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機構・ファン双方に求められる正しいスピード感と意識改革-MLBの「粘着性物質使用禁止令」の背景と今後

 2021年MLB前半戦の大きなトピックの1つが、6月に入り突如導入が発表され、現地時間6月21日に導入された「粘着性物質の使用禁止」のルールだ。正確な言い方をすれば、これまで「暗黙の了解」の領域だった部分にメスを入れ、ルールを厳格化・厳罰化したということになる。これに対し投手を中心に、一部MLBファンからも上がった批判の1つは、「シーズン途中からの突然の導入はおかしい」というものだ。例えば、レイズのモートン投手は6月に起こした肘の部分断裂につき、「突然のルール変更のせい」だとしている。

 もし、単に野球が他の一般の社会・経済とは無関係の領域、ビジネスとは無関係の領域、他スポーツや他のエンタメとの競合とは無縁の領域で行われるなら、「突然のルール変更はおかしい」との理論は、全く正解だろう。しかし、こうした前提条件はまずありえない。現実の社会・経済の変化はスピードを増し、スポーツだけでなくエンターテイメント全般が多様化している。この変化や競合に対応する「社会・経済の中の野球」を考えた場合、「シーズン途中で変更してはいけない」といった硬直的な考え方で、問題解決を放置して先送りするのは間違いと思う。この点、「粘着性物質の使用禁止の厳格化」のシーズン途中での素早い導入も理解できる。一方で、速く動くなら、問題の本質、一番大事にすべきものに直接的に素早くアプローチすることが必要と思える。これは、ハードプレーの前提である「安全」のために欠かせない「滑らないボール」であり、日本での使用球を素早く採用することも1つのソリューションと言える。

1.「粘着性物質」はグレーゾーンだったMLB

 本来、投手は、投球の際「何もつけてはならない」というのがルールブック上の規定である。日本の公認野球規則「8.00投手 8.02a 禁止事項」では、投手の禁止行為として以下の6点が挙げられている。
(1)指をなめる
(2)ボール、投球する手またはグラブに唾液をつけること。
(3)ボールをグラブ、身体、着衣で摩擦すること。
(4)ボールに異物をつけること。
(5)どんな方法であってもボールに傷をつけること。
(6)違反したボールを投球する

 しかし、MLB界では、長い間、滑り止め対策として球に何か物質をつけることが黙認されてきた。粘着性の高い松ヤニのような物質は使えないものとされ、2014年当時ヤンキースのピネダ投手がレッドソックス戦で使用を指摘され退場になったこともある。しかし、日常生活で使用するスキンケア用のクリームなどは許容範囲とされた。MLBの使用球は滑りやすい一方で、MLBで使われるロジンバッグは滑り止めの効果が低く役に立たなかったからだ。この過程で、MLBでは、球に物質をつけて投球することは、半ば「暗黙の了解」の領域となっていた。一例として、2019年5月に、ヤンキース戦に登板したSEA菊池投手が帽子のツバを合間に触りながら投球していたことをNYメディアが指摘、「不正投球しているのでは」と嫌疑をかけたが、当の「被害者」のはずのヤンキース側が特段問題視しなかったこともある。その一方で、最近は「スパイダー・タッグ」と呼ばれる強力な滑り止めが急速に普及、回転数が増加傾向にあった。

2.背景にあるMLB野球の変化と若年層の「野球離れ」

 2021年の粘着性物質の取り締まりの背景にあるのは、これまでも模索されてきた得失点のアンバランスの是正である。その根底にあるのは、マンフレッドコミッショナーによる、NFL・NBA・MLSなど他スポーツとの競合による野球人気低下の防止、さらに具体的に言えば若年層のファン獲得、ファン離れ防止といえる。

 2000年以降、MLBの1チーム、1試合あたりの平均得点は以下のように変動している。

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▲MLBの1チーム、1試合あたりの平均得点

 変動の背景にあるのは、2000年代後半以降に広まった守備シフト、2010年代後半に始まった、打者が打球に意図的に角度をつけてホームランの確率を高める「フライボール革命」である。この間投球の傾向も変化した。投球の回転数(スピンレート)の増加が打者を打ち取るためにはより有効であることが明らかになるにつれ、2010年代後半には、回転数を高めた4シームが広がっていった。

 さらに、こうした動きの背景にはデータ収集・分析技術の進化、さらにテクノロジーに精通したGMの広がりがある。この間に得失点のバランス、言い換えれば打高投低と投高打低が変わっていった。この間試合時間が年々伸びていったこともあり、「野球は動きが減った」「野球はつまらなくなった」という声が広がり、若年層を中心とした野球離れが広がっていった。ここで、試合時間の短縮とともに、攻撃と守備とのバランスが要求されるようになった。特にマンフレッドコミッショナーはこの意識が強く、従来の野球ファンには受け入れがたいものも含め、様々な改正案を検討するようになった。しかし、選手のプレーに直接関連性が高いルールに関しては、シーズン中途での変更はなかった。

3.2021年中途の突然の「取り締まり」の背景-「低反発球」の副作用の迅速な是正

 では、なぜ、2021年はシーズン途中で突然粘着性物質の取り締まりを行うこととなったのか?これは、シーズン前に導入された「打高投低」の是正策が逆効果になったことである。この策は、ボールの反発数の低下である。上記の通りMLBではここ数年ホームランの増加傾向が続いていたが、この是正のため、ボールの大きさを変えずに最大2.8グラム軽くして反発係数を下げる策がとられた。合わせて、さらにボール保管の温度・湿度を一定にする倉庫を導入する球団も増えた。その狙いは、「ホームランばかりではない動きのある面白い野球」ということだった。

 しかし、蓋を開けてみると、今度は極端な「投高打低」に振れた。2021年4月の平均打率は.232、1試合あたり平均安打は7.63本と極端に減少、ここ数年で最低水準になるとともに、平均安打は過去最低だった1968年の7.91本を下回るものになった。ここでもまた、「ボールの変更は野球を面白くなくした」「間違いだった」という声が広がる。

▼主要なMLB平均スタッツの変化

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 そこでよく言えばターゲット、悪く言えばスケープゴートとなったのは、投球の異様な回転数の増加であり、その背景として疑われたのはいわゆる「スパイダー・タッグ」などの粘着性物質の使用である。これを取り締まるのが投打のバランスを是正し試合を面白くするのに有効な近道と考えられたわけである。これは、投手を中心に反発を受けながらもシーズン途中の2021年6月に導入された。その結果、上記のように極端な「投高打低」は是正された。その一方で、LADバウアー、NYYコールといった4シームの回転数が高かった投手は影響を受け、冒頭で書いたようにTBモートン投手のような「故障につながった」との不満も出ている。このシーズン途中での導入に関しては、ファンの間でも、どちらかと言えば不満が多い感じだ。
 現地報道を見るに、取り締まりの導入のうわさが流れたのは、6月2日のようである。以下のNYポスト紙電子版の記事に、ヤンキースやその主要選手に関する6月2日以前と6月3日~22日の主要スタッツの比較がまとまっていた。これを取り出すと以下のようになる。
(出典)
MLB crackdown hasn’t been too kind to Yankees
By Ken DavidoffJune 23, 2021 | 8:43pm
https://nypost.com/2021/06/23/mlb-crackdown-has-helped-some-yankees-and-hurt-others/

チーム平均得点:3.77→4.69
チーム平均失点:3.57→5.44
(個々の野手の打撃成績)
ルメイヒュー:.255/.339/.328→.286/.333/.471
サンチェス:.205/.331/.386→.319/.373/.723
ガードナー:.185/.272/.235→.278/.426/.583
(個々の投手に関する対戦打者の成績)
ハーマーン:.224/.262/.424→.333/.385/.550
チャップマン:.088/.213/.176. →.417/.481/.750
タイヨン:.203/.243/.305→.341/.388/.477

チャップマンはその後もセーブ機会の失敗が続き、ASG直前の前半戦終了時には、一旦クローザーの座を外された状態になっている。

4.経緯のまとめ

 ここで、粘着性物質取り締まりまでの動きをまとめると、以下のようになる。MLB、野球の変化、さらにその背後にあるデータ分析力の向上が1本の糸につながるとともに、社会の変化やニーズを受け、新たな方向性を迫られていることがうかがえる。粘着性物質取り締まりの件もこの延長戦上にあるものだ。
この流れの間、Z世代をはじめとする若者の娯楽や趣味の多様化が進んだほか、GAFAのような巨大IT企業の台頭、スタートアップの台頭、シェリングエコノミーの拡大など、社会・経済の流れも大きく変わった。そして、よりスピードが求められる社会になった。一方で、2015年採択のSDGs採択などの持続可能な社会に向けた動き、ESG投資の拡大、環境を意識した消費者や企業の行動変容もあった。これらの動きも、MLBは無縁ではいられない。

データ分析力のあるGMが次々就任、データ野球への動き
  ↓
守備シフト導入の増加
  ↓
打撃スタッツの低下
  ↓
「フライボール革命」による打者の対抗→HRの増加
  ↓
投球の回転数の増加による投手の対抗(「スパイダー・タッグ」の使用?)→三振増加
  ↓
全体でHR多すぎの打高
「野球に動きがなくつまらなくなった」批判
若者の野球離れ、娯楽の多様化、競争力の」低下
  ↓
「動きある野球」への模索
  ↓
機構による低反発球の導入
  ↓
一転「投高打低」となり失敗
  ↓
機構による粘着性物質取り締まりの急遽導入


5.スタートアップや投資家目線だと:「選手やファンの意識は遅すぎる」はず

 MLBが導入したこのシーズン途中での「粘着性物質取り締まりに関して」、選手・ファンの多くは「急すぎる」「突然すぎる」「なぜシーズン開始前にできないのか」という批判は根強い。しかし、野球を離れて、一般のビジネスの視点、さらにスタートアップや投資家の視点でみたらどうなるのだろうか?特に「野球をよく知らない、野球より他スポーツ、他娯楽が好きなシリコンバレーのスタートアップや投資家」というペルソナを想定した場合どうなるだろうか?このペルソナは、上記のとおりMLBが変化する中で、社会、経済の大きな変化の担い手となった主役である。

 私は、彼らにすれば、今回のマンフレッドコミッショナーの動きは「当然」どころか「遅すぎる」というかもしれないと思う。そして、今回の粘着性物質の取り締まり導入を「突然すぎる」「性急」と批判する選手やファンに対しては、さらにこういう逆批判を加えられるかもしれない。


・スピード感がない
・素早くPDCAを回すのが当然だろ
・ビジネスでは「シーズン終わってから」では遅いんだよ
・「とりあえずやってみる」「間違ったらすぐ直す」感じですぐ動けよ

 「いきなり完成版をつくるのではなく、まずベータ版をローンチして、そこで課題をユーザーから集めて改良したうえで、完成版へと精度を上げる」のが、現在のIT、テック、ソフトウェア業界では当然の考え方。バグを100%なくしてから、じっくり確認してから…というのは、彼らの観点では遅すぎるのだ。これを今回のMLBに当てはめれば、「問題があるならすぐ「取り締まり策」をシーズン途中でも素早く導入すればいい」「もし新たな問題がわかればそれを改善する策を素早く打てばいい」「シーズンが終わってからなんて悠長なことは言えない」ということになる。こうしてPDCAをまず小さくかつ素早く動かして成長させる「リーンスタートアップ」という概念もある。

 そして、その「スピード」が圧倒的に要求されるのが、世界のイノベーションの源泉となりGAFAを産み出したシリコンバレーだ。ここで重要されるのはスピード。詳細は下記のリンク記事に譲るが、キーワードを挙げると以下のようになる。

・シリコンバレーではそんなゆっくりはしてられない。即決定、即実行が基本である。
・現代のビジネスにおいては、時間をかけるのが一番のリスクとなりえるだろう。
・急いで決断、行動することのリスクよりも、得られるメリットの方が大きい。もしそれが原因で失敗したとしても、取り返しのつかないことは少なくなってきていると感じる。
・チャンスは長居してくれない
・顧客ニーズの高速化
・競合に対する防御策

(出典)
Brandon K. Hill「シリコンバレーの企業はどのようにしてスピードを上げているのか?」
https://blog.btrax.com/jp/sv-speed/

 MLBにもファンという顧客がいてそのうち若年層の多くを取りこぼしている一方、NFL、NBA、NHL、MLS、さらにヨーロッパサッカーやEスポーツ、スポーツ以外の多様な娯楽といった競合がある。これに対する素早い対応が求められる。この点を意識せずして、「シーズン中途はタイミングが悪い」という理由だけでシーズン中途での粘着性物質取り締まりを非難する一部選手やファンのマインドセットは、もはや古いと言わざるを得ないだろう。

 こう考えると、私も、今回のマンフレッドコミッショナーの動きには一部理解できるところもある。というよりは、最近導入した、あるいは導入を図る複数の策にみられるように、マンフレッドコミッショナー本人が、実は「競合」「スピード」を意識しているような気がする。このマインドセットやその背景にある変化のスピードアップは、ファン・選手とも理解する必要があるだろう。

6.「本当に解決すべきもの」へのスピーディなアプローチを

 スピード感ある対応は理解できる一方で、「究極に解決したい課題」「究極の問題の根源」を素早くみつけ、スピーディに解決する必要も感じる。野球の場合、そして今回の「粘着性物質取り締まり」の場合は、これは「安全」と思う。

 そもそも、なぜ投手が手に何かつけて投球することを黙認せざるを得なかったのか?なぜロジンバッグが生まれたのか?この理由はMLB球の滑りやすさであろう。滑りやすいから投球時に死球をぶつけ不意の故障を打者に及ぼす危険がある、その防止のためには、安全のために何かつけることを黙認せざるを得ない、ということだろうか。となると、根本的な解決は「球を滑りにくくすること」である。「滑りやすい」ということが、回り回って、前記「スパイダー・タッグ」のような強力な粘着性物質が入り込む余地を生んでいるはずだ。初めから球が滑りにくければこの余地はない。では、「球が滑りにくいデメリットは何ですか?」と聞かれたら、私は思いつかない。

 パドレスのダルビッシュ投手がいうように、日本で使用されている滑りにくい公式球を使うという有効な代替策が、幸いに現存する。また、投手を「ユーザー」として捉えた場合、現時点ではこれ以上のソリューションは私には見つからない。メーカーとの関係やしがらみの枠を乗り越えて、まずはPDCAを速く回す一環として日本の公式球を使用するというのも、あっていいのではないか。
 というよりは、スピード感を持って動くのが、そもそも日本にはないアメリカの良いところで、これがGAFAを生み出し、様々なイノベーションを生み出した源泉ではなかったのか?MLB関係者にはここも思い出してほしい。

7.付記:マンフレッドコミッショナーに対して

 この「粘着性物質取り締まり」の導入など、マンフレッドコミッショナーに目立つものは、他のスポーツや趣味・娯楽との競合の意識、グローバルな視点、ビジネス的な目線である。このマンフレッドのスタンスに関しては、個人的にまとめれば「功罪相半ばする」といったところか。新たな変化を求める点は理解できるが、「野球というスポーツの本質、優位性」まで変えようとしている例も多い。投手マウンドを後ろに下げる提案がその例だ。野球には時代の波にあっても変えられないものもあるように思う。これはどのスポーツや娯楽にも当てはまる。ここを留意してほしい。
 あと1つは、野球というスポーツへの愛。コロナ禍に見舞われた2020年、選手会との対立で開幕が大場に遅延したときのマンフレッドのスタンスには、この「愛」が感じられず、大きな失望を禁じえなかった。2021年オフには現労使協定の期限が切れ、いよいよ新たな労使協定の交渉を迎える。時代の変化や社会・経済の変化に応じて、旧来からの野球ファンの目線では違和感のある改正や変更もあるかもしれない。そして、野球ファンも、現実に応じてこれらを受け入れる必要も出てくるだろう。しかしながら、ここでも、マンフレッド氏には根本的な「野球への愛」「変えられないものの存在」は忘れないでほしい。

 私が想像するに、マンフレッドがイメージする野球の「望ましい変化」変化像は、サッカーやアメフト、ラグビーというよりは、試合が速くかつ点がたくさん入るバスケットボール。確かにZ世代や多様な人種に興味を持たれており伸びしろの大きいスポーツなのだが、バスケにはない野球の良さも整理することが必要だと思う。

 

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【その他主な参考記事】
水次祥子「MLB取り組む「動きのある野球」低反発化で第一歩」、日刊スポーツ電子版、2021.2.9
https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/202102090000541.html

BASEBALL KING「“飛ばないボール”で本塁打が減少?「魅力ある野球」を追求する」2021.5.3
https://baseballking.jp/ns/column/276338

ESPN News Services「MLB hopes offensive numbers perk up after historically rough April for hitters」2021.5.2
https://www.espn.com/mlb/story/_/id/31371552/mlb-hopes-offensive-numbers-perk-historically-rough-april-hitters


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