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人生を自分でコントロールする

年々少なくなる年賀状

今年は貰った年賀状の枚数が随分と減りました。何年も前から減り続けてはいたのですが、キャリアをチェンジしてコーチになってから更に減ったような気がします。今年も「今年限りで年賀状は最後にします」という連絡が数件ありました。

SNSの普及で新年の挨拶をより手軽に済ます人が増えているので、全国的に年賀状のやり取りが減っているようです。随分前から年賀状は送らなくなったという人も多いのではないでしょうか?そもそも年賀状を送った事がないという人も増えているようです。


年賀状に感じた疑問

私は会社員として働いていた頃は、100枚程度の年賀状を出していました。友人に送るよりも、仕事の関係先が多かったように思います。

日頃お世話になっているけれど遠方だったり多忙だったりと、お会いして新年のご挨拶に伺うのが難しいというのなら良いのですが、過去に少しだけ仕事上の付き合いがあっただけとか、新年すぐにお会いする事が分かっているといった場合には、年賀状は必要ないのではないかと思ったりしたものです。

けれど、世の中や会社の空気として、年賀状は一応出すものだということだったので、義務的に出していたようなところがありました。

それでも年賀状を出す理由

それで、私も年賀状をやめても良いかと考えてみたわけですが、やめるとなると、それはそれで少し不都合を感じます。

例えば、
年賀状でのやり取りが便利な人が一定数いる、
SNSではつながりにくいが、細々とでも繋がっていたいと思う人がいる、
年賀状という形式に則って年1回やり取りするのがちょうど良い、
などです。(どれも同じようなことですが。)

結局、そもそも「年賀状」という媒体を通じて何をしたいのかという事を改めてきちんと考える必要がありそうです。

でも、「年賀状で何がしたい?」と問われると、これまでそんなことはあまり深く考えた事がなかったので、少々回答に困ります。新年の挨拶と言ってしまえばその通りなのですが、それだけではない気もします。

たぶん、私にとって年賀状のやり取りは、お正月を迎えるにあたっての儀式のひとつだったというのが一番しっくりします。年賀状を書き始めたのは自分の確固とした意志というよりも、「そういうものだ」という親や兄弟、友人など自分の外からの考えを受け入れてそれに従っただけと言えますし、子どもの時は年賀状を出すのが新鮮な行為で、それ自体楽しいことだったからかも知れません。

ほかの誰かに方向付けされている?

この年賀状の例のように、十分に吟味したうえでの自由な意志ではなく、予め誰かに方向付けされて、流れのままやり始めてそのままやり続けている事が意外と多いのではないでしょうか?

ヒトは何かに意識を取られると、そのほかの考えや見方、選択肢や可能性が意識に上らなくなるという性質があります。これをコーチングでは、ロックオン&ロックアウトの原理と言いますが、必ずしも自分でロックオンする対象を決めていないという点が問題です。

例えば「なぜ学校へ通うのか?」「なぜ仕事をするのか?」といった基本的な問いかけであっても、お手本となる答えだけが唯一の答えではありません。義務なのか権利なのか、お金を稼ぐためか社会に機能を提供するためかということも、自分の中で判然としないままになっていることがたくさんあります。

自分の人生は自分でコントロールする

別に判然としなくても、やり続けることは出来ると思います。でも、これまでは慣習に従ってやり続けて来たけれど、よくよく考えてみると自分にとって相当な不利益になっていることに気付いてしまったら、どうでしょうか?きっと、それ以降は別の選択肢を探すはずです。

あとあと不利益に気付いてやり直すくらいなら、ほかの誰かから提示されたアイディアや考えをそのまま簡単に受け入れたりせず、これからはしっかり自分で事前に吟味しましょう。

少なくとも自分の大事なゴールに関連する事柄については、十分に吟味してから進んだ方が良さそうです。さもないと、知らず知らずのうちに自分が望む所とは別の場所に向かってしまって、いつまで経っても本当のゴールに辿り着けなくなってしまいます。

自分の人生を自分でコントロールするためには、ロックオンする対象に自覚的であることが、とても大事な事なのです。

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