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私はただ、母とたわいもない話がしたかった。

26歳の私は、3人姉弟の、末っ子長男として育った。25年ほど前、私が保育園に通っていたころ、母は離婚をした。

シングルマザーになった母は、看護師の正社員とアルバイトを掛け持ちして働き、生活費を稼いだ。そのおかげで、東京・足立区の一軒家で暮らし、姉も私も大学を卒業することができた。私は中学校からバドミントンを続けることもできたし、「恵まれた環境」で育ったように、見えるかもしれない。

でも、大人になった今、振り返ってみると、「何不自由のない生活」を維持するために、外からは見えない、大きな犠牲があったように思う。

「貧乏ではない」生活を維持するために――。

看護師の母はいつも忙しかった。夜も働いていたので、3日ほど会わないことが、日常だった。

私たち姉弟は、母の壮絶な働きによって「何不自由のない、ふつうな生活」を送ることができたのだ。

私が学校から家に帰ってくると、疲れ切った母は、だいたいリビングのソファか、寝室で寝ていた。

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起きていたとしても、会話の内容は、限られていた。
「洗濯物回しておいて」、
「朝、ごみだしてっていったでしょ!」、
「ここにお金入れておくから、弁当買って食べて」

部屋は、私たち子どもが掃除をすることで、かろうじて清潔に保たれていた。「私はゴミ出ししたから、洗濯機回して」。「俺は食器洗いしたし」。「誰が家事をやるか」でよく姉弟ケンカもした。食事も、弁当屋に買いに行ったり、自分で作って食べたりすることも多かった。

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この状況に慣れ、普段は、少し寂しいというか、なんというか、灰色のぐるぐるとした名前のない感情をかすかに感じる程度だったが、強い孤独を感じずにはいられない時があった。

それは、学校行事のときだ。

入学式や授業参観、合唱コンクール、運動会、卒業式――。
運動会こそ、「お昼ごはんを家族で一緒に食べないといけない」と学校で決められていたので来てくれたが、それ以外に、母が学校に見に来ることはなかった。

周りを見渡せば、親とうれしそうに話している友達ばかり。まるで、自分だけ誰ともつながっていないような、一人だけポツンと存在しているような、そんな気持ちになった。

孤独感は、体から外に漏れだしていたのだろうか。運が悪かっただけなのか。私たち姉弟は、学校でいじめられた過去をもつ。その結果、私はまわりに「良い」と思われるような行動や、ふるまいをすることで身を守るようになった。

学校でいじめられていることを母が知ると、すぐに抗議に行った。

「いじめているやつは、だれなの?」
「先生は知ってるの?」
「いま電話してやるから教えて。」

いつも余裕がなく、子どもの話を聞かない母であったが、いじめと聞くと血相を変えて、守ってくれた。その姿を前に、私は、

「そんなことしなくていいよ!」
「大丈夫だからやめてよ!」

なんて言いながらも、守ってくれるということに、少しうれしさを感じていた。ただ、普段は学校で起こったことを母に話しても、ちゃんと聞いてはくれなかった。

テストで良い点数を取っても、部活で入賞しても、母が大して興味を示してくれた覚えはない。

そんなことに耳を貸して、優しくうなずいたり、一緒によろこんだり、考えたりする余裕なんて、母にはなかったのだろう。

明日は何時から仕事で、それまでにどれくらい寝られて、お金はあとどのくらい必要で――。きっと生活を維持することで、いっぱいいっぱいだったのだと思う。

私が部活での不安や、うまくいかない苦しみなんかを母の前で口にしようものなら、

「あんたそんなことでめそめそ言ってどうするの」
「私なんか、こんだけ働いて、好きなことなんて、できないんだから!」
「そんなぜいたくなこと言わないで」

何も言えなかった。母の苦しみに比べれば、ちっぽけなことに思えた。母の犠牲のもとで生活をしていると感じ、窮屈だった。好きなことをやっている自分はわがままで、幼い人間にも思えた。

むなしい気持ちになることを避けるために、自分のことを母に話すことは無くなっていった。

母は、人並みの生活を維持するために命を削るような働き方をして、私たち姉弟を育ててくれた。

そのことには頭が上がらない。感謝もしている。

けれども、ここまで働かなくてはいけなかったのだろうか。

私は思った。「そんなに忙しく働きすぎなくてもいいから、もっと話を聞いて欲しい。一緒にご飯を食べたい」。

でも、そんなことはとても言えなかったし、無理しないと生活が成り立たないことも子どもながらに理解していたから。(よく食べた唐揚げ弁当 ↓ )

弁当

母はお金を稼いで、住む場所を確保し、子どもたちを大学まで通わせることに必死だった。

母は、ずっと戦っているようだった。自分で決めたことは、曲げないし、弱いところは見せなかった。もしも、当時の母が、誰かに弱音を吐くことができていたら――。母が「自分の時間」を少しでも持てたら、状況は変わっていたのかもしれない。

周囲に頼れず、自分の力だけで子育ての問題をどうにかしようとして、最悪の事態が引き起こされるニュースを見るたびに、胸が苦しくなる。母の姿と重なるからだ。

シングルマザーが生活費を稼ぐために昼夜問わず長時間働くと、一緒に暮らす子どもは、孤独を感じてしまう。

シングルマザー自身も、近所との付き合いや、ママ友を作る機会を作る余裕がなくなると、どんどん孤立してしまう。

親になる、親であるすべての人が、子どもと過ごす時間の尊さを感じられるような形に、いち早く社会が変化してほしい。

私はただ、母とたわいもない話がしたかった。

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【書いた人】森本敬太(仮名)。国分寺界隈の大学を経て、会社員に。今は、国分寺のどこかで時々働いてます。清掃業に従事する20代です。平成生まれ。

次の原稿 (編集:山内真弓)