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やじろべえ日記 No35 「セッション2日目」

本日は昨日より講義が遅くなった。そのため終わり次第キーボードを持って急いで例のスタジオへ走る羽目になった。

わたしは野良のキーボード弾きである。いい加減最初に名前を名乗れと各方面からクレームが来ているようだがそんなクレームを入れてくるということは繰り返し私の拙著をお読みいただいているということなので,私の名前くらい知っているだろうという返答にしておこう。名前なんてそのうちだれか呼ぶので別のここで書く必要はあるまい。

…名前はそのうちだれかが呼んでくれる。こう言えるようになったこと自体感慨深いものである。

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スタジオにつくと昨日セッションしたドラマー,戸村さんが練習していた。

「こんにちは,遅れてすみません。」
「ああ!市村さん。よかったあ,無事について。」
「講義が長引いてしまいまして。すぐに準備します。」
「ウォームアップ中だったから気にしないで。そっちのペースでいいよ。」

準備をしながら聞いていたが,この戸村さん,あんまり音を出してたたいてない気がする。基本的なチューニングだけのようだ。

「あのう,こっちはあんまり気にせず音出していいんですよ…」
「え?ああ,ごめん,チューニング,結構静かに音出さないとうまくできないんだよね。そっちはそっちで出してていいからね。」
「あ,はい…」

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その後セッションに入ったが相変わらずすごい演奏だった。ただドラムソロが今日はまた違うアレンジをされていたり,昨日は譲歩してくれていたところを今回は一緒に突っ走っていく感じにしてきたりと表情は昨日と全然違うものだった。それでも計算づくなのは,やはりこの人の水面下の綿密さを物語っている。

「ふー,楽しかったねえ。それにしても今日は僕比較的突っ走っちゃったけど全然慌ててなかったね。」
「まあ,ついていける範囲内でしたしね。」
「さすがだなあ。」
「…それで,何か変化はありましたか?私の演奏。」
「そうだなあ…実は今日僕も結構変わっちゃってたからね。君の変化,というよりは,僕の変化を受けて変えてくれた,って感じだよね?」
やはり友人同士気が合うのだろう。
「…浅井さんと同じこと言いますね。」
「あ,やっぱり?ただ,僕としてはちょっと残念かな。」
「…え?」
「きみはアンサンブルの力はすごくあるし実際僕に合わせてくれた感じは最高だった。ただ,君自身の変化というのもちょっと見てみたかったからさ。」
「といいますと?」
「建成に聞いた話だと,あのイベントの時の君はまるで別人だったみたいだよ。」
「…初めて聴きました。」
「そうか。あの打ち上げ以来もしかして建成と話してない?」
「はい。公園でも会ってないので。」
「まあ打ち上げは結局僕が話しかけて固まってたし,あれからしばらく僕とやってるしね。建成曰く,君の演奏は日ごとに変わるけど基本的には相手の変化に合わせたものだっていう話だった。」
「…そうですね。浅井さんにもそれは言われました。」
「ただ,君と建成ともう一人の子,ええと…」
「伏見さんですか?」
「そうそうその子。確か建成と伏見さんが最初あわなかったんだよね?」
「たしかに嚙合わせるのは時間がかかりましたね。」
「そう。ただ君が彼らの仲介になったとたん,市村さんの個性?みたいなのが出てきて,本番の演奏はそれまでのものとまた違った演奏になった。…確か建成はそういってたな。」
「そうだったんですね。」
「そう。だからそっちの変化をぶっちゃけ期待してたんだけど…うーん。やっぱり僕とのセッションじゃあ『合わせたわけでない』変化を出すのは難しかったかな。」
「…ご期待に沿えずすみません。」
「ううん。多分僕が期待しすぎたんだと思う…ごめんね。でも誤解しないで。僕の音をしっかり聴いてくれたことは伝わってきた。君の演奏はやっぱりすごかったよ。」

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片付けて,その日は戸村さんと別れた。

『合わせたわけではない変化』

戸村さんの言ったことを反芻する。今まで「演奏が変わること」でとやかく言われたことは何度もあったが「変わらなかったこと」で期待に沿えない,という事態は初めてだ。正確には「期待通りに変われなかったこと」である。変わることを期待して私とセッションしようという人も初めてだったのだが,それ以上に期待を超えられなかった,暗にでもそういわれた。これは心にずっしり来るものがある。

問題は変わらなかったことではない。期待に応えられなかったことだ。

あの人とセッションすることは,もうないだろう。ただ。

「こんなことってあるのか。」

正直,変わることで失望されたときより,絶望の色は深かった。

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