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『数字の象形』《おとぎばなし》「11」(836文字)

「11」

前回の「10」でも触れたが、二桁となることは、それ相応の意識変化を伴うのじゃ。

つまり、まったく異なる意識へのいざないじゃ。
わしらは未だこの意識には及んではおらんがの。

「1」と「1」の組み合わせは、単なる「1」+「1」のことではない。

はじめの「1」は「自分」じゃが、それは「」じゃ。つまり自分だけを見つめている「」の段階なのじゃ。

自我のみが意識されておる。

いままでのおはなしの通り、わしらは「2」から「3」の段階でつまずいておるのじゃ。

わしらの意識次元は未だ「二元」に終始しておる。

意識が二元的であれば、考え方がおおむね二元論に終始するのは、むしろ当たりまえのことじゃろう。なぜ、意識は二元的であり続けるのか。

それは、数字の象形から言えば、「2」の段階で、「」のほかに「われ」に対峙する「汝」の存在がわすことを見出せずにいるからなのじゃ。

水面みなもに映るが身のように、汝を身近に感じることができれば、意識は飛躍的に進化する。

それができないのは、わしらに未ださまざまな課題があるからじゃろう。

いったいどうすれば、このような深淵なる「11」次元の段階にまで到達し得るのか? 

そのヒントは、それこそ身近なところにあるのじゃ。

わしらの存在とは、実は何一つ自分ではないと仮定すると、周囲にあるものはみな、私をカタチ作る型であり、その型によるかたどりが本来、自分と感じておるのじゃ。

「汝」とは、いわば周囲にある型じゃ。

「1」は、一の位でが意識され、二桁目でその「汝」を確認し得たというサインなのじゃ。

 われわれは、「10」で天に召されるのじゃが、その時に本当の「汝」を知らしめることができれば、「0」が、我と汝の接点を示しておることがわかるのじゃ。

その接点から「1」は、「我」と「汝」の確かな存在を認識しる過程そのものなのじゃ。

こうして、わしらは双対であることを理解するのじゃ。





つづく






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