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いなくなるということ【これは日記】

 これを書いているのは12/5、チバユウスケさんの訃報が飛び込んできた日の夕方だ。そのとき私は、前日推しが出演した音楽番組をスマホで見返していた。途中でSNSを覗くと、スクロールするたびに、早すぎる別れを惜しむ、嘆く声が溢れてきた。

 私はTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTを通って来なかったから、チバさんについて多くは知らない。でも、熱心な、熱狂的なファンが今でもたくさんいることは知っている。思えば高校生のときにかっこいいと思っていた彼もミッシェルが好きだったし、今現在の推しもこの訃報が出てすぐにSNSに追悼コメントを寄せるくらいリスペクトしているようだったし、SNSで繋がった多くの友人たちもすぐに驚きとかなしみのリアクションを投稿していた。つまりそのくらい、周囲は青春時代にミッシェルを通って来た人たちばかりだった。私自身にはそれほどの思い入れがないにも関わらず、SNS上を流れていく言葉を見ているうちに、どこか消化しきれない思いが湧いてくることに気がついた。私はスマホの画面を閉じて、誰かにとっての、自分にとってのスーパースターがいなくなってしまうということについて、考えざるを得なくなってしまった。

 推しという存在は、身近な人ではない。会える・会えないで言えば、実感するのはライブくらいのはずだ。なのに、もう「彼が存在しない」ということについて、これほど多くの人が、受け入れがたいと感じている。もう新しい曲が聴けない。新しい言葉が聞けない。ライブに行けない。動く姿が見られない。過去の作品はこれからも観たり聴いたりできるとはいえ、だからといってそれは「彼はもういない」という事実を覆せない。さびしさ。かなしみ。その喪失感は、今、最大の推しがチバさんと同じミュージシャンである私にとって、想像に難くなかった。SNSで目にする嘆きが、いつか自分が書き込むかもしれない声に思えて仕方なかった。だからそんなかなしみの声を、見るのがつらかったのだ。

 一息つき、スマホ画面の音楽番組に戻る。いつも通り最高にかっこよくて最強にチャーミングな四人がそこにはいたけれど、数分前と同じ気持ちでは見られなかった。歌ってくれていることが、音楽を奏でてくれていることが、ただ元気な姿を見せてくれていることが、それだけで、もうたまらなかった。笑った顔も、真剣な顔も、ちょっと疲れた顔も、たまに見せてくれたらそれでいい。嬉しかったことも、憤慨したことも、仲間とばかみたいに遊んだことも、ほんのちょっと、たまに、あなた自身の言葉をインターネットを通じて届けてくれたらいい。いい作品ができたら、おまえら準備はいいかって言って、発表してくれたらしっぽ振って受け取りに行く。それだけのことが、今当たり前みたいに享受しているそのことが、どれほどありがたいことなのか、どれほど尊い瞬間なのか、チバさんの訃報に気づかされた。

 夜、哀悼の意を込めて、ほとんど初めて、ミッシェルのライブ映像を見た。本当に世界が終わる前みたいにかなしい、それでいて世界は続いていくんだと言っているみたいにやさしい、そんな慟哭を収めた映像だった。ただただ、かっこよかった。

#エッセイ #音楽

子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!