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「勝浦川」その15.三保の松原

昭和11年(1936年)皇道派の青年将校等による二・二六事件が起こった。内閣は総辞職し政党政治は終焉した。

東京でそんなことが起きていたとき、敏雄は尋常小学校の一年生だった。
家には、敏雄の祖父喜平をはじめ父丈三郎と母ゆきえ、兄英雄と妹の美代子、そして結婚前の叔父有(たもつ)と叔母つね子がいて賑やかだった。政信と弘(ひろむ)という叔父二人は家を出て暮らし、伯母は大阪に嫁いでいた。


そんな或る日の夕飯が終わったときだった。
敏雄は、箱膳に食器を納めると一枚の絵を取り出して喜平たちに見せた。絵には富士と三保の松原が描いてあったが、敏雄がこの風景を画いて皆に見せるのは決まり事だった。

すると、その絵を観た喜平が「ほう、きょうの敏雄の絵には帆かけ船がおらんでぇ」と笑いながら言った。それを聞いた敏雄はその絵を二階に持って行き戻ってきた。喜平が再び絵を見ると鉛筆で「フネハモウデテユキマシタ」と書いてあったので、皆大笑いしたのだった。

このように敏雄が毎日のように画いていた富士山と三保の松原の絵にはお手本がある。
家の神棚の下の壁には丸窓があったのだが、その丸窓の磨硝子に描かれていた絵がそれだった。その丸窓には富士山と飛んでいる鷹と海と帆かけ船と松原が描かれていた。

だが、よく見れば富士山の右側、つまり東側に松原が描かれている。
だから画いた人は三保の松原ではなく伊豆の西海岸に在る松原を描いたのかもしれないのだが、喜平をはじめ誰も三保の松原を観たことがなかったし、気づかなかった。

その喜平が、その年の三月に亡くなった。享年七十四であった。

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