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歴史と人に触れるひとり旅

正体のわからない何かが、背中にのしかかっていた。
振り向いても、払っても、体をほぐしても、美味しいものを作って食べても、やりたいことを思いっきりやっても、振り解けない、どろっとした何か。
それでも、何とか自分の中にある軽やかで明るいものを見ようとして、「今日はいいお天気だったな」「自分だけのこの部屋が楽園だな」「ご飯が美味しいって幸せだな」「お風呂入ると体が軽くなるな」って、大丈夫なふりをし続けた。

人と会う約束があって、その人は奈良に住んでいた。
大阪からは全然日帰りで行ける距離だけど、その時のわたしはどうしても自分の知らないところに行きたいという気持ちがあって、人生で初めてゲストハウスを予約した。
せっかく行くなら、いろんなところを見てまわりたいな、いろんなもの食べたいな。
そうも思ったけど、今回はあえて「全くなんの予定も立てない旅」のほうがいいような気がして、電車の時間も乗り継ぎの方法さえも全く調べずに行くことにした。



朝。
ベッドリネンを洗濯して、浴室乾燥に入れておく。
帰って生ごみの匂いがしないように、生活ごみはまとめて口を縛っておく。
フローリングは掃除機をかけてから、水拭きしておく。
お昼ご飯、どうしようかな。そうだおにぎりを持って行こう。
梅と甘味噌、2種類のおにぎりを作った。水分はきっと冷たいのが飲みたくなるから、向こうで買おう。
家から駅までも、せっかくだし自転車じゃなく歩いて行こう。
全部、その時思ったまま、後先を考えずにその時決めて行動する旅のはじまり。

電車の中ではいつもイヤホンで音楽を聴いたり、スマホで作業したりするけど、バッテリーの消耗もおさえておきたいし、極力デジタルなものには触れずにいよう。
周りの景色を目でみて、耳で環境の音を聞いて、鼻で梅雨の匂いを嗅ぐ。
そうしているうちに奈良に着いた。
わたしの背中にのしかかっている何かと、一緒に来た。

歩こう。春日大社にお参りをすることにした。
興福寺の横を通ったときに、「寄ってみようかな」と少しよぎったけど、いや、これを登ろう、と思ってそのままずいずいと山を登った。
少しずつ肌に触る空気がシンとしてきて、まわりは普段使わない言語の人たちの会話と、さらさらと木々の葉たちがそよぐ音で時が流れていた。
いま、ここでわたしのことを知ってる人はいない。
いま、わたしがどうして何をしにここへきたか知っている人はいない。
昔々からそこにある鳥居や、大木、灯籠。
ああ、迎えられている気がする。
時間を重ねたり、老いていくことに必死に抗っている人間がたくさんいる中で、この土地は、粛々と時間を重ねている。そうして重ねた時間が、わたしみたいなどこからともなく来た何でもない人間をこんなにも懐深く迎えてくれる。
「歴史」の偉大さに、圧倒された。
今までも神社仏閣をお参りしたことはあったけど、こんな気持ちになったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「お参りさせていただいてありがとうございます」と柏手を打って、感謝を伝えてきた。

そして、ゲストハウスへ。
ゲストハウスって古くて埃っぽくて、外国の方たちが寝泊まりする安宿、という印象があったんだけど、それはどえらい偏見だったなと反省した。
家を出てから歩く選択をし続けたから、少し体に疲労が溜まっていた。ドミトリーを案内されて荷物を置いて、共用部分のソファに座ってみた。
何だろうこの安堵は。
どうして初めて来たのに、こんなに安心するんだろう。
まるで、親戚の家に来たような、いや、親戚の家でもこんなにリラックスしないな。
宿泊した人たちが、思い思いに書き残しているゲストブックを見つけた。外国語で内容はわからないところもたくさんあったけど、この場所も、いろんな国からいろんな目的で来た人たちを迎えてきたんだなあ、と思った。

それからこの旅の唯一の目的である人と合流して、奈良公園でおしゃべりをして、ウクレレを弾いて歌った。
2020年、1回目の緊急事態宣言のときにウクレレを買ってから、一人で気ままに弾いて歌ってきて、配信したり画面を通して誰かにわたしの歌が届いたことはあったけど、面と向かって自分のウクレレと歌を聴いてもらうのは、初めてだった。
緊張よりも、嬉しさが勝った。
こんなにリラックスして歌えると思ってなかった。

その人との話で、この世の中には、わたしの知らないことをしている人、わたしが思いもつかない生き方をしている人がたくさんいると教えてくれた。
いつしかわたしは枠組に収まることがどうしようもなく息苦しくて、過去の苦しいことに囚われて、それでも世間に何とか紛れようとして、いろんな色の絵の具で自分のことを塗って擬態していた。
彼たちは、世間からは一見「立ち止まっている」ように見えるのかもしれない。「はぐれてしまっている」ように見えるのかもしれない。
でもわたしはそうは思わなかった。
この人たちは、立ち止まってなんていない、自らの心地のいいところを探してのびのびと動き回っている。はぐれてなんていない、こんなにも自由でいいんだと、むしろ先陣を切って示してくれている。
ものすごく前を歩いているように見えて、純粋に「いいな」「すごいな」「素敵だな」と心を動かされた。

夜。
全く馴染みのない場所で、人と会って、会ったこともない人達の話を聞かせてもらって、馴染みのないお店でメニューを眺めながら、初めて食べる料理をお腹いっぱい食べた。
こんなに知らないことだらけなのに、なんの不安もなかった。
ゲストハウスへの帰り道、背中がやけに軽く感じてあっという間に着いた。知らない街といつもよりも高い夜空に、重心が軽くなったようだった。

ゲストハウスに戻ると、2段ベッドが2つ並ぶドミトリーに、今夜泊まる人たちがみんな揃っていた。
アメリカから卒業旅行で2ヶ月の滞在予定の女の子、韓国から大学の休みを使ってきたアニメが大好きな女の子、神戸から月2回奈良に練習に来ている同い年の女の子、そして大阪からなんの計画もなくのんびり泊まりにきたわたし、の4人だった。
時々聞き取れない速さの英語で会話していたり、拙いとはいえ十分コミュニケーションができるレベルの日本語で話しかけてくれたり、みんないろんなバックグラウンドがあってここへ来ていた。
オーナーさんに「お隣に声が響いちゃうからもう少し声の音量下げてね、楽しそうなのにごめんね」って言われて、何だか修学旅行みたいで楽しかった。
慣れない寝床は少し寝つくのに苦労したけど、ゆっくりと3度寝くらいできたから、体は全然疲れてなかった。



2日目の朝。小雨だったけど心はどんよりしていなかった。
550円の朝食をつけてもらっていたので、昨日と同じソファに座って、久しぶりに人が作った朝ごはんを食べた。
ミネストローネが、胃に沁みた。温かかった。
身支度をしながら、お昼過ぎに交野の方へお誘いがあったので、それまでどう過ごそうかのんびり考えたり、昨日感じたことを手帳につらつらと書いていた。
やっぱりここ、ものすごい安心する。
思わずオーナーさんに「ここすごく落ち着きますね」と声をかけたら、オーナーさんは「わあ嬉しいです、ありがとうございます、ゆっくりしてくださいね」と微笑んでくれた。
こういう具体的に言葉にできない心地いい距離感にも、安心するのかもしれない。

ゲストハウスをチェックアウトして、郡山の方へ向かい、紫陽花が有名な矢田寺に行くことにした。
ざあざあ雨が降っていたら、奈良駅周辺でのんびり過ごそうかと思っていたけど、案外傘も刺さないくらいですむ降水量だったから、思い切ってみた。

山々が、緑が、景色の大半を占めるようになっていく。
整然としただだっ広い公園とはまた違う、包まれる感覚があった。
雨に濡れた石畳を、滑らないように一歩ずつ踏み締めて、葉が雨に濡れてつやつやしているのをみながら、登り切って矢田寺までついた。
上から見下ろす街並みは、あいにくの天気でも十分その広大さを主張していて、すごく気持ちよかった。

見渡す限りの紫陽花。大好きな花のひとつ。
紫陽花の何が好きかって、株によって色が違っていたり、2色のグラデーションになっていたり、それぞれに違う表情があるところ。みていて飽きない。
お寺にもいろんなところにいらっしゃるお地蔵様たちにも手を合わせて、「連れてきてもらってありがとうございます」と伝えた。



境内の中に、閻魔様がいた。
撮影が禁止だったからか、みんな紫陽花の撮影に必死だったからか、閻魔様をじっくりと眺めている人はいなかったから、正面に立って、まっすぐに閻魔様を見つめたら、目を逸らせなくなって、しばらく閻魔様と対峙した。
怒っている表情には見えなくて、どちらかというとなんか心配されてるような表情に見えてきた。

わたし、自分に嘘をつかずにやっていきます。誰もわたしのことを見てくれていないなんて思う時もあったけど、そんなことなかったですね。ちゃんと見守ってくれているんですね。
わたしにのしかかっていたあの重たいのは、一人で背負ったからあんなにしんどかったんですね。
人を支えたり何か役に立とうとすることが当たり前にできるようになってくると、自分が支えられたりお世話をされることに抵抗を感じるようになってしまう。でも、自分が誰かの迷惑になることも、優しさの循環の中では必要なことだったりもする。昨日そんな話をしてくれたなあ。

閻魔様を向き合ったらそんな風に考えられるようになっていた。

お寺から駅へ戻る路線バスの中で、紫陽花やお地蔵様や閻魔様になんだかものすごくエネルギーを使ってしまったようで、思いがけずバス酔いしてしまった。
あまりに夢中になってお昼ご飯を食べるタイミングを逃してしまったことも、一つ原因だったかもしれない。
なんだか今日はこのまま帰ったほうが良さそうな気がして、交野へのお誘いを泣く泣くキャンセルさせてもらった。
自分自身ドタキャンなんて、されるのはいいけどするのは本当に苦手というか避けたいことだったけど、「そういうことに寛容でいたいねって人達の集まりだから全然いいですよ」と言ってもらって、すごく救われた。
そっか、誰かに迷惑をかけてしまうことも、時にはそんな自分を許してあげてもいいのかも、とかまた自己都合に解釈して安堵している自分がいた。

頭はくらくらしていたけど、昨日家を出るときに背負っていたどろっとしたものは、随分と軽くなっていた。
正直、なくなった、と言えれば一番いいのだけど、全くゼロにはなっていない。
でも今背負っているものは、わたしが背負いたくて背負っているものだけになった。

これから、どんな生き方があるのか、何者かになれるのか、ならないままいろんなことをするのか、わたしの好きにしていいんだ。
わたしが知っている、生き方、働き方、暮らし方の枠組みは、このひとり旅で随分と柔らかくなった。
変幻自在に、どんな形でもいいし、もはや枠として暮らしを囲わなくてもいい。
しんどいなと思ったときに、これだけが選択肢じゃないと教えてくれたから、これからは回り道もしながら自分らしい道を作っていけばいい。

起きもしないことを考えたり比べようのないものに手を伸ばしたりした余計なものは、奈良の深い深い歴史に包まれて、さまざまな生き方があると教えてくれた人たちの温かさによって、きちんと消化することができた。
わたしは、どこで生きても、何をして暮らしても、自由だ。
奈良、本当にいいところだったなあ。心が安らぐ場所が、ひとつ増えた。



長らく最後まで読んでくださりありがとうございました。
元々しょっちゅう旅行に行くようなタイプではなかったので、今回のような感じるところの多い旅は初めてで、自分の記録としてなるべく事細かに残しておこうと思ってつらつらと書き進めると、まさかの5000字に迫るボリュームになりました。
相変わらず話が長いねん。でも大切にとっておきたい気持ちでした。ふう。
ここまでお付き合いくださった方、このあとはちょっと水分とってゆっくりしてください。なんてね。
毎度のことながら夜遅くの更新でした。愛を込めて。

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