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英語を勉強する意義はその恩恵を被った人しかわからないかもしれない。

これは以前音声会話アプリ「clubhouse」でどなたかの部屋へお邪魔した時に一度だけ話したことのある話だけれど、20代半ばで通訳学校に通い始めた私は高い授業料を払って週に2回も仕事帰りに授業を受けていることの意義をなかなか親に理解してもらえなかった。

当時私の母はコンビニで働いていたのだけど、まだデジカメが普及する前の話で、そのコンビニは当時レジで写真の現像の受付もしていた。その店の周辺は外国人が多く居住している地域で、店には外国人客も多かった。

写真の現像は受け付けた曜日と時間帯によって出来上がりまでの日数が異なり、詳細は覚えていないがそのルールが結構ややこしかった。

日本語を話せない外国人の客も多かったので、写真の現像を頼まれた際にいつ出来上がるのか説明しなければならないのだが、うちの母は英語が話せなかったので、アルバイトの英文科の短大生にその複雑なルールについての日本語の表を、英語に訳してもらってレジ前に貼っておいたらしい。

ところがその英訳を貼ってもほとんどの人は理解できなかったらしく、どういうことだと英語で聞いてこられ、母は困っていた。

その話を母から聞いて、一度その短大生が訳したという英語を見せて、と言ってみた。すぐに持ち帰ってきたので見てみると、とてもではないが通じるとは思えない英語だった。

「これじゃあ通じないわ」と言うとガッカリして、「英文科の短大生に訳してもらったんだよ」と母は言う。乗りかかった船なので、「私が書き直すわ」と言って一からWordファイルで書き直し、プリントアウトして持たせた。

翌日からその表をレジ前に貼ったところ、それ以来一切質問されなくなったという。この時母は「あなたのやっている勉強ってすごく意味のあることなんだねえ」と言ってくれて、それ以来「大学を卒業したのにいつまで勉強し続けるつもりなの」みたいなことは言われなくなったしそういう視線も送られなくなった。

これは20年以上前の話なので今とは時代背景も違うかもしれないが、英語の勉強に限らず、何かに熱中している人に対する冷ややかな視線というのは、親子のような親しい間柄でも存在する(ことがある)。正しい英語、人に通じる英語を書くということがどれだけ大切で、実利があることかを理解した人しか、英語学習に価値があるということを身を持って認識することはできないかもしれない。

この週末で、英語の仕事に対するいろいろな意見がSNS上で飛び交って、いろいろなことを考えるうちにふと思い出したので、書いておこうと思った。こういう話は、時々思い出しては発信していこうと思う。二言語の間を行き来する仕事は尊いもので、決して「機械があるから人間はいらなくなる」ということはないと思う。

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