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派手ではない,だが地味でもない ~ブラームス交響曲第3番の雑感~

好きな交響曲

さて,先日こんな記事を書いた。

最近は芸術を廃れさせまいと様々な取り組みがなされているようだ。世間でこれだけパワフルな取り組みがなされているのであればわざわざ自分が芸術についての発言などしなくてもいいのではないかと思ってしまう。
しかし,自分とてプロではなく,芸術に明るくはないとはいえ,様々な芸術作品に触れ,救われてきたのは確かだ。
そこでなかなか着手できずにいたある試みをこの1か月間行ってきた。

とある交響曲をテーマに,記事を書くことにした。そして今日,それがやっと形になった。

今回の題材はそのときに聞いていた曲で今でも好きな曲だ。
それがこれ,ブラームスの交響曲第3番だ。

(フランクフルト放送交響楽団の動画より。)

今回はこの曲の良さについて素人目線で熱く語りたい。

歴史的な批評や芸術史での役割,コードを使った説明などはしている人も多いが,自分のようなペーペード素人にそんな芸当はできない。

でもこの曲の良さを,もし好きな人がいたら,一緒にわかちあいたい…そしてまだ出会っていない人がいたらこの記事をきっかけに一緒に盛り上がりたい。この記事が今と未来の,この曲のファンに届くことを祈りながら話を進める。

好きな理由その1:有名な箇所がエモすぎる

ブラームスの交響曲第3番と聞いて「なんだそりゃ」と思った方は
まず3楽章だけでも聞いてほしい。

Youtubeあたりで検索すれば一発で出てくる。というか検索かけたらたくさん出てきた。そしてここだけなら間違いなく,絶対,どこかで聞いたことがあるはずだ。

(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団公式の動画。フレーズは途中からだが,有名な箇所は十分理解できる。)

そしてこのさみしそうなメロディーに一目ぼれ,いや一聴き惚れしてしまったのだ。

聴いてもらえばわかると思うが,この曲はモノクロ映画のように人の感情に神経を集中させてくれる。色彩がない分ほかの想像力を掻き立ててくれる。自分の場合は暗い街で,失望して街を歩いている人を想像してしまった。失恋してさみしそうな人を見て目を奪われる気持ちがこれをきくとよくわかる。自分のような恋愛が分からない人間にさえ,そのような感情を疑似体験できる。それだけの説得力がこの3楽章にはある。
ここで自分の気持ちは落とされた。そしてすべてを一通り聞いたところ,この曲の虜になってしまったのだ。

好きな理由その2:長くない

交響曲は全曲通しで聞くと長いことが多い。この辺が交響曲を聴くことのハードルを上げていると思う。実生活だとなかなか聞かないのもそれが理由だ。短いものでも30分から40分,長いものがだと1時間は超える。

ちなみにこの曲は37分。ブラームスの曲の中では短め。
筆者はせっかちなのであまり長い曲は集中力が続かない。この短さもこの曲を気に入っている理由である。楽曲ごとに分けると長くても10分強でもある。これ位だったら聴いてみようと思う人も多くなるのではないか。

好きな理由その3:明るすぎない,飾りすぎない音色

交響曲といえば皆さまがぱっと思いつくのはオーケストラだろう。そのイメージは正しい。そもそも交響曲は管弦楽によって演奏される多楽章構成の大規模な楽曲を指す。(Wikipediaより引用)

結構な大人数,多様な楽器で同じ曲をするのだから当然大人数ゆえの華やかさや勢い,雰囲気の変動の激しさ,多様な楽器が重なる時の音色の変化等,魅力も多岐にわたる。

この曲を聴いて好感を持てた理由に「派手すぎない」ことがある。
この記事の作成にやたら時間がかかった理由がここである。派手さを感じさせない理由が説明できなかったのだ。

理由の一つはおそらく編成である。編成とはどの楽器をそれくらい使うか,という曲の取り決めのこと。いやいや楽器なんてわからないよという方。安心してほしい,難しい話をするつもりは一切ない。

交響曲第3番の編成は以下の通り。(Wikipwdiaより引用)

フルート2,オーボエ2,クラリネット2,ファゴット2,
コントラファゴット(1,4楽章),ホルン4(3rdと4thは1,4楽章),
トランペット2(1,4楽章),トロンボーン3(1,2,4楽章),
ティンパニ(1,4楽章),ヴァイオリン1st,ヴァイオリン2nd,
ヴィオラ,チェロ,コントラバス

私見であるが,曲で派手さを形作る要素は金物系や鍵盤系など太鼓系以外の打楽器と大活躍しているトランペットだと思っている。(全世界のトランペット奏者の皆様怒らないでください。)

しかしこの曲に関して言うとトランペットは1,4楽章にしか出てこないし,大っぴらなメロディーはほとんどやっていない。金物系の打楽器(トライアングル,ジンバル,etc)は出てこない。つまりめちゃくちゃ派手な要素はこの曲,皆無である。

反対に低音楽器やリズムを作る太鼓系の打楽器の存在感がある曲は落ち着いた雰囲気になることが多いように感じる。ここでいう低音楽器やリズムを作る楽器というのは以下の楽器である。(以下「落ち着き属性の楽器」という。)

ファゴット,コントラファゴット,ホルン,トロンボーン,ティンパニ,
ヴィオラ,チェロ,コントラバス

これらの楽器はケーキでいう土台,化粧でいう下地のような役割である。その人たちに課せられた役割が素晴らしければ,ケーキはおいしいし化粧はきれいに決まる。そしてこの曲ではこれらの楽器がメロディーを担当しているときもあるし,メロディーでなくとも目立っているところが結構多い。 支えているのにきっちりそこにいることが分かる。

おそらくこれらの楽器の存在感をきっちり盛り立てているから表面の装飾に頼らなくても魅力を十分出せる,地に足ついた雰囲気が出ているのだろう。

好きな理由その4:落ち着いた性格のくせに,目が離せない

編成だけでも曲の雰囲気が決まる部分はある。しかしそれだけで決まってしまっては面白くない。

この曲は落ち着き属性の楽器が目立つ個所を担当することも多い上,先ほど挙げなかった楽器たち(フルート,オーボエ,クラリネット,ヴァイオリン1st,ヴァイオリン2nd)も落ち着いた音を出す。そのためこの曲は基本的に落ち着いた性格である。

脱線するが,自分はだいたい落ち着きのある人より落ち着きのない人に目を向けてしまう。たいていの場合,落ち着きのない人は何やらかすかわからない危うさを持っているからだ。少し目を話すと次の瞬間何やらかしているかわからない。このひやひやした感じは,育児経験者や幼児と接する人であればお分かりいただけるだろう。

その理論でいえば,この曲は比較的落ち着いた音色で終始奏でられる。にもかかわらずだ。目が離せない,無視できないものを感じるのだ。なぜか。

交響曲に限らず,音楽はだいたい色々なフレーズやメロディーが緩急をつけて交互に登場し,そのイメージを聴き手に植え付ける。
例えば人間でも同じ表情しかしていない人と,表情がコロコロ変わる人,どちらの方が面白みあるかといえばたいていの人は後者方が気になってしまうと思う。

この曲で見られる情景は,普段落ち着きのある人が急にあらぶり,あらぶったかと思えば急にだまってしまう,あるいは嬉しそうにしたと思えば必死になっている。普段落ち着きのある人が何らかの理由でせわしなく表情を変える,いわゆるギャップが面白いのだ。性格や態度は落ち着いているくせにこの短時間でいろいろやられたらなんだなんだと思って見てしまう。これは人間の性だろう。

特に音量や表情がコロコロ切り替わる傾向が激しいのは4楽章。

(サンフランシスコ音楽院の動画より)

4楽章は「そこ急にそう来る?!」と思う場面も多いので聞いていて飽きない。さっきまで晴れていたのに急に雷が鳴りだしたら驚くだろう。大雨が降っていたと思ったら急に止んだ時,何だと思って窓を見るだろう。そのようなことが4楽章では多発する。ついていくのは大変だがついていけたらとても楽しい。そんな曲だ。

1楽章は4楽章ほどわざとらしくない。

(いい動画がなかったので冒頭の動画を再掲)

冒頭が何人かで音を伸ばしているのでこれから始まるという予感は十分感じ取れる。ただそのあとでさっそく高音と低音で別のことをやり始めたと思ったら颯爽と静かになる。そして急に田舎っぽくなって可愛げのある音が増えたと思ったら不穏になって悲鳴を上げる…このように表情の移り変わりにスキがない。どんどん変わるから無視できないのだ。

一瞬でも目をそらしたら何でそんな表情になっているのかわからなくなる。だから目をそらしたくないのである。
短い中でもここまで表情を変えられれば無視はできない。ひきつけられる魅力の一つは音色に似合わないこの不安定さだろう。

好きな理由その5:ちゃんと日常に戻る

様々な解説本にも書かれているがこの曲,最後はピアノで終わる。ここでいうピアノは楽器のピアノではなく,音の大きさのピアノである。音楽の授業でやったであろう,pと書かれる記号のことである。

ブラームスの交響曲は作った本人の好みなのか,どうも弱い音で終わる楽章が多い。余韻を残すのが好きだったのかもしれない。といいつつも,ブラームスの交響曲で最後の最後がピアノで終わるのはこの曲だけだった。(筆者調べ:IMSLPに掲載されているスコアより)

これも私見だが,交響曲は演奏する人間の多さが売りでもあるので,たいていは大きめの音で盛り上がって終わる方が「終了した!」というすっきり感は出てくる。聞いている方もやっている方もおそらくそうだろう。音楽という非日常にいるのであれば,ちゃんと「終わり!」といって日常に戻る方がすっきりするからである。

その証拠に世の中にある交響曲において最後がピアノで終わる交響曲は比較的珍しいとされる。(ただし,全く存在しないわけではない。例えばチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の4楽章は最後ピアノで終了する。)

おそらく自分の珍しいもの好きなところもあってこの終わり方にはひかれたのだろう。ただこの終わり方,珍しいはずなのに「ちゃんと帰るところに帰ってきた」と感じるのだ。

それはなぜか。

おそらくこの曲のもともとの性格だ。先ほどの項でも書いた通り,この曲,本来は「落ち着き」属性が厚く活躍する落ち着いた音色・性格の曲だ。

落ち着いた人があたふたしているからこの曲は面白いというのは前述の通り。だとすれば最後まで落ち着きがないまま終わるのは確かにつじつまが合わない。音楽が終わり,日常に戻るのなら曲にも日常に戻ってもらわないと困る。
そこで最後の最後で落ち着いたピアノでの終了である。こうすれば「元さやにちゃんともどる」という演出になる。最後に盛り上がらなくともちゃんと元さやに戻る。元に戻っていく,ほっとした感じが印象的なのだろう。

まとめ

まだまだ語り足りない気もするが,まとめるとこの曲の好きなところはこのようになる。

1. 有名な箇所がエモすぎる
2. 長くない
3. 明るすぎない,飾りすぎない音色
4. 落ち着きはあるくせに,目が離せない
5. ちゃんと日常に戻る

世の中には様々な交響曲があるし,自分がしっかり聴けている交響曲はごくわずかである。

しかしこの曲に関して言えば自分の知り合いにはぜひ勧めたい交響曲だ。
華やかさが好きな人,逆に徹底的に静かなものが好きな人には向かないかもしれない。しかし低音が好きな人,緩急しっかりしているものが好きな人,もの悲しい雰囲気が好きな人ならば必ず好きになるだろう。

自粛期間は終わってしまったものの,一聴してみるのも大人っぽい過ごし方ではないだろうか。


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