レイヤーは何枚も

最近,自分は投資や金融,お金の勉強に精を出している。お金の流れを知ると,これから人々がどのように社会生活を営み,どうおカネが動いていくのかに興味がわいてくる。

勉強するほど,実は今の景気はさほど悪くないのだなということに気づいてくる。ただし,自分の身の回りでも今の状況の見え方が全然違うことにも気づいた。
自分のいる業界ではこれから仕事がどんどん厳しくなっているといわれ,かたや職場では働いて出世して稼いでいかないとといわれ,家では貯金すれば大丈夫と言われ,友人との語らいでも景気は悪いけどいまが遊び時でしょと言われる。
未来観,世界観が語らう相手によって全く違うのだ。

それぞれの世界


当たり前の話だが,年代,性別,職業,出身地が違えば見えてくる世界は全く違う。
男性にとっては見慣れた光景でも女性にとってはおっかない光景かもしれない。年老いた人間にとってはパラダイスでも若い人間にとっては地獄よりもひどい光景かもしれない。ある人間にとっては効率的で過ごしやすい光景がある人間にとっては殺風景に見える可能性がある。あるものにとっては当たり前にあるものがあるものにとっては物珍しいこともあるだろう。

いろいろな人と話すうちに,これからの時代はこの「見え方」の違いがより顕著になる時代だと思うようになってきた。

例えばこれまでであれば,例えば同じ舞台を見ていれば似たようなところで泣き,似たようなところで笑い,似たようなところで感動していた。それはその舞台を見ている人間が似たような教育を受け,似たような土壌を築かされていたからだろう。
ただ,今は様々な背景を持つ人間が同じ舞台を見るようになった。その結果感動するところ,笑うところ,泣くところが微妙に違ってくる。あるものにとっては心に刺さるセリフが,ある者には物語を進めるためのセリフの一つに過ぎなくなってくる。あるものにとっては喝采を与えたいセリフがあるものにとっては怒りの火種になる可能性が出てきたのだ。

昨今のニュースやドラマを見ていても需要が多様化されているように感じる。きっと届けたいメッセージがぼやけているように感じるのもこのせいだろう。これからは同じ場所にいる人間がおのおの違うフィルター越しに一つの世界を見ていることが普通になってくる時代なのだ。

これから利用されるもの

先ほどの事実は当たり前だといわれるかもしれないが,本当にこのことが当たり前とされていたのかは甚だ疑問が残る。
以前から問題になっている「働き方」や「いじめ」なども,無意識のうちそこにいる人間たちが「あなたと私は同じことを考えている」という暗黙の了解が原因となって起こった部分もあるのではないか。同じ舞台を見て感じることが違うということは,この暗黙の了解が通用しなくなるということである。

では以前のように皆同じような考え方をする方に逆戻りするのがいいのか。

自分はそうは思わない。
自分勝手な持論だが,同じような人間が固まっている組織はそこまで強くはなれないのではないかと思っている。否定する意見があることは重々承知している。たしかに価値観が全くばらばらの組織はうまくいかないだろう。

ただ,もともと組織とは人間が一人でできないことをできるようにするために人間の社会性を使って作られるものである。
人間が一人でできないことを成し遂げることが目的なのであれば,人間の持つ凸凹をうまく利用するのがいい組織の在り方に見えてならないのだ。

これからは外から来る人も増え,国の中でも様々な生き方をする人が増え,見え方,それぞれの人が世界にかけるフィルターが何枚も何枚も,種類もたくさん出てくる時代だ。ならばそのフィルターを生かす方法があった方がより良い生き方を見つけられるような気がしてならないのだ。
さまざまなフィルターがレイヤーとして重なって世界がくっきり,しっかり見えるようにすること,そしてその見え方から社会をよりよくする方向に進むのがこれから営まれる人間社会の生活であろう。


だとすればこのレイヤーをふやすこと,相手のフィルターから世界がどう見えているか理解すること。その懸け橋となるものが今後は出てくるだろう。
互いに理解しあうこと,共感で終わらず,違うとわかったうえでどうするかを考えるのがこれからの時代だと思う。

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