見出し画像

僕らが解放したもの

2023年3月31日。
トランスジェンダー可視化の日。
特別な日に、今までで一番印象に残っているカミングアウト体験について語ろう。

それは、冷え込みが激しい夜のこと。
映画ファンの友達(自分の友人はたいてい映画ファンだけど)とチャットで最新作について語り合っていた。
会話が盛り上がっている最中、自分のアイデンティティを告げようと試みる。
Queerであること。
ノンバイナリーであること。
一つ一つの単語について知っているか相手に確認しながら、簡潔に説明していく。
ここまではどこかで聞いたことのあるカミングアウトの物語だよね。
自分としても、他の人に伝えた時の経験と大差ない。
だから、詳細は省くよ。
サプライズは、ここからなんだ。

LGBTQ+関連のキーワードを相手が知っていたことに安心と少しの驚きを感じながら、メッセージを送信し続ける。
すると、返ってきたのは

「それなら私も気が楽。私はトランスジェンダー」

!!!!!
んんん!!!???
何が起きてる!!!???

カミングアウト直前とは比較にならないほどの混乱と興奮。
まさか逆にカミングアウトされるとは……
さすがに心の準備ができていなかったよ(笑)

「もしかしたら……」って疑問に思うことはなかったの?
って聞きたくなる人もいるかもしれない。
実はこれが、全くなかったんだな(笑)
そりゃ付き合いが長いからいろんな趣味の話をしてきたし、一緒にご飯を食べに行ったこともあるくらい。
いや、友達ならご飯くらい食べに行くだろ!!
ってつっこまれるかもしれないが、自分は不安障害があって、誰かと食事をすることは大きなハードルなんだ。
パニック発作が起きないか心配だし、そんな莫大な不安を抱えながらじゃ落ち着いて食事も会話もできないし。
だから、「一緒にごはんを食べる」というのは相手にそれほど心を開いているという証なんだ。
本当に信頼している人か、メンタルヘルス問題に理解がある人でないと無理だね。
もちろん、食事を共にしなくたって友情は深められるよ。
日常的な会話だったり、プレゼントを贈り合うことだったり。
あるいは、大量に食べなくて済むように、カフェを選んでゆっくり過ごすという方法を使うこともある。(飲み物だけなら負担が少ないからね。)
長期間、自身の精神状態と向き合っていると、いろんな工夫が生まれるよ。

話が逸れたね。
本題に戻るよ。
確かに、今思えば「そういうことだったのか……!!」と腑に落ちる点はいくつかある。
例えば、美容の話。
時々、スキンケアやコスメについてのコメントが送られてくることがあった。
その時自分が思っていたことは、「自由に自身を磨こうとしているなんて最高じゃーん!!」とか、「女子の友達以外とスキンケアについて話せて嬉しい!!」とかだった。
「こんな風になりたいんだ」と、ある女優さんの名前を挙げられた時も、「ジェンダーに捉われずに憧れや理想とする人を見つけられるのは素敵だな」と感じていた。
逆に、ジェンダー表現について、そういう感性や感覚を持っている人だったから、自分はカミングアウトしてもいいかな、と思えたんだと思うよ。
だけど、今となってはそれら一つ一つがジェンダー・アイデンティティのカミングアウトのようなものだったのだと気付く。
「あの時のあの言葉はそういうメッセージだったのか……!!」の連続。
まるで伏線回収。
映画ファンの好きな言葉:伏線回収 (笑)

仲良くなってから1年以上経つのに、改めて自己紹介するような感覚で相手と話していく。
君は今まで“女子らしい〜”とか“男性向けの〜”みたいな表現を一切使わずに話をしてくれた。それがどれほど気が楽で、ありがたかったか……!!
という、カミングアウトした後だからこそ言える感謝も伝えた。
何かをしてくれたことよりも、何かをしないでいてくれたことに救われる経験、ノンバイナリーの人なら共感してもらえるんじゃないかな?
代名詞も確認し合った。
そして、ようやくこう呼べるんだ。

“彼女”

上に書いた彼女の返信を読んだ時、多くの人が注目するのは“トランスジェンダー”という単語に違いない。
でも自分はそれと同じくらい、ある言葉から目が離せなかった。

“私”

それまで、彼女は“私”という一人称を使っていなかった。
じゃあなんて言っていたのか、と振り返ってみたのだけど、コロコロ変わったり、そもそも一人称を使わない文章を組み立てて話していた。(自分も人と話す時は頭の中でそうしているのでよくわかる。)
それがカミングアウト後、“私”に統一された。
しかも積極的に使っている。
変化はそれだけではなかった。
口調そのものが変わったんだ。
言葉で具体的に説明するのは難しいのだけど、より柔らかい話し方になって、とてもリラックスしているように感じられた。
彼女は解放されたのだ、と思った。
と同時に、これまでずっと自身を押し殺しながら言葉を紡いできたのだな、と抑圧の日々に思いを巡らせずにはいられない。
親しい人にすら真の自分を表現できないことがどれほどの苦痛か。
ようやく彼女にとって好きな表現ができるようになったことに安堵し、泣きたくなった。
送られてきた短い文章を何度も読み返し、実際に泣いていた。
今も、これを書きながら泣きたくなってくる。

ジェンダー・アイデンティティをオープンにした後、会話の内容はより個人的な話になる。
解放のもう一つの面として、「メンタルヘルスについて正直に語れるようになった」という変化がある。
抱えているメンタルヘルス問題を打ち明けることそのもののハードルと、このテーマを扱う際に大きな影響を与えているマイノリティ性(Queerであるというリアル)を共有することの難しさ、その両方がクリアされたからだ。
「過去にこんな困難を経験した」
「今現在こんな問題に悩んでいる」
マイノリティ当事者同士だからこそ細かい説明なしに共有でき、共感できることがある。
お互いに医者ではないから治療はできないけど、「不安や鬱について語っても拒絶しないで聴いてくれる」存在がいることは、どれだけ心の支えになっているだろう。
そして、このリアルをたくさんの人に知ってほしい。
トランスジェンダーに関する課題がトイレ問題で行き詰まってしまっている今。
当事者の命と健康に直結するメンタルヘルス問題について、どうか向き合ってほしい。
トランスジェンダーの権利についての議論の過程で、当事者が追い込まれている現実。
命を守るための法整備なしにこの差別が氾濫する日本社会を生きていかなければならない恐怖と絶望。
僕らは限界だ。
彼女とそれぞれの秘密を打ち明け合ってから、自分は毎日祈るようになった。
「どうか、明日も生き延びられますように」
彼女と、世界のどこかで危険に直面しているマイノリティの若者を思い浮かべながら
「どうか、彼らが明日を生き延びられますように」
トランスジェンダー差別発言を繰り返す人たちへ。
仲間の幸せを願うことしかできず、無力感に苛まれ、それでも祈ることでなんとか自分を保ちながら夜を明かすような日を、たった一度でも過ごしたことがあるだろうか?

彼女が自分にもたらしてくれたものは、考え方の変化だ。
それまで、ジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティをオープンにすることは、自分自身を解放することだと思っていた。
好きなジェンダー表現ができるようになったり、好きになった人への愛を相手のジェンダーに関係なく語れるようになったり。
だけど、それだけじゃなかった。
いつの間にかアイデンティティを共有した相手を解放し、そして相手との関係性をより自由な形へ押し広げていたんだ。
それは、僕らが存在する空間、世界を解放することでもある。
有名人に限った話じゃない。
一般人の、田舎に住む無名の若者でも、そんなすごい変化を起こせるんだよ。
これを読んでくれているQueerの人たちの中には、こう思う人もいるかもしれない。
「自分はまだカミングアウトできていないから、何も変えられていない……」と。
全力で否定しに行くよ。
そんなことないから!!!!!
解放のための手段はカミングアウトだけじゃない。
君が選択した自己表現、オープンにした自分らしさ、例えば、“今日、好きな服を選んで着る”こと。
些細な行動に見えるかもしれないけど、それが周りを動かしている。
少なくとも自分は、変えられたよ。
インターネットが発達したSNSの時代。
簡単に遠くにいる誰かと繋がれるようになったからね。
君がなんとなく投稿したファッションスタイルが、言語も国も異なる地域に住んでいる一人のQueerを勇気付ける可能性だってあるんだよ。
自分のInstagramではけっこうな頻度で起こる現象なんだな、これが。
で、たまたま流れてきた魅力的なファッションの人のプロフィールを見に行くと、トランスジェンダーだったりする。
このQueernessを全肯定される感覚、言葉にならないね。
だから、ありがとう、と伝えたい。
君のジェンダー表現、ジェンダー・アイデンティティ、そして何より君自身の存在。
全てが希望の象徴です。

トランスジェンダーやノンバイナリーであることを自覚することは、何かの終わりや停止を意味しない。
むしろ、それは始まりの合図で、世界の拡張なんだ。
そして、僕らは進み続ける。
先へ。
先へ、先へ。


この文章を自分に“解放”の意味を教えてくれた彼女に捧げます。




読んでくださってありがとうございます。いただいたサポートは【Club with S】運営メンバーがジェンダー論を学ぶ学費(主に書籍代)に使わせていただきます。