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和多志が決して望まないメディア報道

 2020年以来、意識的にテレビや新聞の主流メディアと呼ばれる報道になるべく触れずに来たものの、ネットニュースに今日「能登地震でご家族を失いたった一人残されたお父さんが挙行されたお葬式の様子」が報道されていた。和多志はこうした報道の必要性を全く感じない。果たして、このお父さんが「ぜひこの悲しみを全国の人々に大々的に伝えて欲しい」と自発的に報道機関にお願いしたのであろうか。否、決してそんな経緯ではなく「道徳や倫理観のかけらもない人でなし」メディア側が悲嘆に暮れている当事者の父親にTV報道を依頼したに違いない。和多志のこの推測は常識とかけ離れたものだろうか。

 暖かな部屋でぬくぬくとしながら、この心揺さぶられる報道を目にした一般庶民にもたらされる「一時的な同情、共感、寄り添う想い」が、一体このお父さんにどんな安らぎを与えるというのか。そうした「一過性の思いやり≒潜在的偽善」コメントによってご本人が深く救われるとでもいうのか。こうした風潮を醸し出すのが主流メディアの報道のあり方・存在意義などと、和多志には到底思えない。そっとしておいてあげてほしい。公共の眼に晒さないであげてほしい。不特定多数からの「ご冥福お祈りコメント」なんて和多志がご本人なら癒されるどころか、辛さが倍増する。なぜこれが分からないのか?

 一体、いつから日本人はこんな薄っぺらい情緒しか持たない民族に成り下がってしまったのだろうか。主流メディアが意気揚々と垂れ流す報道内容に一喜一憂し、過ぎ去れば無かったことになり、振り回され、最悪な場合には身近な人間同士でその報道を元に対立・憎悪し合う。和多志のこの文章も「対立・憎悪」のきっかけになってしまうというなら残念な限りだが、その場合も一旦立ち止まって考えてみて欲しい。「あなたは家族を突然失い悲嘆に暮れている。公共電波を使ってその我が現状を全国に報道してもらいたいと思うのか。またその報道によって全国から寄せられた無数の同情・共感コメントに深く癒されると思うのか」

 和多志にとって、公共に流れる大手メディア報道は9割以上「無用または害悪」に思われる。それに加えて一般庶民が「知るべき」権利を彼らはここ数十年以上奪い続けてきた歴史があるし、それは綿々と今も続いている。和多志は少なくともこうした利権まみれで倫理観のかけらもない運営スタッフで満ち溢れた報道組織には「力を与えない(安易に乗せられない)」と決めている。とはいえ、真面目に税金や公共料金を払い続けている一般庶民にとって最も必要かつ伝えて欲しい情報は易々と隠蔽捏造し、今回のような一般感情を揺さぶるだけの「洗脳(またはスピン)情報」提供に精を出す悍ましさを日々痛感するばかりである。

 和多志の声は「アリ🐜の一声」だ。でも(この世に)無いよりはマシとの思いで、ただ真摯に綴るのみである。それともう一点‥和多志は「神」を忘れていない。そう、誰もが「神」であり「神の分け御霊」であることを知っている。ただ、そのことに今も気づかない存在たちに知らしめたい思いがあるのだ。強く強く伝えたい。「神」はあなたの行い全てを見ている‥とね。生を受けてから死に至るまでの一部始終をただひたすら見ているんだよ。その眼の存在を和多志は常に「温かく守られている」と感じる。あなたにはどう感じられているか、自問してみるといいかもしれない。それが「不安や恐れ」でないことを願いつつ‥。

 <追記>驚くべきことに、和多志のような見解をもつ一般コメント数は全体のわずか数%くらいの割合にとどまっていた(つまりほとんどなかった)。中には反論のような形で(悲惨な境遇に見舞われた一個人を報道する)マスコミ姿勢に特に疑問はないと。さらに当事者が(情報公開を)承諾しているのならばそれでいいではないか‥とか、果ては「人類のため(に必要)なんだから」とまで記述しているコメントすらあった。その他に、自然災害はひどい‥とか、神や仏なんかこの世にいない‥などの「自然や森羅万象の神々」に恨み言をぶつける稚拙なコメントも散見された。これが多くの現日本民族の精神到達点の限界か。嘆かわしい。

<深掘り考察> 一人の母親らしき人物のコメントに「このニュースを見ていた小学生の娘が泣いていました。命の大切さを話す機会を得ることができました。(概略)」のようなものもあり、本当にこの報道が果たして「人の命の大切さを伝える貴重な人生教訓の機会を一般の人々に寄与した」のか‥改めて考えてみたが、やはり、どこかモヤモヤした思いが拭いされない。すでに200名近い命が奪われたとされる能登震災。その命の大切さを実感するために「代表サンプル例」が必要なのか? そもそも他人の人生ストーリーに自分のストーリーを重ね合わせて実感する必要があるのか?「自分の境遇がそうならなくて良かった。そうなっていたら狂いそうだ。自分なら耐えられなくて命を断つかもしれない。自分の命や家族の命があることは有難いことであり感謝しなくては。この男性は強い、すごい、亡くなった家族の分まで生きてほしい。。。」そんな全てが「自己欺瞞」に思えて仕方がない和多志の捉え方のほうが歪んでいるのか?

人は日々亡くなっている。いろんな終わりを迎えている。そんな中で、今回奇しくも滅多にない状況とタイミングの中で悲惨な体験を余儀なくされた方の「お弔い」の様子を基に和多志たちが自らの人生を深く学びなおすとでもいうのか?内々でひっそりと静かに弔う権利を奪っても?「あぁ、ひどい。あぁ、可哀想。あぁ、命があって有難い。」そうやって「他人の悲惨な喪失体験をもとに」改めて「他人の和多志たちが実感(教訓と)する」必要が…それも「今」あるのか。
和多志たちの身勝手な思いを含有した応援や供養コメントなど一切ないまま、心ある身近な人々に囲まれて静かに穏やかにお葬式を終わらせてあげることのほうが「人としての真の思いやり」なのではないのか。それでもこういう「土足で遠慮なく踏み込むような報道」が見知らぬ他人である和多志たちには必要と言えるのか。そういう己こそ「神を失ったそのもの」の存在ではないのか。

 

 

 

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