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父に会う -帰国したから行ってきた!(続編)-

父に会う

車椅子に乗った父が向こうから来た。母の背中はとても緊張しているように見えた。施設のスタッフの方が、「お嬢さんの名前忘れたって」お父さんがおっしゃってたと笑いながらこちらに向かって話しかけてくれた。
「へえ〜、お父さん忘れてしもうたん」と笑いながら父に先話しかけると、
父は「なに言うてんねん覚えてるわ。」と笑顔で答えた。
久しぶりに見る父はコロナにかかったとは思えないほど肌はつやつやして元気そうにだった。どうりで会話も進む進む、相変わらず時勢については全く認知ができていないというか、時間の経過がとっても怪しい。
父「もう何年ぶりやろなあ」
とか話し出す。そのまま否定もせず。父の話を聞いていると、3年ぶり位かなぁ、みたいなことを言うのでそうやなぁ、長かったなぁ。みたいな話して話をつないだ。
そうすると母が
「何言ってんの3年も経ってないやん!」
といつもの母の少し語彙の強い名口調。ところが母も最近は時間の経過が怪しくなってるので、「3年も経ってないけど、1年位やで」と話をする。二人が3年や1年やって言う話をしているのがとてもおかしくて何故か微笑ましく感じた。

4月に父が施設にお世話になって、ちょうど半年。二人の間では時間が1年にも3年にも感じているんだなと感じた。父親の口からなにげにお「母ちゃんは怖かったからなあ」と過去を思い出すかのように笑いながら話をしていた。でも、その目の前にいるおばあちゃんが自分の奥さんだと言う認識はあるのだろうか、とちょっと思った娘の私。
「何歳になったんやろなぁ。」
と父が私に問いかけたので、もう今年10月で91になったんやで。お母さんは90歳と言うと、「へえ〜俺はそんなに長生きしてんのか」と笑いながら
「長生きしすぎやなぁ」
と話をしていた。陽気な会話を繰り返す父の姿を見ていると、施設に入って父は幸せに暮らしている様が想像できた。

一方、母は1人で頑張って生きていることを父に話をしていた。父にそれが伝わっているのかどうかは定かではないが、母がその話をするのがちょっと切なかった。母の口からは、1人でちゃんと生活できないと(こんな施設に入れられてしまう)という意味が込められているようにも思えた。実際、母は週3回デイサービスの体操に行って、子供に迷惑をかけず、1人で生きていこうと頑張っている。行政が手を貸してくれると言う親切な申し出にも拒否をしてしまう。頑なな頑張り屋さんの母が肩の力を抜いて生きて行けると余生を楽しめるのに、真面目すぎる母の性格がそれを邪魔してる。

面会が終わって施設を後にし、母はタクシーに乗って帰りたいというオーラが漂っていたので、気持ちをくみタクシーを捕まえるために通りにでた。

待っている間の会話は
「どうやった?施設に来てみて久しぶりにお父さんに会っだけど、お母さん大丈夫?」
と尋ねてみると
「いや一緒に帰るとか、駄々こねるとかが無くて安心したわ」
「そうやね、一緒に帰るとかって言われたら困るもんね」
と尋ねると、「そうや一緒に帰るって言われたら1番困るわ」言っていた。
会話の中にも、やはり母は父をお世話する事はもうしたくない、と言う気持ちの表れだろうなと感じた。老老介護の負担は軽くない事を母を通じて感じた私。父が元気そうにしていることも母にとって良かったように見えたが、母自身と比べているようにも思えた。

母が父との初めての面会での雑感

父はとても元気そうで、父が母に対して「変わらへんなぁ」と繰り返し話す会話の端々に母の変化を感じ取り、「なんや声が変わったなぁ」とか、「ちっちゃくなったなぁ」とか、「そんなにちっちゃかったかなぁ」などと話をしていたことが印象的。
父はちゃんと母を覚えていたと確信した。
ただ今の状況つまり施設に居ることが父にはあまり理解できていないようで、「ここは何の施設」と言う問いをかけを私にしたので、「せやなお父さん、高血圧で転んで入院したから、ここは病院のようなもので、お世話してもらってる所よ」と伝えたが、反応はよくわからなかった。ビニールカーテン越しは表情が読み取りにくく仕方ないと自分を納得させた。

オミクロンが流行り施設でクラスターが発生して父も罹った。年寄りを預かる施設としては責任問題になるのは理解する。せめてビールカーテンの精度上げてほしいなぁ〜。歪んで見える父の顔。父からも久しぶりに会う母の顔が歪んで見えたと思うと切なすぎる。
父は車椅子から立ち上がりそうになりながらカーテンに顔をつけてこちらの表情を見ようとしていた姿に涙が出てきた。 

父「また来てや」
私「また来るね」
母「…」

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