見出し画像

#1 Media Studies)インプットとアウトプット以外

僕はメディアそのものについて考えるのが好きみたいだと気づいたから,メディア論やメディアアートについて書いていくシリーズを始めてみる。

メディア論の大きな話題の一つに「身体」がある。今回はこれ。

今回のまとめ:
もしも 人間の存在の本質={意識,身体}
ならば,人間にできること={行動,感受,記録}

ことばの説明
 意識:何かを判断しようとするこのわたし。
 感受:感覚として情報を得ること。甘味がする,目が見える,痛いなど。
 記録:時間的に幅をもって残る,物事の副産物。変形や古傷,思い出の証など。

人間のできることといったら行動(アウトプット)と感受(インプット)しかないと思える。どちらでもないものは本当にないのか。反例を探す。
内臓の感覚とかは?しかし,こうして意識のスポットを当てたらそれはもうインプットといえる。何も感じないというインプット。

ただ思うにこれは当然で,「この2つしかないかあ」と考えている自分の意識がそうした限界を持っている。「人間の存在の本質とは意識だ」いう認識は今も受け入れられる話だが,その認識が必然的に,人間のできることを意識ができることへとすり替えている。入力と出力,受動と能動。人間のなすことは二分される。

インプットでもアウトプットでもない「人間にできること」を見つけるために,その認識の外に出てみよう。


意識は身体から離れられない以上,身体も人間の本質だとするのは受け入れられそうだ。

身体は記録する。年取った人の顔にはシワがある。折れた骨や皮膚の大やけどは治った後も多少変形したままになる。神経のネットワークは鍛えられ,職人技や思い出を記録する。

この記録「する」というのは行動や感受の一つに思えるかもしれないが,重要なのは,現代の「私つまり意識」が「する」という機能を持つ仕様をしているということだ。つまりここでの「記録する」とは,世界の片隅で道の石ころが勝手に欠けたり,人知れずアリが潰れて死んだりといったことと同じような,いわゆる意識の外の物事を指す。

記録する身体は行動も感受もしていない。

どうやら,人間は記録もできるらしい。その裏には人間の本質を意識の他に身体にも認めたことがある。つまりそれによって身体ができることも人間にできるようになった,と捉えられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?