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ただそこにある祈り【これは日記】

さびしいときは、文字を連ねてきた人間である。
なかなか会ってくれない若き日の恋人には何度もメールを打ったし、お別れしたくないけどお別れすることになってしまったかつての恋人には手紙を書いた。感傷が過ぎることを長々書いた。今考えればだいぶうざい。わかる。だってもうそれって一方通行確定案件だもの。キャッチャーミット持ってない人に剛速球で投げ込んでどうするの、若き日の私。あー消したい。消したい過去が多すぎる。

関係性がある人にやるからよくない。推しとは関係性がない。だから大丈夫。ライブが終わってしまってさびしい。書かないと終われない。推しなら大丈夫。推しと私のあいだには隔たりがあるから。届くものじゃないから。一方通行上等だから。

彼らの音楽を好きになって、歌詞に表現される言葉を好きになって、それを生み出している彼ら自身を好きになって、それはもう十代の恋のようで、母の無償の愛のようで、持て余すというよりはいつも満たされていて、溢れて零れたものも愛おしくて。一方通行だから大丈夫なんて。ううん、大丈夫なんだけど、ただそれでもいつも怖い。彼らが活動をやめてしまう日が怖い。それは若き日の私が恋人に去られたのと同じ恐怖だろうか?愛する我が子が巣立っていく日を思う母と同じ感慨だろうか?違う。きっとぜんぜん違うはず。恋も愛も憧憬も尊敬も祈りも慈しみもすべて、私という容れ物のなかでぐるぐるぐるぐる掻き混ぜて、出来上がったものはとても人に見せられるようなものではないけれど、それでも私が彼らを思ったすべては私のなかにある。彼らからもらったすべては私のなかにある。だから大丈夫なんだよ。理屈なんかくそくらえだ。考察なんかくそくらえ。好きだ。好きだから大丈夫だ。

例えば音楽のことがわからなくても。彼らを理解したいと願う自分は音楽がわからない自分を苦々しく思うけれど、音楽に詳しくなったからってなんだというのだ。音楽に詳しい私はもう今の私ではない。わからない私はわからない私のままで、彼らの奏でる音が、メロディをなぞる声が、私の胸の奥の扉を激しく叩くから、降伏しているまでなのだ。

誰かを好きになることは祈りに似ている。私はライブ会場でいつも祈っている。どうか、どうか、と。何に祈っているかなんてわからない。もしかしたら神や仏や、その他もろもろに祈っている人もわかっていないのかもしれない。それでも祈らずにはいられないから祈る。鼻の奥がツンとする。ばかみたいだって笑えよ。私のなかの誰かが言う。笑われても私の祈りはなくならない。私の祈りは私だけのものだ。私の好きも私だけのもの。一方通行上等だよ。私は推しを信じる。推しも私を信じてそこで歌ってる。そんなわけないだろって?違う、何万人という聴衆のひとりとして信じてくれてるんだよ。あれ、もしかしてこれは相互通行?魂の交錯?ファンの痛々しい思い込みだって、言ってることはわかる。でも信じるも信じないも自分次第じゃん。ほら、やっぱり一方通行だ。鼻の奥がツンとして、目頭がジンとなって、どうでもいい、今そこで歌ってる、ギターを、ベースを、ドラムを、キーボードを、演奏している推しがいる、聴いて泣いている私がいる、その空間がすべてじゃん、一方とか相互とかどうでもいい、どうか、どうかと。涙と鼻水になって溢れてきた愛が、とにかく私を祈らせる。

好きな音は誇張抜きで、エクスタシーに繋がっている。例えばそれが香りの人もいるだろう。味の人もいるだろう。触れた手の感覚や、目で捉えたものに感じる人もいるだろう。ならばそれが音であってもいいはずだ。胸が苦しくなるような、焦がれて地団駄を踏むような、もっと、もっととせがむような、狂おしいほどの旋律。音色。私は祈る。どうか、もう少し、もう少しだけと。そうだ、「ここにいる2万人全員抱ける」って言ったね?高音美声のあなた、言ったよね?もう抱いてます。4人の奏でる音は、何万人だろうが、一度に抱けてしまうんだよ。怖いね。怖いくらい幸せだね。え?ばかみたいだって?いくらでも言えよ。ばかになってこんな幸せもらえるなら、本望だ。ここはそういう、深い深い沼なんだよ。

#エッセイ #推し


子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!