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Back to the world_005/ソープ裏の岸壁

 甲板に出ると思ったより船は低く、海面がすぐ側に迫って感じた。下から吹き上がる湿った風は潮の香りがして、肌をベタつかせる。純は船と並んで飛ぶカモメを間近に見て心が躍った。光る波頭とその上を飛ぶ姿を交互に見ては目に焼き付けた。中年、または老人になればこの瞬間を思い出す事になるのだろう。


狭い客室には担任の今田が腕組みして目を閉じたまま座っていた。姿勢の良さに実直さが現れており、純も佐内も思わず顔を見合わせて微笑んだ。今田の疲れた中年男特有の、味のある雰囲気が2人とも好きだった。生真面目さと諦観が混ざったような表情をしている。
現国の竹田などは若くて顔立ちもよく、自分の人気を意識したようなところがあったが今田は違う。よこしまな媚、自意識など微塵も持っていない。入学式の時はバカの3年生どもが水浸しにした廊下を1人で拭いていた。そういう哀愁を含んだ姿がよく似合う。
「先生」
純は船の後部に移る際に入口を覗いて声をかけ、会釈した。今田は目を開け、軽くうなずいた。
「イマちゃん渡船だったんだ」
「似合うね」
「バスより20円安い」

純は今田の足元に置かれた飾り気のない円筒形のナイロン製スポーツバッグを見て、さらに彼への好感が増した。


船を降りる時、船頭の片手が鉤爪になっている事に気づいた。佐内がイキイキした目でこちらを見た。
「傷痍軍人かな?サイボーグだったね」
純は叔父から戦争の悲惨な話をよく聞かされていたので実のところ良い気はしなかったが、不埒な若者を装い不敵な笑顔を作って返した。
そして入学した頃から気になっていたソープランド、その裏側の岸壁を通って駅へ向かった。
ドキドキしながら横目で建物を見ると、パーマが伸びきった髪を無理やりなでつけた男性従業員がホースで水を撒いて何かを洗っている。年齢的には成人前、といったふうにも見え、どう言う経緯でこの仕事に就いたのかを純は想像しかけた。

その時佐内が跳ね上がらんばかりに喜んで純を見た。
「なんかさー、建物の間に女の人いない?」
「マジで?」
「うん、たぶん…見えた!」
純には男性従業員しか見えず戻って確認したかったが、猥雑な場所だという事に緊張していたので早足で駅へ向かった。
岸壁にはいくつか血痕が落ちていた。最初、それらは釣り上げられた魚のものだと思っていたのだが、しばらく行くと鼻に詰めたあとのティッシュと血痕付きの破れた派手なシャツが、ここがゴールだとばかりに捨てられている。2人は顔を見合わせて苦笑いした。
「やばいね」

小規模な冒険は終わった。■


とにかくやらないので、何でもいいから雑多に積んで行こうじゃないかと決めました。天赦日に。