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コトノハ 第七話

透のただならぬ雰囲気にこれ以上は問うべきではないととっさに察した香月は、
「そうなんだ。まあ、いろいろあるよね」
とはぐらかすように笑った。透は跳ね上がってしまった動悸をどうにか抑えるため、ぎこちない手つきで懸命に胸元をおさえている。
「大丈夫?」
香月の心配の声に、しかし透は首を横に振るばかりだ。
「すみません……」
「なんで謝るの」
「お水を、ください」
香月はハッとして「美咲ちゃん、お水ちょうだい。氷抜きで」と声をかけた。香月の視線は透がポケットから出した小分けの半透明の袋に向けられていた。中身は数種類の錠剤だとすぐにわかった。服薬時に水に氷が入っていないほうがいいことは冷静になれば誰でもわかりそうなことだが、即座にそれを判断した香月は、一端とはいえ現場の人間ということだろう。
「ごめん。私ぺらぺらうるさかったよね」
「いえ……」
『昼食後』と書かれた袋をどうにか破り、押しやるようにして錠剤を口に放りこむ透に、美咲も不安げな表情でそっと常温の水が入ったグラスを差し出した。水を受け取った透は、一気に錠剤とともにそれを飲みくだした。
それからほんの少しの間、コトノハには奇妙な沈黙が降りた。柱時計が針を進める音だけが響いたが、それはまるで透の気まずさを代弁しているかのようだった。
その空気を裂いたのは、他でもない透本人の一言だった。
「……すみませんでした」
呼吸が平常に戻ったようではあったが、自分が場の雰囲気をひどく乱してしまったと感じた透は、すっかりうなだれてそう呟くのだ。
ごく自然なこととして、人間は常に最適解を導けるわけではない。むしろ間違った選択をすることのほうがずっと多い。しかしその現実を差し引いても、今この場の彼になんと声をかけるのが正しいのか、その場にいる誰もが考えあぐねていた。
そんな人間たちの様子に業を煮やしたのだろうか。クッションから跳ね上がるように起き上がったマグが、なんの躊躇もなく透の前にやってきて、黄金色の両目で彼をじっと見つめてきた。
「え……」
まるで睨みつけられているようだ。訝しげな表情の透に対し、それからマグは間を置かずに容赦ない猫パンチを繰り出した。
「わっ、痛っ」
ボクサーのジャブのごとく、マグは繰り返し透の鼻先に肉球をぷにぷにとあてる。
「ちょっとマグ、なにしてるの!」
美咲が慌てて駆け寄ろうとしたが、マグが「シャーッ!」と激しく鳴いて「来るな!」というメッセージを発した。
「え、え?」
猫パンチが実際には痛いわけがない。マグは爪を立ててすらいなかったのだから。それでもなぜかしら透が痛みを覚えたのは、マグが殴りつけているのが透の鼻先ではなく、そのもっと奥だからなのかもしれなかった。
「それくらいにしてあげなさい」
ヨーコの言葉に反応するように、マグは「これくらいにしてやるか」とばかり短くひと鳴きし、何もなかったかのように自分のお気に入りの場所であるふかふかのクッションへと戻り、ころんと身を丸めた。
あっけにとられたのは透だけではない。そばでただ見届けるしかできずにいた香月も美咲も、もちろん朋子も一斉にヨーコのほうを見た。
「さすが、魔女……」
朋子が感嘆の声をあげる。ヨーコはディスプレイされているものの中からイタリアで買い付けたヴェネチアングラスの親指ほどの大きさのフクロウを選び、透の目の前に置いた。
「これで太陽の光を透かしてみるとね、プリズムがとてもきれいなの」
「プリズム?」
「でも、同じ光は二度と見られない。これはその一瞬一瞬を切り取れるの。もとはただの置物だけれど、そういう使い方もできるわ」
ヨーコがフクロウに店内に差し込んでいる光を当てると、その小さなひだまりが七色、いやそれ以上に色彩を生みだしてゆらゆらと揺れた。
「きれい……」
思わず呟いたのは朋子だ。晩秋の斜陽を受け、ガラスのフクロウはまるで生きているような輝きを得ていた。
「『こうじゃなきゃいけない』なんてことは、世の中そんなにないかもしれないわよ。他人様の店にタダで間借りしている私がいうんだから、ほぼ間違ってないと思う」
神谷は苦笑し、美咲と香月は手を取り合ってうんうん、と緊張気味に何度も頷く。
「役割のない人なんてこの世界のどこにもないってね、私は本気で思う。その人にはその人の、つまりあなたにはあなたのすべきこと……カッコつけていうなら、『使命』ってやつが必ずあるの。みんなそう。それが社会にとって都合がいいか悪いか、他人から見えやすいか理解されにくいかの違いくらいしかないし、当然、上下なんてありっこない」
ヨーコはそう微笑んで、愛用の羽ペンの羽のほうをひらりと透に向け、彼にこんな提案をした。
「あなた、勉強が得意だそうね。よかったら朋子ちゃんの専属トレーナーにならない?」
「えっ」
そうリアクションしたのは朋子だ。透は突然のことにただただ驚き、少し間を置いたのちに「……少し、考えさせてください」とだけ返した。

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アパートに帰宅したとたん、どっと疲労感が襲ってきた。しかしこれまでとは何かが違う。今までに味わったことのない、どこか心地よい疲れだった。
お腹いっぱいにランチをいただいたので、夕飯は簡単に済ませることにした。コップに水を入れて一口飲んでから、乾麺を鍋で茹でてスープを温めて丼にざっくりとよそうだけの食事の準備にとりかかる。
たまねぎがこの地域の名産とは知らなかった。帰りに寄った八百屋で大きめのたまねぎを買ったので、それを半分に切って残りをアルミホイルで包み冷蔵庫の野菜室にしまった。
この生活を始める際に百均で買った、切れ味のいまいちな包丁をどうにか操り、たまねぎをみじん切りにする。アパートの小窓がカタカタ音を立てて木枯らしの存在を彼に知らせた。
ほどなくして彼の目に、じわりと涙が浮かんできた。
(たまねぎのせいだ。)
そう言い聞かせても、涙があとからあとから溢れてくる。この感情を言い当てる言葉が見つからないので、しばらくの間黙々とみじん切りに没頭しながら、彼は流れる涙にそっと心を預けた。

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「どうするの?」
母の苛立った声に、朋子は黙り込んでしまう。
「もうすぐ期末テストの時期でしょう。これ以上休むんなら、進級は難しいってこの間先生に言われたじゃない」
「進級なんて別にいい」
投げやりに答える朋子に、母の口調はさらにきつくなる。
「留年なんて悠長なことはできないんだからね。うちにそんな余裕はないんだから」
「わかってるよ」
「わかってるなら少しは努力しなさい。努力できないならそのあとどうするかは自分で考えなさい!」
自室のドアを母に乱暴に閉められて、朋子はめまいを覚えた。頭からダイブするようにベッドに突っ伏し、枕をじっと見つめる。
(……わかんないよ、自分がどうしたいかなんて。)
ふさぐ朋子がふと顔をあげると、その視界にヨーコから譲り受けたガラス製のフクロウが部屋のLED照明の光を受けている姿が入ってきた。フクロウはあの時のように、今にも飛び立たんばかりに輝きを放つことはなく、そこに置かれているだけの、文字通りただの「置物」だった。
(いいなあ。お前には悩みなんてないんでしょう。)
なんとなくゴロゴロと体を転がしているうちに、だんだんと将来に対する不透明さという不安が増してきて、朋子はたまらずに身を縮こませた。それから、下階で言い争いをしている両親に気づかれないよう、そっと涙を流した。

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それから数日後のランチ前、仕込みに忙しい時間帯にコトノハに一本の電話がかかってきた。
ナポリタン用のたまねぎを刻むのに忙しい神谷の代わりに美咲が「お電話ありがとうございます、喫茶コトノハです!」と元気よく出ると、電話の相手は堅苦しい雰囲気をまとい、若干威圧的にこう切り出した。
「保健所精神保健対策課のケースワーカーの武内と申します。先日お電話差し上げた件で、改めての確認のためかけております」
美咲の頭上に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。
「え、保健所さん?」
まさかウチが食中毒でも出したのだろうか、と美咲はおそるおそる返答した。
「あの、どのようなご用件でしょうか……?」
すると武内と名乗ったその男性は突然、美咲を叱りつけるような口調でまくし立てた。
「迷惑しています。先日も申し上げた通り、中途半端な介入はやめていただきたいのです」
「なんの話ですか?」
相手の突然の激昂にもめげずに美咲が応じると、いよいよ武内は苛立ちを隠すことなくこういった。
「おたくのせいでね、当事者が一名、非常に不利益を被っているんです」
「トウジシャ?」
「とぼけるのはやめてください。おたくに出入りしている、沢村透という男性のことですよ!」

つづく →

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