マニエル

プロ野球スーパースター烈伝⑦チャーリー・マニエル

今回は赤鬼・チャーリー・マニエル選手のご紹介です。マニエル選手とは、1976年、ヤクルトスワローズに入団した外野手です。1977年には打率.316、42本塁打、97打点と活躍し、チームの球団創設以来初の2位躍進に貢献しています。

しかし、1978年オフ、守備面での不安に加え、ヤクルトに左腕投手が不足していた事情もあり、交換トレードで近鉄バファローズに移籍します。

近鉄では指名打者で起用され、1979年は開幕から打ちまくってチームの独走に貢献、開幕から48試合でホームラン24本、打率.378といずれも日本新記録ペースでした。

ところが、6月9日の対ロッテオリオンズ戦で八木沢荘六投手から顔面に死球を受けて顎を複雑骨折するというアクシデントが発生します。

しかしマニエル選手はわずか14試合の欠場で復帰。その年、97試合出場だったものの、37本塁打で本塁打王を獲得し、近鉄のリーグ初優勝に貢献し、MVPにも輝きました。

欠場期間、首位を走っていた近鉄の調子が急下降し、西本幸雄監督は「マニエルおじさんが残してくれた貯金を皆で使い果たしてしまうんじゃないかと心配していた」とコメントした。欠場後の失速とこの発言により奮起し、チームと監督の期待に応えるべく強行出場を続け、チームは辛うじて踏みとどまり、前期最終戦でようやく前期優勝を決めました。

復帰した際、球団は特例で顎への防禦用のフェイスマスクを付けた特殊なヘルメットを用意しました。のちにマニエル選手に死球を与えた八木沢投手が引退後、理事長を務めている日本プロ野球OBクラブ理事会で、フェイスガード付きヘルメットを推奨商品として認定しています。

マニエル選手は1980年は打率.325、48本塁打、129打点で本塁打・打点の2冠を獲得、チームをリーグ連覇に導いています。しかし、契約更改で複数年契約を要求したが、単年契約を呈示した球団と折り合わずに近鉄を退団しました。

その後、1981年には古巣ヤクルトに復帰しますが、ヤクルト・近鉄両球団とも、マニエル選手を放出した翌年は最下位に転落しています、赤鬼と呼ばれたその存在感がいかに大きかったが分かります。

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複数の球団から日本シリーズに出場した数少ない外国人選手の一人でもあるマニエル選手は引退後、大リーグの複数球団で打撃コーチや監督を歴任。2019年にはフィラデルフィア・フィリーズの打撃コーチになっています。


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両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。