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父が決めたこと

父はバリバリの昭和サラリーマンで土日に家に居ることも少なく
父と遊んだ思い出は少ない。そんな父も退職して家にずっと居るようになった。そんな父を見ていて学んだこと。

父は典型的な昭和サラリーマンだった。

有給なんて取ったことがなかったし
朝も早くから出社して
週の大半は出張で居なかった。

晩酌をこよなく愛し、土日は自分の趣味を楽しむ。

おかげであまり父と遊んだという記憶は少ない。

父のエピソード

私は周りに流されっぱなしだけど
父はいつも自分の声に従う。

小さい頃は魚釣りが好きで
教育ママであった祖母の目をかいくぐり
1日中魚釣りに明け暮れていたそう。
勉強には全く興味が持てず
ギリギリ進級するにはどうしたらいいか
ゲーム感覚で過ごしていたと言っていた。

父が40代になったころ
これまでの仕事をするためには
国家資格が必要になった。
勉強嫌いの父である。
1回で受かると決めて、集中的に勉強し
さらっと合格を手にしていた。

「自分で決める」
ってことが父の中でキーワードのようだった。

そんな父がついに定年退職した

といっても、3年前なのだけど
父はついに定年退職した。

それまで60歳が定年だった父の会社にとって
初めて60歳を超えて働き続けた人だった。

60歳を過ぎてからは役職定年し、
過去の部下のもとで働く日々。
営業だった父は、若手の尻ぬぐいに駆り出される要員となり
お世辞にも楽しそうではなかった。
比例してお酒も増えていった。

そんな父だから本人はまだ働くと言っていたが
母が全力で説得していた。
「もうこれ以上働かなくていいよ。
 すごくきつそうだよ。」と。

父はずいぶんと悩んだようだったが、
ついに社会人生活に幕を閉じた。

退職後の暮らし

ついに自由の身♡

とはいえ
暇を持て余した父は毎日同じ時間にサウナに行き
そこで同じような境遇の仲間が出来たようだった。

長年営業職で人と触れ合うことに一日を使っていた人である。
仕事を辞めたとして、やはり話し相手がいないのは
つまらなそうだった。
だから仲間がいることがとても幸せそうに見えた。

たまには旅行にも行っていた。
父の親友は遠方に居る。
なかなか会えない人に会いに行くのも楽しみの一つだ。

次はいつ行こうかと楽しそうに話していた。

そんな父に暗い影

そんな生活を送って1年ほど経った頃…

コロナが生活を大きく変えた

緊急事態宣言により
父は自分の身の安全のため
サウナに行くことを辞めた

最初の頃は夏ごろにはまた行けるようになるだろう

それくらい軽い気持ちだった。

家に引きこもる生活になり
体を動かすことも減ってしまった。
楽しみは夜の晩酌だけ…になっていった。

みるみるうちに…

元々腰痛持ちだったが
あっという間に腰痛がひどくなり
歩くことすらままならなくなった。

やっとたどり着いた大病院で

脊椎管狭窄症(せきついかんきょうさくしょう)

と診断された。

詳しくは割愛するが、とにかく腰・足が痛く歩けない
寝ても覚めても痛く、手もしびれるとのこと。。

介護生活の始まり

数カ月前は歩けていた
孫のお宮参りにも来てくれた
100日祝いも一緒に祝ってくれた

でも、もう階段を上ることすらできない父を目の当たりにして
イマイチ現実を受け入れることが出来なかった。

あっという間に要介護認定を受け
家でのリハビリが始まった。

リハビリ病院にも行くようになった。

病院へ行くためのお迎えの車には
80代を超えたようなおじいさん・おばあさん…

父を迎えにきた職員の人のほうが父より高齢にも見える。

見ていてかなりつらいものがあった。

そんな父を見ていて

会社員現役の時は何かあるとお酒を飲み
母や私にくだを巻いていた。

この生活が始まった時も覚悟はしていた。

でも、父はそうはならなかった。

痛いだろう。苦しいだろう。

でもどこか受け入れて
淡々と暮らしている。

ただ淡々と。

朝起きたらテレビをつけ
何となくぼんやりと眺めながら
時を過ごし

たまにはスマホでゲームをしている。

孫が話しかけると嬉しそうに応対してくれる。

そして日々は淡々と続いている。

そこには今を受け入れて生きる
父の決意のようなものを感じて

そういえば父はいつも誰になんと言われても
「自分で決める」
を実践してきたんだった。

きっと「決めた」んだ。

そんな風に思い、
父の暮らしにそっと寄り添っていきたいと気持ちを新たにした。



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