猫に口紅

「うちら、親ガチャ失敗組だね」

 朱里はスマホを弄りながら言った。私は公衆トイレの手洗い場の鏡越しにちらりとそちらを見やったが、俯いているため朱里の顔はよく見えなかった。日も暮れて木々の輪郭も曖昧だ。その中で電燈に照らされた朱里だけが、くっきりとした輪郭を保っていた。

 朱里は喋り続ける。

「『朱里のせいで生活が苦しい』っつってヒステリー起こして子供に当たってさ。あたしは適応障害だなんて言われるようになったし。子供を気違いにするぐらいなら、最初から産むなって思う。誰も産んでくれなんて言ってないし」

 私は蛇口から口を離し、笑いながら言った。

「お前らが勝手に盛って、セックスしただけだって思う。狂ってるのはお前らもだから、っていうやつ」

 子供を産むなんて、精子と卵子が出会って、それが子宮に着床した結果でしかない。そこに大層なストーリーを付け加えて、『親の愛』『命の尊さ』だなんて寒々しくて反吐が出る。何も考えずに腰振っただけだろうが。

「まじそれな。てかうちの親も大概毒親だけどさ、葉月のところもえぐいよね」

 私は水で濡れた顔を、手首で擦った。

「分かる。金なくて、こんなところの水飲むしかないもん」

 家には帰りたくない。さりとて金はない。だからこうやって公園で時間を潰す。碌に掃除もされていない、アンモニア臭と饐えた臭いの満ちた汚い公園。近所の人だって近寄らないような場所。

 私だって本当はカラオケボックスや喫茶店に行きたい。でも小銭入れには八十九円しかないから、ペットボトルだって買えやしない。

「葉月もウリやれば? 金は手に入るよ。あたしは良い感じのおじさんと会えそう」

 朱里は艶々とした唇を指先でなぞった。紅も引いていないのにほんのりと色づいた唇。私はそこから目を逸らした。

「それはまだいいかな」

 ウリは怖い、と思ってしまう。

 私は偶々朱里がそういうホテルに入っていくのを見たのだ。最初は朱里だと思わなかった。全然気が付けなかった。

 相手は思わず顔を顰めてしまうような、脂ぎったおっさんだった。セーラー服を着たままでにこやかに笑って、腕を絡めている朱里が別の『女の子』に見えた。『女の子』が朱里だと気が付いた時、私はぞっとしてしまった。見てはいけないものを見た、と確かに思った。

「ふーん、そう」

 興味なさげに朱里は言うと、携帯をポケットに突っ込む。代わりに学生鞄から、口紅を取り出した。朱里が鮮やかな色のそれをさっと引くと、綺麗な『女の子』になった。

「うん」

 と言った私は思わず、俯いて自分の唇を撫でた。ガサガサとして血の気のない青紫色の唇。骸骨みたいに骨の浮いた指。気持ちが悪い体だと思う。

 ヒステリックな母の血が流れた体。同じように感情的な頭のおかしい私。私はどの要素をとっても受け入れがたい人間だ。もし私がもう一人いたら、刺し殺しているかもしれない。

「ほんと、うちらってかわいそう」

 金魚のように口をパクパクさせて、朱里は紅を伸ばす。私は朱里の発言に共感を示すことが出来なかった。なぜなら可哀想と言われるのが大嫌いだからだ。

 私は小学校低学年の時に、『葉月ちゃんは、お父さんがいなくて可哀そうってママが言ってた』と言われたことがある。私はその子のふくふくとした頬を張った。母が私にしていたように。

 朱里は口紅を鞄のポケットに入れてから、私の方を見て真っ赤な口を開いた。

「あと葉月さ、もうちょい何か食べたほうがいいんじゃない? 流石にさ」

「今、食欲なくて!」

 私は遮るようにして言った。『痩せすぎでしょ』という言葉だけは聞きたくなかった。

「そう。じゃあ、あたしはもう時間だから」

 そう言って朱里はスクール鞄を持ち直し、スカートの裾を引っ張った。

「うん」

 と言って、私も公園を去ろうとした時に、

「なにこれ、ゴミが変なんだけど」

 朱里が素っ頓狂な声を上げたものだから、私は駆け付けた。見るとレジ袋がもぞもぞと微かに動いていた。

「え、なにこれ」

 私達が顔を突き合わせるようにして、覗き込んでいるとそこから『ニャー』というか細い声がした。



「カユ、ご飯だよ」

 母は子猫用の粒の小さいキャットフードを子猫に与えた。子猫の名前はカユ。私が付けた名前だ。ゴミ箱の中の猫というところから考えた。ゴミは芥ともいうから、教科書に載っていた芥川龍之介の『芋粥』から名前を拝借した。

 カユは黄色い目の三毛猫、三毛猫は雌しかいないらしい。だから雌。猫は色によって性別が変わるなんて、変な生き物だ。

 カユは母の声を聞くと細い尻尾をピンとアンテナのように立てて、咥えていた紐を吐き出した。そしてご飯のところにすっ飛んでいった。今まで私と遊んでいたというのに。カユが遊びたいと言って玩具を持ってきたのに、現金な奴だ。

「ご飯、コンロの横に置いておくから、夕飯食べておきなさいね。今日は夜勤だから、もうちょっとしたら家を出るわ」

 私は空返事をしながら、ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出した。ゲームアプリを立ち上げたところで、

「それと明後日、カユのワクチンの日なの。だから動物病院に連れて行って頂戴」

 と母が言った。私は即座に、

「え、めんどいしヤダ」

 と言った。明後日は金曜日、学校帰りに動物病院に行くなんて怠すぎる。遊びたいっていうのに。

「一緒に飼ってるんだから、手伝ってちょうだいよ」

 母は声をキンキンに尖らせて言った。私はこの声が嫌いだ。神経が逆撫でされているような気がするから。それにお隣さんから翌日白い目で見られるのにもうんざりだ。壁が薄いんだからと何度注意しても直らなくて私は諦めた。

「ワクチンなんか打たなくても死なないんだし。動物にそこまで金かけなくても良くない? 衣食住あれば十分でしょ。それにうちは猫にそこまでする金ないじゃん」

 インフルエンザのワクチンだって、打たない人間の方が多いはずだ。それにカユを拾ってから、素うどんの日が増えてうんざりしている。

「動物を飼うっていうのは、命に責任を持つということでしょ! お金がかかることが分かってて拾って来たんでしょ!」

 母は床をドンと踏んで怒鳴る。その音でカユがキッチンの奥の方へ逃げて行ってしまった。

 ああ、また始まった。

「あんたが動物飼いたいって言って家に持って帰ってきたんでしょ!」

「飼いたいというか、見つけたって言っただけじゃん」

 唾を飛ばしながら喚く姿は、流石ヒステリーといったところか。おまけに自分のいいように発言を捻じ曲げていくから話が成立しない。こんな母が大嫌いだ。

 母は苛立ちを隠そうともせず、キッチンカウンタ―を手で殴った。市営住宅なのに、こうも躊躇いなく殴れるのは素直に感心する。なんなら母の外面はとても良いので、私が暴れてると思われてる可能性もあるんだよなと思うとうんざりしてくる。

「じゃあ、なんで家まで持って帰ってきたのよ!」

「ネットとかで捨て猫拾う動画とかあったから、つい拾っただけだし」

 私がそう言うと、母は目ん玉が落ちんばかりに瞼を開いた。そして唇をわなわなと振るわせた後に母は叫ぶ。

「そんな理由で持って帰ってくる人なんて、この世界であんたぐらいよ!」

 はい、出ました。母さんお得意の『この世界であんた一人』。

 母は再度カウンターを殴りつけた。

「ほんっと、信じられない! こんな馬鹿なことをする子供の話、聞いたことないんだけど!」

 ため息をついてブツブツ言いだした。

「他の家の子がそんなことしてるの聞いたことないわよ。みんないい子ばかり。横前さんのところの子供は医学部目指して毎日遅くまで塾に行っているっていうのに、あんたは遊んでばかり。おまけに何か言ったらすぐに倍にして言い返す」

 母は自分の世界の理想と、その世界での理屈を押し付ける。そんな母親を私はいつも無視する。付き合っても疲れるだけだ。

 母は尚も数分間喋り続けた。それから大きなため息を一つ吐くと、ガラガラと音を立てながら引き戸を開けてベランダに出て行った。母の姿はカーテンが隠してしまって見えない。

 煙草を吸いに行ったのだろう。煙草をベランダで吸うのは禁止されている。他の住民の洗濯物に臭いが付くからだ。

 だから外から見えないように母は体操座りをして煙草を吹かす。そんなことをしても紫煙は隠せないというのに。そんな恰好で煙草を吸っている母が湿っぽくて惨めったらしくて嫌いだ。

 私は自室に戻ろうとして、置きっぱなしになっているキャットフードに気が付いた。カユの食べ残しだ。

 勿体ないけど、もう袋から出してしまったものだ。このご飯は捨てよう。

 そう思って、私は三角コーナーに皿の中身を捨てようとして喉の渇きを覚えた。だから私は一旦カユの皿もコンロの横に置いてから、自分のカップを食器置き場から取り出した。透明なプラスチックのカップに水道水をざぶざぶと入れて、立て続けに二杯分飲み干した。

 水はいくら飲んでも太らないからいい。おまけに空腹もごまかせるし。まあ、カルキ臭くてまずいのには閉口するけど。

 私はカップを軽く水ですすいでから、再度コップ置き場に置いた。

 それから『ご飯捨てなくちゃ』と思い、私は自分の皿を掴んで三角コーナーの上で傾けた。

「あ」

 と言った時には遅かった。野菜炒めは半分程、三角コーナーへ流れ込んでいた。慌てたために、残りの半分は流しに張り付いてしまっていた。

 この料理を捨てるつもりはなかったのに。いつもの癖で捨ててしまった。それにまだ母さんは家を出ていないのに。どうしよう。

 私は自分のしたことに半ば呆然としつつも、母にばれてはいけないと強く思った。だから私は素手で、まだ熱いキャベツ、もやし、豚肉といったものを鷲掴みにして三角コーナーにとりあえず放り込んだ。

 そして炒め物の油でベタベタしているのにも構わず、床に置いてある可燃ごみの袋の結びを解いた。そして三角コーナーの中身を全部入れて、再度縛りなおした。

 私はベランダの方を見やったが母はこちらの様子に気が付いていないようだったので、胸を撫で下ろした。

 私はてかてかとしている自分の手を水で洗った後に、ゴミ袋に付着した油をティッシュで拭った。そしてティッシュを雑に丸めて、三角コーナーに再び放り込む。その時に、置きっぱなしのカユの皿が目に入った。

 そうだ、忘れるところだった。カユのご飯、捨てなくちゃ。

 皿に手を伸ばしたところで、母の声が聞こえた。ベランダで何を喚いているのかと思い、耳をそばだてたが、どうやら喋り声のようだった。電話で話しているのだろうか。それにしても近所迷惑だ、注意しないと。

 私がベランダの扉を開けようとして、カーテンをめくると母の笑顔が見えた。母はカユを赤ん坊を抱くようにして、背を撫でていた。母はカユに話しかけているのだ。

 カユの顔はここからは見えなかったが、母に体を預けてリラックスしているのが見て取れた。母は私に気が付いていないようだった。

 私はカーテンを黙って閉めた。それから三角コーナーにカユの皿の中身をぶちまけた。



 食べなくちゃ。食べなくちゃ。でも食べられない。

 私は口に入れたものをトイレで全て吐き出してしまった。吐いたせいで口の中はすっぱい味がして、喉がイガイガした。

 百六十一センチで四十キロは痩せすぎだ。『百六十センチぐらいで四十キロあるのはデブ』と言っている人もいるけど、この骨の出方はえぐい。見てて気持ちが悪い。

 今まで、食事は悪だと思っていたのが未だに消えないのだ。こんなに食べているから太るのだ、と太り気味の友達が差し出す菓子パンを見て思う。加えて菓子パンのカロリーを確認して、これを消費するには三十分走らないといけないのかと計算してしまう。

 こんなに食べて、昔みたいに太ったらどうしようという考えが食後に止まらなくなる。口から外に出しちゃ駄目だと思っても、出してしまう。

 どうしようもないな、と便座に顎を乗せたまま笑ってしまった。その時、ポケットの中のスマホが震えたから取り出した。友達から連絡がきたとSNSアプリが通知を出していた。それを見て、うんざりした。ソイッタ―からの通知だ。

 個別に連絡を取れるLIMEみたいなアプリを使ってほしい。ソイッターとかだと見たくもないものを見てしまって、更に気分が悪くなる。

 『毒親で辛いけど毎日頑張ります』『精神疾患がひどいのを、周りが理解してくれません』『高校生は無免許で皆、運転してるって。マジで』『化粧品が目に入って、猫の目が潰れちゃった。可哀そう』等の情報が友達から流れてくる。それが共有の話題になることもあるから、無碍に情報のシャットダウンも出来ない。煩わしい。

 そもそもこんなことをSNSで言ってしまうような連中が心底嫌いだ。反吐が出る。

 大体、そういう連中に限って沢山のファンがいる。そいつらに慰めの言葉をかけてもらったり、同じような意見を発している仲間と楽しくつるんでる。

 なんだ、あんたらは一人じゃないじゃんか。『自分の苦しみ』を釣り餌にして、SNSという海で同情者釣りをしてるだけじゃん。それでもって、釣った魚でパーティーか。

 そう思ってしまった時に、私はSNSというものが馬鹿馬鹿しくなってきた。私はお前らのパーティーに並べられる覚えはない。そう思ったものの、周りの友達は皆SNSアプリを使用しているから自分だけやめることもできない。

 それが本当に苦痛だ。

 特に最近は『気に入った人と一緒に遊びに行こうと思います』『気になる人がいたら連絡します』『面白いと思ったものだけ返信します』そんな言葉を平然とまき散らすのを見るにつけ、お前らは何様だ?と思うようになった。

 そんなことを軽く友達に言ったら、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていたのでそれからは何も言っていない。

 だって、どうせ私は神経質な拒食症患者だ。多数派とは違う。そして少数派を自負し、少数派同士でつるんで傷を嘗め合う奴らとも違う。

 他人のことが理解なんて出来るはずがない。他人に理解なんてされてたまるか。

 増してや『葉月さん、本当に悩みとかないんですか?』と態々個室に呼び出して尋ねるような教師に分かるわけがない。言う筈がない。だって私にとって教師というものは、この世で最も嫌いな職業のうちの一つなのだ。教師のことは信用しないと心に固く誓っている。

 『いじめられている人がいたら教えてください』『困ったことはありませんか』『みんなで助け合って良い学級にしましょう』とホームルームで言うのも、馬鹿だなと思う。いじめがあったとて、そんなところで言う奴なんかいないってどうして分からないのだろう?

 まあ、きっと頭の中に綿とマニュアルと自分の昇進のことしか詰まっていないんだろう。今まで、教師が生徒同士の諍いにおいて役に立つと思ったことはない。

 それは私があの女の子を殴った時もそう。

 暴力はいけないことである、ということを徹底的に私に教え込むだけだった。何故いけないのか、については『ほっぺを叩かれたゆいちゃんが痛い思いするでしょ』としか当時の担任は言わなかった。

 それじゃあ、『可哀そう』と言われた上、教師陣に問い詰められた私の心の痛みはどうなるんだ?体の暴力以外は何してもいいのか?そんなことを未だに思い出してはむかっ腹が経つ。

 そもそも私は殴られるのが当たり前だった。

 怒りは暴力で表現されるものだと教わった。だから私は同じように怒りを表現した。それが私の知る唯一の表現法だった。当時の私は引っ込み思案で、人前でうまく喋ることが中々出来なかったから。

 だから私だけが怒られることが理解できなかった。暴言を吐いたり悪口を言っている他の人と同じように、『怒りの表現』を行っているだけなのに、と思った。

 私が女の子の頬をビンタした時、私は教室から連れ出された。そして簡素な椅子と机が置かれただけの部屋で、複数の教師に囲まれた。そして何故そんなことをしたのかと問い詰められた。

 私は俯いて黙っていた。何故そんな質問をされるか分からなかった。だけどそのことを告げてはいけないと漠然と子供ながらに思っていた。だから母がいつも私を殴っているとは言えなかった。

 今思えばおかしいが、多分母を庇う気持ちがあったのだ。庇う行為の根底には、きっと『お父さんとお母さんを悪く言わないで』という思いがあった。

 今から考えると、その頃の私は所詮幼い子供だったのだと思う。鍵っ子でませたところがあったとはいえ、社会のことが分かってなかった。

 親は無条件に愛情を注ぐものだなんて幻想を抱いていたのだから。

 本当に子供って馬鹿。

 


「この口紅あげる」

 朱里はいつもの公園で私に無造作に放り投げた。

「いらなかったら、捨ててもいいから」

 手の中のそれは黒字に金のラインが入ったもので、

「デオールのじゃん」

 一本五千円ぐらいの高い口紅だ。

「どうしたのこれ」

「貰ったの。でもあたしはイエベだから合わないんだよね。あと口紅ぐらいつけた方が良いよ。顔色やばいから」

 朱里は私の唇を指して言った。私は曖昧に笑った、何も言い返せなかった。人前で何も言えないのは昔と変わらない。

 だからと言って、それを気にしないほど神経は太くない。

「もう帰る」

 私は朱里と話す気がなくなって、ポケットに口紅をねじ込んでからさっさと公園を後にした。少しひんやりとした空気が頬を撫でる。もうそろそろ上着用意しようかな。

 家の玄関を開けると、母の靴が玄関に会ってうんざりした。今日はまだ家にいる日だ。

「あんたカユのご飯あげてないでしょ。動物の世話するって言ってたのに」

 母は「おかえり」も言わずにそんなことを言った。母はカユの全身を濡れタオルで拭き終わったところのようだった。猫は自分で毛繕いをするのになぜそんなことをするのか理解に苦しむ。

「こんなに面倒だとは思ってなかったし。学校帰った後に世話するのしんどい」

 カユは腕の母の腕の中でごろごろと喉を鳴らしている。こんな時に暢気なものだ。

「私だって、仕事の前に世話するのしんどいわよ! あんたは本当に自分勝手ね」

 またヒステリーがはじまった。私は舌打ちをしながら言う。

「SNSとかで発信しておけば、欲しいっていうやつから連絡来るかなーって思うじゃん」

「来るわけないでしょ! 動物が欲しければ皆、ペットショップとかに行くの。こんな野良の雑種なんて、わざわざ人に貰う人はいません!」

 またキッチンカウンターを母は叩いた。そのうち、カウンターが凹むんじゃないか。

「じゃあ、もとのところに捨てて来ればいいじゃん。それが一番楽でしょ。そもそもうちはペット禁止だし」

 私は当然のことを言ったのに、

「そんなことする人がありますか!」

 母はいつもこうだ。自分が可哀そうな猫の面倒を見たいと思っているのに、そのしんどさを割りきることができなくて家族に当たり散らす。

「そんなんだから、父さんが出て行ったんじゃん」

 私はそう吐き捨てると、リビングの扉を閉めた。喚く声が聞こえたが、そこは聞こえないふりをした。

 イヤホンを耳に挿して、部屋に籠っていよう。眠くなったら布団に潜ればいい。目を瞑っていつの間にか朝になっていれば、事態はきっと少しぐらい良くなるはずだから。そう思い、イヤホンを手に取った時にドアがドンと音を立てた。母親が扉を蹴ったのだ。

「母親のご飯を捨てたりするような人間が偉そうに」

 と母は吐き捨てた。

「あんたは人の心がない。だからそんなことが出来るのよ。人としてどうかと思うわ」

 それをお前に言われる筋合いはない、と思ったが怒りで声が出なかった。私は何故か咄嗟にイヤホンをポケットに突っ込んでしまい、出そうとしてポケットの中身をぶちまけた。私は床に這いつくばって、口紅に手を伸ばした。

「本当に可愛くない娘。なんでこんな子に育ったんだろう」

「お前がそれを言うな!」

 私は叫んで、部屋を飛び出してリビングへ駆けこんだ。

「お前のせいでこんな人間になったんだろうが!」

 母は私の目を見据えて、

「人のせいにするな!」

 と私に負けじと言い返した。

「自分のことを棚に上げて、主張ばっかりするなら誰でもできるのよ!」

 私と母は暫し睨み合っていたが、母は私に背を向けて、

「あんたと話すの、嫌なのよ」

 と言って、ベランダに出て行った。私がポケットに手を突っ込んだままベランダを睨みつけていると、どこからともなくカユが出てきて

「ニャオー」

 とベランダに向かって鳴いた。母を求めているのだ。

 ああ、こんな猫拾わなければ良かった。私に全然懐かないし愛想がない。

 私が無造作に首根っこを掴んで持ち上げると、

「ニャアオ」

 と言いながら体を捩り、私の手に爪を立てた。可愛くない。

「ニャアア」

 不意にポケットの中の指が固いものに触れた。取り出してみると、それは口紅だった。中指で弾くようにして、私はキャップを落とした。そして私は口紅を丸い目に突き入れようとした。

「ギャアオ!」

 と鳴きながら暴れたものだから、手元が狂ってカユの口元に紅を引いてしまった。もう一回。私は左手で猫を押さえつけながら、今度こそ目に突き入れようとしたところで、

「何してるの!」

 母は叫びながら、私を張り倒した。私はフローリングに倒れこんだ。

「こんなことするなんて」

 母は怒りで声が出ないといった様子だった。母は青ざめた顔で私を見下ろしながら震えた声で、

「出て行きなさい」

 と言った。

 私は振り返らずに家を靴下のままで飛び出した。



 公園で赤い口紅を引いた。派手過ぎて似合わないけど、素顔よりずっとましだと思えた。

 公園にいるのも気分じゃなくて、私は駅の方にふらふらと当てもなく歩いた。

 どうすればよいか分からなかった。

 歩き疲れて駅前の広場の時計を見ると二十二時を過ぎていた。もう二時間以上彷徨っているのか。

 お腹空いたなと思っていると、男が早足で近づいてきて、

「これでどう?」

 黒い髪の真面目そうな男は三を指で作りながら訊いた。ああ、私は『女の子』なんだな。

「……いいですよ」

 私は慣れた風を装いながら、立ち上がった。男はにやけた顔を隠そうともせず、左手を私に差し出す。その薬指にはリングがはめてあった。

 当然のように男は私の右手と恋人つなぎをしてきた。私は突然のことに驚いて体が逃げようとしたが、男は私の右腕を右手で掴んで腕を絡めさせようとした。

 私の脳裏に朱里の姿が浮かんだ。私は恐怖から、男の手を振りほどこうとした。

 私は『女の子』じゃない!

「何、そういう演技? そういうのいらないんだけど」

 やめてください、という言葉が喉に張り付いて出なかった。助けて、誰か。そう思って周りを見たが、私達だけが透明になってしまったかのようだった。

 そうだ、誰も厄介事に巻き込まれたくないよな。そう気が付いて、私が観念した時、

「うちの子から離れろ! 警察を呼ぶぞ!」

 母は男を突き飛ばし、私を庇う様に立ちはだかった。髪もぼさぼさ、服だって乱れている。母はそれでも尚勇ましかった。

「はあ?」

 男は母に対して何かを言おうとしたが、辺りを見渡してからスーツを整えた。そして舌打ちをしてから背を向けて人混みの中に消えていった。

「おかーさん……」

「この馬鹿!」

 母が手を私の頭上に挙げたから、殴られると思って目を瞑った。しかし母は私をぎゅっと抱きしめた。

「心配かけて、この馬鹿……無事でよかった」

 本当に嬉しそうな声で母は言った。母を見ると、泣いていた。

 この人は、私のために泣いてくれる人だったなと不意に思い出した。私が水泳大会で二番だった時、一緒に悔し涙を流しながら

「クソ、悔しい」

 と言うような人だった。母は尚「馬鹿」と言いながら私を抱きしめている。

「母さんは、私よりもカユの方が大切じゃん」

 私の目からも勝手に涙が溢れだした。

「猫とあんたが比べられるわけないじゃない。なんでそんなことも分からないの」

 相変わらず口が悪い、ひどい母親だ。それでも私を迎えに来てくれた。

「言ってくれなきゃ、分からないよ」

「大切に決まってるでしょ!」

 母は泣きながら私を強く抱きしめた。母の腕の中は酷く温かかった。涙がとめどなく溢れ、鼻水まで出た。それらを拭ううちに、口紅はすっかり落ちて母の服を汚した。母は怒らず、泣きながら私の髪を撫でる。

 私達は夜を劈かんばかりに、ワアワアと泣きじゃくった。小さな子供のようだった。






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