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「働き者のきれいな手」に魅せられて ―ナウシカ×(ちょっと)啄木― 

「わしらの姫さまはこの手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと言うてくれましたわい」
ふしぐれだった分厚い手。手まめや傷跡が痛々しい。その手に添えられた老人の声。
映画『風の谷のナウシカ』の名言のひとつ。多くの人の心に残っていると思う。そして、私も、小学生のときにこの映画を観たときから、「働き者のきれいな手」は忘れ得ぬ言葉となった。
 
それから、何度も自分の手を見た。「女の子なのに、大きい手だね」「バカの大足、間抜けの小足。って、言うけど、大きい手もね……」と、人から揶揄されたこともあった。
でも、いいんだ。私の手もいつか「働き者のきれいな手」になるんだ。と、子ども心に思っていた。
 
なので、ついつい、人の手にも目がいってしまう。
ある美容師の手。まだ20代のその人は、見習いとして先輩美容師の後についていた。明るくて元気のいい女性だった。ちょうど、私の息子と同い年。我が子を見守るような思いがあり、毎月1回の美容室の予約時には、ヘッドスパ担当者にきまってその彼女を指名した。色白の丸っこいかわいい手であった。しかし、いつしか、彼女の手は荒れていった。そのうち、爪の色が茶色に染まっていった。多くのお客さんのヘッドスパやヘアカラーをしてきたのであろう。一生懸命がんばっている手だった。
 
ある外科医の手。大きくもなく小さくもなく、掌から指一本一本まで、しっくり収まっている印象を与える手。その手は患者さんの胸を切り、腫瘍を取り出している。数十年前のその手は、泣き喚く私の手を引いて、幼稚園に連れて行ってくれた。そう、私ひとりを守ってくれたお姉ちゃんの手。今は、何百人もの患者さんの命を救う手となった。少々荒れているのも偉大なる勲章だと思う。
 


しかし、最近、男女関わりなく、細長い指で、傷ひとつないつるつるの手をしている人が多くなったなと感じる。みんな、手入れをしているのだろう。そういう手も素敵ではあるが、私はやっぱり、映画にあったような、丸くて骨太で、いろいろなものを触れてきたような手を探している。
 
そんな私は、病院で患者相談を担当している。そこはよろず相談所だが、苦情・クレーム、愚痴をこぼしていく人も多い。中には、私を痰つぼのように扱い、汚い言葉を吐いて去る人もいる。医師や看護師のように白衣を着ている人には言わないけれど、私のように白衣を着ていない者には、暴言を吐き、横柄な態度を示す人も少なくはない。
そのような場所で、私は出会うことができた。あの映画のような手に。
 
「お忙しいところ、恐れ入ります。クラモチと申します」
患者相談窓口に、初老の男性が問い合わせてきた。お話をうかがうと、入院の手続きの方法を詳しくききたいということであった。中肉、中背、丸まった背中。入院への不安を目に漂わせながら、それでも、落ち着いた所作であった。こんな若輩者の私に対しても、きちんとした敬語を使ってくださった。こちらも、思わず襟を正してお話をうかがった。
その男性が書類を書くために、その手をカウンターに乗せた。
 
あっ、この手だ!
 
私は思わず、心の中でそう叫んだ。
その手は、日焼けをし、ごつごつしていて、いくつもの傷跡やしみがあった。そして、土の臭いを感じた。爪の先に残るわずかな土は、今朝、畑仕事をしてきたことを推測させた。この人は多くの命の源を作り上げてきたんだなと、思った。天候に影響をうけながらの仕事柄、この人の手はずっと自然に触れてきたのだと感じた。まさに、私がイメージしていた、「働き者のきれいな手」であった。
 
そして、その人のお話をうかがいながら、私はわかった。きれいなのは手だけではなかった。誰にでも丁寧に向かい合う姿勢そのものが、きれいであった。きっと、自分の意にそぐわないことの多い自然とも、実直に向き合ってこられたのだろう。これから癌の手術をするという。このような自分の病に対しても、向き合っておられるのだろう。その人の生き方が、その手に、その姿勢に現れていた。それを「きれいだ」と、私は感じた。
 


また、こんなきれいな手もあった。
車いすのおばあちゃん。
「すみません、マスクありませんか? さっき、マスクのゴムが切れてしまって……」
なんのことはない、私は箱から1枚のマスクを取り出した。まるでティッシュ1枚を取るかのように。そして、おばあちゃんに渡した。おばあちゃんは手を合わせて
「ありがとうございます」
と、言ってくれた。病院の消耗品としてのマスクだし、自分のものでもないし。そんなに感謝をされても……困惑する私の目に映ったおばあちゃんの手。皺だらけで血管が浮き出ていた両の手であった。それが優しく合わさっていた。すごく自然な形であった。私はその手がとてもきれいだと思った。何事にも感謝の心を持ち、それを表現していくこと、それが手をきれいにするのかもしれない。
 


「働けど働けど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」と詠ったのは啄木だが、私の場合は、「働けど働けど 猶わが手きれいにならざり じっと手を見る」といったところだろうか。理想の手になるのは、まだまだ先のことかもしれない。何事にも丁寧に向き合い、感謝の気持ちをもち、働き続けようと思う。そういう心持ちに導いてくれた「働き者のきれいな手」たちであった。
 


この記事は、天狼院書店ホームページに掲載されたもの(https://tenro-in.com/mediagp/253812/)に(ちょっと)筆を加えました。

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