#12【国と地方の関係の整理】

『コロナ後の世界には』何があってほしくて、どうすれば皆が楽しく暮らせるのか、一つずつ自分の望みを書いていきたいと思います。統治機構の話。

我が国には地方自治の原則があることは事実である。そして、その本旨とは、地域住民にとって身近な地域特有の課題については、国が一律に解を用意するのではなく、地域の特性に応じた解決が住民のより良い福利に繋がるだろうとの考えである。

この考えは何ら間違っていないように思える上に、そうした地方自治は我が国の多様性をも涵養し、足腰の強い国家の実現に資するものであろう。

しかしながら、気を付けなければいけないことは、この地方自治の本旨から国と地方は対等であるという法則は決して導き出されないことである。もちろん、地域固有の課題に取り組む段階にあって、かつ地域の特徴に応じた解決が住民のより良い福利に繋がるであろう場合に、地方公共団体は国の方針にただ従うだけでなく、住民の抱える課題に一番近い行政体としての責任を全うすべきであり、その解を導くにあたっては国と対等な立場で頭を働かせ手を動かし仕事をしなくてはならない。それに対して国が不必要な干渉をしないという意味では、”対等”が保障されるのは当然である。(なお、金だけ出して権限はよこせというのは論外である。)

一方で、地域課題というレベルを逸脱する課題については、その考え方は適用されるべきではない。安全保障や外交、食糧計画や国土計画といった、分野による整理のみならず、単に任意の課題について、より大局的な立場に立った判断が求められる時には、当然に国が地方に優越することになる。
これは簡単な思考実験をしてもすぐに分かることであろう。例えばA町の住民10人による鉱山開発のために、下流域の隣県B市の住民1000人に健康被害が想定されるとして、A町が独自の低リスク判断に基づき開発許可を出すことは望ましくなく、国は国民1010人を守る責任を負う立場からA町やB市に優越して許可権限を有する訳である。これは権限の棲み分けの問題に矮小化するべき議論ではなく、そもそもの立場の違いが対等ではなく上下のあるものだということを認識するべきであることを示唆しているものだと捉えなくてはならない。

こうした理があるにも関わらず、国と地方は対応だというお題目を唱え、社会の発展を、自地域の都合のために阻害するような動きがあることには怒りを禁じ得ない。世の中には、全体主義とそうでない理想が、たった二つだけある訳では決して無い。正義と正義の争いの中で、二つの正義が両立できない状況にあった場合、何かしらの判断を下さなければならないのが、現実世界である。地方自治の原則をこの理に抗うためだけの口実にさせてはならないと切に思う。

コロナ禍でも、特措法上の国と県の権限が問題に上がった。経済活動を優先する近郊県の知事が要請緩和をしたことで、都心県の感染が誘発され増加したような場合、近郊県知事は都心県住民による民主的審判を受ける構造になっておらず、責任関係が非常に曖昧になってしまっていた。同じ国の中であるにも関わらず、まるで陸続きの欧州大陸国家間で繰り広げられる移民忌避競争のようなことが起きてしまう。連邦制国家でもない我が国内部においてこのような事態が発生することは、社会契約によって我が国を現在の形に樹立した歴史行為に対する重大な違背となる。緊急時の国による地方公共団体への命令権、取消権、代行権に至るまで、しっかりとした権利関係を整備しなければならない。
2000個問題を持ち出すまでもなく、間違った「地方自治」の建前が我が国の発展を長らく阻害してきた。憲法改正、地方自治法の抜本改正まで視野に入れた本格的な統治改革が必要になっている。

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