思う、伝える

よく人から「何考ええるのかわかんない」とか「ほんとはすごく腹黒そう」とか「てきとーだな」とか、そういったことを言われるタイプの人間だ。

この世の中には一定数いることは、ネットの記述を見ていてもわかる。僕もその一人で、そう言われることに悩んでいる一人だ。

自分の気持ちが人に伝わらないということはとても苦しい。とっても悲しい。本心で思っていることや考えていることなのに、そのまま受け取ってはくれないことがどれほどつらいことなのか、僕は今まで身をもって感じてきた。つもりだ。

自分の思いなんで、そっくりそのまま人に伝えられるような簡単なものではないということなら百も承知だ。でも、その壁を乗り越えるべく、今までわれわれ人間は頑張ってきたのではないか。絵を描き、言葉を覚え、歌を唄い、そうやって思いを伝える術を手に入れてきた。

そうした道具をうまく使って今、思いを君に伝えてみる。すると、大体の君はこういうのだ。「え~、なんか嘘っぽーい」

さぁ、この状態は何だろう。仮説は二つある。

僕の思いが不完全なのか。僕の道具が不完全なのか。

不完全な思いは、僕の「すごい」と思う気持ちのこと。本当に人のことすごいと思ってる?本当に人のために心配してあげてる?実は自分自身のためだったりしない?

全部、ノーでありイエスだ。きっと僕はすっかり完全には人のことをすごいとは思えない程度には負けず嫌いで、何かいいものを盗んでやろうとする程度にはしたたかな人付き合いをしてしまう。でも、それはほんの一部でしかない。純粋に感心することももちろんあって、そういう意味ではかなり感傷的だとまで思うほどだ。人のことを心配するのだって、心配されることでその人が僕に好感を持ってくれるならなんていいのだろうっていう下心がないわけではないけれども、それでもそれだけで生きているほど腐ってもいないとは思っている。

行動なんて、自分のためさ。でも、自分のためだけの行動なんて存在できない。物事はすべて、混ざり合っていて、完全な色をしたものなんてないと思うこともある。

不完全な道具は、表情のこと。声のこと。気持ちが顔に出てる?声に心がこもってる?伝えるっていう気持ちを本当に持っている?

さあ、イエスとノー。確かに昔から人に自分を見せるのを躊躇うような人間だったかもしれない。今ではましになったつもりだけど。まだ完全には解消されていないということなのだろうか。でもそれってなんで?僕は何を恐れているの?わからないなぁ。じゃあ、感情の解放術を練習した方がいいの?演劇を学んでみた方がいいの?

やっぱり、本心が欠けていると自然と表面にもにじみ出てきてしまうのかな。そうだとしたら、やっぱり心の問題なのかな。

だだ、自分のためっていうのが、僕の場合は人のためになってしまっているのかもしれないともあの後少し気づいた。人のためが自分のためになってるから、少し利己的に映ってしまうのだろうか。そうしたら、それはなんて残念なことだろう。

答えが出ない。でも、これはとても大きな問題だ。これからも、これまでと同じように、考え続けていこう。

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