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話し合いを面倒くさがる人

「この件について、一度お互い腹を割ってじっくり話し合いましょう」と持ち掛けられて、「面倒くさいな」という思いが一瞬でも頭をよぎらない人は少ないだろうと思う。

持論を展開するのは好きでも、議論をするのは嫌う人は多い。

「議論をしましょう」と持ち掛けられた時に面倒くさく思う心理は、「話すこと」そのものが面倒くさいわけではなく、「相手の話を聞かされること」、「相手の論理を押し付けられそうなこと」そして「それによって自分の行動や思考を変えなければならない状況に陥りそうなこと」が苦痛に感じられるという心理だ。

例えば「きちんと掃除をして欲しい人」と「掃除はしたくないので適当でも我慢して欲しい人」が「話し合いをしましょう」という場合、

「掃除をして欲しい側」は「掃除なんてしなくても少しは我慢してよ」と言われそうなのが苦痛なわけだし、「掃除したくない側」は「せめて週2回は掃除してよ」などと言われそうなのが苦痛なわけで、自分の行動の変更を強要されそうであることが予想されるから、その状況を避けようとするのだ。

そう考えると、動物の本能としての危機管理意識として、現状を変更させられそうな脅威から逃走しようというのは、当然の行動である。「話し合いをしようとするのに、いつも逃げられる」と、逃げる相手を責める理由はない。

これがもし、議論の結果「あなたは今のままで変わらなくていいよ」となるのが最初から分かっているのであれば、議論はさほど苦痛になることはないだろう。

「部屋をきれいに保ちたい」「掃除をしたくない」を両立する方法が、例えばハウスキーパーを雇うことであるかもしれない。

どちらも譲らなくていい方法があるなら、話し合いをしても良いと思うだろう。

ではなぜ、「話し合いましょう」と言われると一方的に被害者意識が芽生えるのか。行動を変えさせられると感じて警戒するのか。

それは、日ごろ自分が話し合いを持ちかける際に、「相手の行動を改めさせよう」という意識が働いているからである。自分の方が正しい、という自信があるために、相手を正しい方向に導いてやろうなどと考えて「話し合いをしましょう」と持ち掛ける。自分自身が普段そうしているから、立場が逆になった場合に警戒するのだ。

話し合いを拒否する相手に対しては、「話し合いをしましょう」と提案するのではなく、「問題を解決する方法を一緒に模索しましょう」という姿勢を示すことがまず第一である。それができれば相手と話もできない、という最悪の事態ぐらいは回避できるはずである。改まって話し合いをしましょう、などというのではなく、話し合いが始まっているのかいないのか、分からないくらい、自然に雑談から徐々に持っていくのがうまいやり方だ。

人は簡単に自分を変えようとしない。変わろうなんてするはずがない。そのことを念頭に置いて問題解決しようという姿勢が、話し合いを拒否する相手の心を開くことになるだろう。


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