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幸福になる方法は、自分で実験してみなければ分からない -Yukko side-


わたしが人生をかけて解いている呪いの一部に「幸せになるためには不幸にならなければならない」という分節がある。



思い返せばいつだってそうだった。


高校受験は担任教師に「記念受験だよな」と言われてブチ切れたエネルギーで合格したし、蔑ろにしてきたやつら全員に中指立てるために5kg痩せて化粧も覚えたし、大学受験に失敗して地方に行くことになったあと就職でなるべくいい条件で都内に戻れるように努力したし、なかなか踏ん切りがつかなかった一人暮らしも当時の彼氏に浮気されて別れた時の勢いで始めることができた。

このように、わたしは怨みとか恨みとか、そういう類の気持ちを原動力に人生の節目を乗り越えてきた節がある。なので、幸せになるためには不幸になる必要があるし、お前に一生本当の意味での幸せはこない。というのがこの呪いの一節だ。



この呪いはどうしたら解けるのか。

他人の芝を青いと感じなくなれば、容姿とかお金とか、他人と比べるような幸せを欲しがることもないのかもしれない。

でもやっぱり、人は人、私は私なんて思えなくて。わたしの友人がSNSで言っていた言葉を勝手に借りるが、隣の芝は一生蒼いのだ。

そもそも、この呪いを解く必要はあるのか?

なにくその精神で、逆上したテンションで努力して幸せになれるならそんなに悪いことではないかもしれない。

それでもやっぱり、最終的に幸せになれるとしても、本当は一瞬たりとも不幸になんてなりたくないよ。不幸と比べても幸せがわからなくなるように、ゆっくりと感度が落ちてきているのを感じる。

人生において、不幸と幸福が同じ量だけ訪れるなんて真っ赤な嘘だ。迷信だ。根拠なんてなにもないんだけれど。


わたしが不幸にならないと幸福になれないのは、きっと、ずっと受動的なせいだろうなと仮定してみる。幸せを迎えに行くバイタリティもない。服を買いに行くために着る服がない、みたいな。流れてくる事象をとりあえず口に入れて、不味かった時だけ文句を垂れて作り直すから、いつになっても最初から美味しい食事を食べれない。


はやく幸せになりたい。でも幸せになれるのかわからないし、なにがわたしの幸せかすら、なにをもって幸せとするのかすらわからない。


主体的に動くのって難しいね。自分の人生なのに主人公が自分じゃないみたい。人生FPSじゃなくてTPSならもっとうまく幸せを探せたかもしれないのに。たらればたられば。



なーーーんてねちねち不幸自慢と過去の幸せ自慢をするのが最近得意技になってきているのでそれだけはやめます!



あと、今年は1ヶ月に1冊の本を読むか1本の映画を観ることを目標にしたのでせいぜい感受性を高めるとしますかね。幸せのきっかけをぼうっと見過ごさず拾いに行けるように。