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私はなぜわたしなのか -yukko side-


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はためくためスカートに風が必要なように、わたしはわたしじゃないもので出来ている

"イノセント・ガーデン"  主人公の冒頭の台詞より

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独身、女、職業は看護師、友人には「ゆっこ」という愛称で呼ばれていて、今月24歳になる。

生まれも育ちも東京で、このマガジンで交換ノートをする3人の女たちとは通っていた地方の大学で出会った。

好きなものはたくさんあるけど飽き性で忘れっぽい。幼少の頃は「人と同じ」が死ぬほどイヤだったはずなのに今は人と同じであることに安堵している。

それなりに生きてきたけれど、いいこを気取っていたらいつのまにかなんにも誇れない、周りと比べてひどく薄い人生を歩んできてしまっていた。

やりたいことはあるけれど、将来の夢は、ない。


これが私。


思えば私は昔から自分の選択肢を他人に委ねてばかりだった。大人や周りのキラキラしている友人が絶対的に正しい存在に思えて、食べたいものや生きたい場所、子供の頃の将来の夢や進路、果ては就職まで(そのほかもっと細かいことも)、自分以外の自分が正しいと思う存在たちに対してひたすら受動的に、流れ流されて24年間生きてきた。


つまり私は自分の選択で失敗することが怖い、臆病な見栄っ張りなのである。


大学を卒業して働き始めても自分を大人だと思えないのもこの癖のせいだと思う。いやいやいや、この歳になってそれはさすがにダメでしょ、とようやっと気づいたのがほんの最近。以降、この呪いを解くことを人生の目的にして私は日々を生きている。




とまぁ、こんな具合の人生を送ってきた私なので、アイデンティティというものがカケラもない。自我がないし、自分の存在がひどく不確かで、存在しているかどうかも怪しいなぁと空想を膨らますことがよくある。


だから今回のテーマである「私はなぜわたしなのか」なんてさっぱり全然わからないのである。困った。


私はなぜこの顔とこの名前でこの時間のこの場所に"わたし"として存在しているのか

…自己の存在に意味などないと思ってしまうし、

名前や顔や、さっき並べた自己紹介の1つが今と違っていたら、それはわたしではないのか

…私は何ををもって私であるのか はもっとわからない。


わからないけど、わからないなりにわかっていることは、冒頭に入れた映画のセリフのように私が私であるのではなく私じゃないものが私を作っている、ということ。


わたしを形成するすべての要素は流動的で、それらは常に変化していく。まるで皮膚のターンオーバーのように。その変化を慈しみながら、経験や環境や遺伝を内包するなかでどうしても手放せないものを見極めて古い皮膚をどんどん剥いでいきたい。新しい皮膚を大切にできるように。


自我同一性の形成が人より数段遅れている赤ちゃんのような私だけど自分のことを理解して目一杯可愛がってみたいから、「私はなぜわたしなのか」を考える前に、まず、わたしはわたしを作るわたしじゃないものをたくさん愛していこうと思う。なんてね。










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