李さん、風の子、いい親子

コブ山田です。
ようこそいらっしゃいました。

今回は、元起亜タイガース・中日ドラゴンズの李鍾範(イ・ジョンボム NPB登録はリー・ジョンボム)選手について、記します。

前回のnoteが、ご子息の李政厚選手についてでしたが、李鍾範選手ご本人についても書きたいと思います。

かっこよかったんです。李鍾範。


1997年、中日ドラゴンズは本拠地をナゴヤドームに移転しました。雨天中止の可能性が大幅に減ったのは、プロ野球界全体にとっても喜ばしいことでした。私も、近未来空間ができた!とわくわくしていました。

ところが!!

ナゴヤ球場では強竜打線の名のもと、打ち勝つ野球を展開していました。1996年に山崎武司は本塁打王を獲得しますが、大豊泰昭や巨人の松井秀喜と争っての獲得でした。チームメイト同士で本塁打王を争ったのです。
しかし、ナゴヤドームは広くなり、外野フェンスも高くなったことで得点力は減りました。加えて守備の弱さも出てしまったことで最下位に沈みます。

そこで、星野仙一監督はすぐに打開策をとります。

「チェンジ!」

と言い、スタイル転換に着手しました。アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領より11年先です。

ひとつは、交換トレードを実行します。阪神タイガースから守備に定評がある関川浩一と久慈照嘉を獲得。
代わりにファーストの大豊と、2番手捕手の矢野輝弘を放出しました。レフトが多かった山崎武司はファーストにコンバートされます。
これは阪神側からの打診だったようですが、結果的に後年両チームともに優勝を果たし、よかったトレードだと言えます。

加えて、ライトを守っていたアロンゾ・パウエルを自由契約にし、パウエルは阪神へ移籍しました。
そして、新外国人としてKBOヘテタイガースの李鍾範を獲得したのでした。

この際に、他に候補に挙がったのがロベルト・ペタジーニでした。ペタジーニは01年後にヤクルトに入団し、本塁打王をとる大活躍を見せますが、俊足好打の李がちょうどチーム事情にぴったりでした。

当時小学校4年生だった私、1番ショート李鍾範に瞠目します。
ショートの上を越えるレフト前ヒットの印象がとても多く、塁に出ればさっと盗塁(改めて成績見ましたが、韓国時代はもっとすごかったみたいです)。
顔だちも精悍だと思って見ていました。

事実、大豊ロスはありましたが、豪快なホームランがなくても勝てばいい。


ところがですよ…。
1998年06月23日(火)。記憶ではその日はテレビ中継はなく、夕食後に流れてきた東海ラジオガッツナイターから、残酷な現実が伝わってきました。

李鍾範、デッドボールを受け途中交代。
次の日のニュースでは、右ひじの骨折が判明し戦線離脱を余儀なくされるとのことでした。

「川尻ー!リージョンボムになんてことしてくれたんだぁー!!」

ランドセル背負い地団駄を踏みながら登校する私。それもそのはず、その01か月前には倉敷マスカットスタジアムで阪神 VS. 中日があったのですが、あろうことか川尻を打てずにノーヒットノーランを食らってしまっていました。
ノーヒットノーランを食らうわ、李は戦線離脱するわで。中日を応援する人からすれば本当に天敵、言葉通りの踏んだり蹴ったりです。

秋ごろ、試合中の映像で、スポーツジムで肘を動かす李の姿を見たときはテンション上がりました。
そうして最終盤に復帰はするものの、マシンガン打線炸裂の横浜ベイスターズを追い抜くことはできず2位となりました。

1999年04月02日(金)。同年の開幕戦であり福留孝介、岩瀬仁紀のプロ初出場の試合がありました。その時のオーダーが以下の通りです。

(中)李鍾範
(遊)福 留
(左)関 川
(三)ゴメス
(二)立 浪
(一)山 崎
(右)井 上
(捕)中 村
(投)川 上

1番センターの開幕スタメンです!!足の速さは変わりませんし、ショートは期待のルーキー福留を抜擢と、これは楽しみだと思った予感的中。開幕11連勝のスタートダッシュに成功します。

そのあと06月ごろまでは1番を打っていましたが、ポジションがレフトになったり下位打線に下がったりという変化はあるも、通年レギュラー外野手としてリーグ優勝に貢献しました。関川がよくクローズアップされますが、李も活躍していました。

2000年は開幕初期こそ新外国人ディンゴにレフトのスタメンを譲るも、ディンゴの不振により李のスタメン起用が増えます。
この2000年に台頭し始めたのが、井端弘和です。

2001年は井端が全試合出場を果たし、新外国人ティモンズが多くレフトを守ります。
李はサードのスタメンが少しあっただけでした。


そうして、シーズン途中に退団します。神妙な表情でインタビューを受けていた様子が中日新聞に載っていたのを今でも覚えています。
背番号7は、翌シーズンから谷繁元信が着用することとなりました。

KBOのスーパースターがNPBに挑むも、最初は比較的順調かと思いきやアクシデントで大きく狂ってしまう…
思うことはいろいろとあるでしょう。悔しかったはずです。
私も、李自身としては中日での日々はあまり思い出したくないものだと認識していると思っていました。

しかし…それはいい意味で間違いでした。

退団してから18年後の2019年、なんと来年はコーチ修行を中日ドラゴンズで行うとの報道があり、驚きました!!
加えて、自費だというのです。

しかも、手弁当でもいいからと、李側から中日にお願いしたとのこと。

私は、うれしくなりました。思い出したくない過去という位置づけなら、絶対にそんなことはしません。
息子の李政厚に対しても、日本国・中日ドラゴンズは悪いところだという教育は決してしなかった証明でもあります。

背番号79番を着用し、2020年の09月までチームに帯同していました。
1998年に選手として入団した際に入れ替わりで退団したアロンゾ・パウエルと揃ってコーチを務めることも実現しました。

自身が選んだ新天地で、思いがけないアクシデントに遭ってしまうこともあります。
選択したのは自分だとは言え、トラウマになり恨みを持ってしまうこともありますし、感情の面では仕方ないところもあります。

しかし、それでも何年かたったときには、そのようなわだかまりはなくなってその対象へ感謝できる…。
そういうネガティブな感情をポジティブなものに変換できるというのは素晴らしいことだと、李鍾範・李政厚親子を見て改めて思いました。

이씨는 근사합니다.
감사합니다! ! 

ありがとうございました。

サポートいただければ、本当に幸いです。創作活動に有効活用させていただきたいと存じます。