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日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第五章5

 素朴な人間の場合には、このような理解がなくても仕方がないかも知れない。ただ生きることに没頭して、経験の中で示される通りの事物を真実のものと考えているのだから。けれども次のように問いさえすれば、直ちに素朴な立場らか一歩先へ進むことになる。——「思考は知覚内容に対してどのような関係にあるのか」その際知覚内容として私に与えられた形姿が、それを表象する前と同じように、その後にも存在し続けるのかどうかはまったくどうでもよい。いずれにせよ、私が知覚内容について何事かを語ろうとすれば、思考の助けを借りなければならないのである。世界は私の表象であると語るとき、私は思考のいとなみの成果を語っているのである。私の思考が世界を対象にできなければ、思考のこの成果は誤謬だったことになる。知覚内容とそれについての言表との間には、思考が介在している。
 事物を考察する際に思考を見過ごしてしまいがちになる理由はすでに述べた(55頁以下参照)。つまり、思考対象にのみ眼を向け、思考そのものには注意を向けないからである。それ故素朴な意識は、事物とは関わりのないもの、事物と離れて、遠くから世界を考察しているものが思考だと考えてしまう。そして思考する人が世界の諸現象について作り上げる思考内容を、事物に属するものではなく、その人の頭の中に存在しているだけのものだと見做す。世界はこのような思考内容なしにも、それとは別に存在しており、その実体はすでに出来上がっている。そして人びとはその出来上がった世界についての思考内容を後から作り上げているだけだ。というのである。こう考える人に対して、われわれは次のように問わねばならない。どのような根拠から、君たちは思考内容なしの世界を出来上がったものと主張できるのか。世界が人間の頭の中に思考を、植物の中に花が咲き出るのと同じ必然性をもって、生じさせるのではないのか。種子を地面にまけば、そこから根が生え、茎が生じ、葉を拡げ、花を咲かせる。そのような植物を眼の前に置いてみたまえ。その植物は、君たちの魂の中で、特定の概念と結びつく。一体なぜそのような概念が葉や花と同じようにこの植物全体に属している、とは言えないのか。葉や花はそれを知覚する主観なしにも存在するが、概念は人間がその植物の前に立ったときはじめて現れる、と君たちは言うのか。その通りかもしれない。しかし花や葉もまた、大地に種がまかれ、そこに光や空気が水が存在するとき、つまり葉や花に成長する条件が与えられたとき、はじめて生じてくるのではないのか。植物についての概念もまた、同じように、思考する意識がその植物に出会ったときにはじめて生じてくるのだ。


<命題5-5-1>「思考は知覚内容に対してどのような関係にあるのか」

<命題5-5-2>知覚内容とそれについての言表との間には、思考が介在している。

<命題5-5-3>どのような根拠から、君たちは思考内容なしの世界を出来上がったものと主張できるのか。



第五章6へつづく

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