」とさえ言っていた。
祖母は年を越せなかった。故人の意向で、葬儀は近親者のみでこぢんまりと執り行われた。つまり、リコとリコの両親だけが参列する形で、市の貸し出す施設を使用して。ひょっとしたら、葬儀会社のスタッフの人のほうが、多かったのではないだろうか。
父は、祖母の訃報を受けて職場から駆けつけてから、ずっと泣いていた。懸命に、何度も鼻水をすすっていた。葬儀の最後、棺桶に横たわる祖母の頬に、祖母の愛した真っ赤な薔薇を添えたとき、母は「スン」と軽く鼻を鳴らした。リコが母の涙を確認できたのは、この時だけだった。
リコといえば、ものすごく悲しくてやりきれなくて、心に埋めようのない大きな穴がズン、と穿たれたような空虚感にすっかり覆われていて、まったく泣くことができなかった。
初七日が過ぎるまでに、済ませなければならない手続きは非常に煩雑だ。父はどうしても仕事を抜けられないということで、すべてを母が担った。もちろん、学校から帰ってきたリコが書類のコピーを取ったり、ファイリングの整理などを手伝ったりはしたのだけれど。
街が春待ちの姿勢に入るころのこと。テレビでは桜の開花予想が流れるようになり、リコの住む街は3月20日ごろだろうと報じられていた。
「おばあちゃん、桜好きだったっけ」
食卓でリコが問うと、母はうーん、と箸の手を止めて答えた。
「桜よりは、薔薇が好きな人だった。特に真っ赤なのが、よく似あってたわ」
「そっか」
それから跳ねるように月日は流れ、やがてリコは大学生になった。特に将来の目標などがなかったので、受かりそうな大学の、受かりそうな学部を選んだ。受験勉強はそれなりにつらかったが、(そういうものなんだろう)とやり過ごした。
周囲がそうするからサークルに入り、周囲がそうするからアルバイト(大学近くのファストフード店)をし、周囲がそうするから彼氏を作った。
リコは大学近くに、学生向けのアパートを借りて一人暮らしをしていた。だから、彼氏ができるということは、そういう体験をするのも時間の問題なんだろう、とは思っていた。
ところが、彼氏と付き合いはじめて2か月も経たないうちに、吉祥寺の喫茶店「ゆりあぺむぺる」で、リコは振られた。壁に飾られてた絵画にすっかり見入っていたので、リコは最初、彼氏の「別れよう」を聞き逃した。
「あ、ごめん。なに?」
「そういうところ、しんどいから」
リコはあっけにとられて、目の前のクリームソーダをストローでくるくるさせた。「それじゃ」と彼氏が席を立ち、自分が注文したコーヒーの分だけの会計を済ませて去ってからも、リコは鳩の目でしきりにまばたきをしながら、クリームソーダをかき混ぜていた。
生まれて初めての失恋は、なかなかにしんどい経験だった。世の中に失恋ソングが絶え間なくリリースされる理由が、よくわかった。アパートに帰りベッドにダイブすると、リコは化粧も落とさずに夜通し、わんわん泣いた。
悔しかった。祖母が亡くなったときには一滴も出てこなかった涙が、こんなにもあえなく流れることが。あまりにも泣きすぎて、呼吸まで歪んできてしまった。息苦しくて、このまま消えてしまいたいとさえ願った。
――私が消えたら、誰か泣いてくれるかな。
満月の夜だった。でも、そんなことはリコにはどうでもよかった。すっかり打ちひしがれていたリコは、遺書でも書いてみようと思い立ち、実家から持ってきたカラーボックスから、お気に入りのミドリのレターセットを探した。
すると、アルバムやファイル類のすき間から、薄ピンク色の4つ折りになった、小さな紙片が出てきた。
あ、とリコは目を留めた。昔、祖母が渡してくれたメモだった。
「本当に必要だと心が叫んだとき、読んでね」
考えるより先に、手を伸ばしていた。どう考えても、今しかなかった。縋るような気持ちで、リコはメモを開いた。
そこには、達筆な祖母の肉筆で、こう書かれていた。
「lululu Bucurați-vă de lume.」
どうも英語では、なさそうだ。リコはスマートフォンの翻訳サイトにアクセスし、メモの文字列を、まるで宝箱を開けるような気持ちで慎重に打ち込んだ。この言葉は、どうやらルーマニア語で、
「ルルル 世界を楽しみなさい」
という意味らしかった。リコはその言葉に吸い寄せられるようにして、ほとんど無意識に、声に出していた。
「lululu Bucurați-vă de lume.」
満月の夜だった。そんなことは、その日のリコにとってどうでもいいはずだった。けれど、リコはその言葉――祖母の遺した、とっておきの呪文――に導かれ、この先に待ち受ける、とても奇妙で、しかも唯一無二のきらめきを放つ、そんな未来を、否が応でも確信せざるを得なかった。
リコには、見えたのだ。全身を巡る己の血液が、肉体という檻を逃れて華やかに飛び散り、その一滴一滴がすべて、深紅の薔薇の花びらへと姿を変えていく。舞い踊る花びらがやがて大きなうねりとなって、リコを、この部屋を、この街を、世界すら容赦なく包み込んでいくのを。
それは一瞬の幻ではあったが、深く鮮やかにリコの認識に刻み付けられた。
呪文を唱えた唇が、じんと震えた。リコはハッとしてスマートフォンから顔を上げた。六畳一間の小さなアパートに、その影は突如として悠然と差した。まるで、そうなることが遥か昔から運命づけられていたかのように。
だから、リコの視線の先に、漆黒のマントで身をくるんだ碧眼の男性が現れても、リコに動揺や驚嘆はなかった。それよりもリコは、彼のその透き通るサファイアのような瞳の色に、すっかり見惚れていたのだ。
②につづく↓
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