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俺ガイル本編の最終盤における八幡の成長について

はじめに

 本稿は、渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(小学館ガガガ文庫、以下『俺ガイル』)の14巻終盤における比企谷八幡と平塚静のやり取り(P.497-)を振り返って、その作中での意味合いを検証するものです。

 より具体的には、以下で言及した二つの行為について考えて行きたいと思います。

 以上、よろしくお願いします。


作品をどう読むか

 まずは大きな話から始めることにしましょう。
 とはいえ結論から言うと、基本的にはどう読んでも良いと思いますし、読者が作品構造をどのように解釈するのも自由だと私は思います。

 例えば哲学という分野からアプローチする方法論については以下のブログが。

 例えば「本物とは脱構築である」という話については以下のサイトが思い浮かびます。

 なので他の方々の解釈モデルを否定する気は全く無いのですが、とはいえ同じ作品について語り合ったり議論をする際には、ある程度の認識の共有が必要であろうと思われます。

 そんな時に私がよく採用する方針は、他者の解釈にはできるだけ立ち入らず、より包摂的な(あるいはプライマリーな)共通理解を前提に話をするというものです。

 私が上記の呟きの前提にしたのは、『俺ガイル』という作品が「平塚が八幡を奉仕部に入部させたことから始まる物語」だということでした。
 これは上記のお二方を始め多くの方々に受け入れられる(それぞれの解釈と衝突が起きにくい)前提ではないかと私は思います。


作中キャラの成長とは何か

 とはいえ具体的な話に入る前にもう一段階、前提を狭めておきたいと思います。
 つまり「成長」という言葉の使い方ですが、これを作中キャラの主観ではなく客観的に、かつ効果が期待できる場合に限って用いたいと思います。

 と言っても伝わりにくいかもしれないので具体例を挙げてみます。

 例えばファンタジーな世界において、思春期をこじらせて仲間に反抗的な態度を取ってきたシーフくんが居たとします。
 もしも彼が心を入れ替えて「みんなの力になりたいから攻撃系のスキルを取るよ」と言い出したところで、既に攻撃系のメンバーが揃っていれば意味がありません。シーフくんの主観では成長と言えますが、客観的には成長とは呼びにくい状況です。
 あるいは彼が「偵察などに役立つスキルを取るよ」と言い出したところで、既に他のメンバーが彼に期待をしなくなっていたら意味がありません。心を入れ替えるのが遅すぎたという展開は往々にして起こり得ることで、やはり成長とは呼びにくい状況が生まれます。

 現実世界においては、あるいは主人公に感情移入をして作品を読む場合にも、成長とはまず何よりも主観的なものであるかもしれません。
 けれども物語というものは読者(受け手)を想定して成り立っているもので、その最終盤においては作中キャラの何かしらの変化が、広い読者層に対して(つまり出来る限り客観的に)描かれることが要請されます。
 それらのうち良い意味での変化だと思われるものに対して、以下では「成長」という言葉を使いたいと思います。


疑い続けます

 さて、奉仕部に入部してからずっと、八幡は依頼を受けては解決するという流れでここまで来ました。
 その流れは一色が持ち込んだプロムの話で途絶えているように思いがちですが、もしも「共依存」を陽乃からの依頼に近いものとして解釈すると、違った流れが見えてきます。

 この場合は、バッティングセンターで平塚が「共依存」を否定した時に話が解決したと考えられます。
 そして続く以下の発言が、八幡が受けた最後の依頼だと見なせるのではないでしょうか。

「だから、見せてくれ。私が君の先生でいられるうちに、君の考えも気持ちもなにもかも、全部総当たりで見せてくれ。言い訳もできないくらい、見せつけてくれ」
(14巻P.308)

 これら二つを依頼のように捉える読み方は、先程の「平塚が八幡を奉仕部に入部させたことから始まる物語」という解釈よりも踏み込んだものなので、違和感を覚える方もいらっしゃると思います。

 でも、それに答えるよりも先に、この作品を貫く大きな疑問についてまずは考えてみましょう。

 どうして八幡は長きにわたって、時には介入しなくても良いのではないかと思えるような依頼まで含めて、あんなにも真面目に(自己犠牲に見えるような手段まで使って)解決のため全力を尽くしたのでしょうか?

 それともう一つ。他人の言葉の裏を読む癖がついているはずの八幡は、なぜ「共依存」という陽乃の指摘をすんなり受け入れて、それを否定するためにあれほど意識を傾けて、なのに平塚の否定以降はそれをすっかり忘れてしまったかのように別事に邁進したのでしょうか?

 いちおう個々の場面において、八幡が依頼に集中する理由は語られていたように思えます。けれど作中を通してずっとこんな感じだったと考えると、それらの理由では充分では無いようにも思えます。

 あるいは、「そもそもそんな性格だから」と言えばそれまでの話なのかもしれません。
 けれども私は逆向きに考えたいと思います。
 つまり、そうした形でしか他者と上手く関われないのが、現状の八幡ではないかということです。

 作中では雪ノ下の精神的な幼さや不器用な側面が目立ちますが、例えば4巻で平塚から「私はうまくやれと言っているんだ」(P.77)と指摘されたように、八幡もまた他者との関係に問題を抱えていました。
 それは最終巻でもあまり変わっていないのかもしれません。

「俺は会話や雑談が苦手なだけで、業務連絡はむしろ得意だ」
(14巻P.231)

 そんな八幡にとっては、解決すべき依頼が目の前に存在しているという状況は、他者との関わりを容易にするという点では歓迎すべきものではないかと考えられます。


 前置きが長くなりましたが、もしもこれらを依頼に近しいものとして解釈すると、「共依存」の話は今までとは違った趣きがあります。
 つまり「依頼そのものがまちがっていた」というパターンが初めてお目見えした形になります。

 それは最後の依頼を総括する際のヒントになったかもしれず、ここでようやく「疑い続けます」についての話が可能になりました。

「だから、ずっと、疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単には信じないから」
「正解には程遠いが、100点満点の答えだな」
(14巻P.505)

 この発言を脱構築など哲学の側面から検証することは他の方々にお任せするとして、八幡はここで初めて、自らの意思で依頼の継続を宣言しています。
 同時にそれは、目に見える「結果」を追い求めなくなったことを意味していて、更には平塚が想定していた「正解」からも外れる道を選択しています。
 そして最後に、自分だけではなく雪ノ下という他者も含めた答えを提示していることも、今までには無かった特色でしょう。

 平塚の手によって奉仕部に入部させられて、依頼を解決するという行動を軸にしながら部の内外で他人との付き合いを重ねて一年を過ごして。その末に辿り着いた結論がこの発言なのであれば、これは八幡の成長と言って良いのではないかと思うのでした。


懸念される点

 以上は14巻を読み終えた時の印象ですが、とはいえ物語には続きがありました。
 そしてそもそも、14巻の時点でも懸念が無いわけではありませんでした。

 一つには、アニメだとテンポが良いので見過ごしやすく思うのですが、上記の結論へと至るまでに、八幡は平塚からの問い掛けをずっとはぐらかしています。
 そして「疑い続けます」という結論もまた単なる先延ばしと捉えられかねない側面があり、本当に成長したと言えるのかは不安が残ります。

 もっとも、この時点で発言の実効性を吟味するのは難しいと思われます。
 つまり「行けたら行く」とか「前向きに検討させて頂きます」といった実現の可能性が低そうに思える発言であっても、いざその時にならないと検証が出来ないからです。

 では、どうなったか?
 その答えは『俺ガイル新』の2巻にありますが、雪ノ下母姉との食事会の場でも八幡ははぐらかすような対応を続けました。そしてそれは、雪ノ下の希望とは違ったものでした。

 ここで二つ目の懸念として、「俺もあいつも」と言っていても雪ノ下の本心は違うのではないかという話が浮上します。
 その視点で14巻を振り返ってみると、平塚と別れた後に言われたこの言葉が引っ掛かります。

「あなたが好きよ。比企谷くん」
(P.512)

 八幡は作品を通して、自分と雪ノ下の感性が近いような認識でいたのではないかと思います。
 例えば8巻の「そんな本物を、俺も彼女も求めていた」(P.342)などですね。

 けれども雪ノ下は意外と普通に近い(ともすれば幼い)感性を持っているように思える場面が散見され、ここでも、あるいは歩道橋でも、疑い続けずに済むような明確な言葉を待っていたのではないかと考えてしまいます。

 雪ノ下が恥ずかしがって去ってしまった後で、八幡は「言い逃げされたらこっちはなんもできねぇだろ」と嘯いていますが、何かしらの反応が出来たとはあまり思えないのが正直なところですね。

 以上の話をまとめると、14巻の時点では留保はあれども成長と言って良いように思えた上記の発言ですが、続編にまで範囲を広げると失敗の前触れ(フラグ)のようにも思えて微妙な感じがしますね。


俺はその手をぎゅっと握りしめた

 長々と語りすぎている気がしてきたので、早足で以下の行動を検証します。
 手を差し出してくれた平塚に対する反応です。

 それに笑顔で、首を振り、俺は自分の力で立ち上がった。
 平塚先生は、少しだけ寂しそうに笑うと、差し出していた手を下ろそうとする。だが、それよりも先に、俺はその手をぎゅっと握りしめた。
 そして、一礼する。
「お世話になりました」
(14巻P.506)

 この握手という行為は八幡が自らの意思で「世間一般では適切と見なされる行動を恥じることなく実行しようと」(*括弧内は後日追記)決断したことを意味していて、その点でこれは八幡の成長を示すのではないかと思われます。
 とはいえ、この場面だけでは重みが欠けている気もするので、関連する場面を見てみましょう。

 だから、その手を優しく払った。
 途端に、由比ヶ浜の手は力なく落ちて、泣きそうな顔になる。
 けど、そうじゃない。不安だから手を取るわけじゃない。一人で歩けないから誰かに支えてもらいたいわけじゃない。手をつなぐのはもっと別の時だ。
(9巻P.257)

 本物発言の直後、雪ノ下を一緒に追いかけようと言って手を引く由比ヶ浜に対して取った行動です。

 私は14巻を読んだ時にこの場面を連想したのですが、つまり平塚とのこのやり取りは由比ヶ浜に対する予行演習のような意味合いを持っているのではないかと考えました。


懸念される点

 おそらく14巻の時点では、特に懸念は無かったように思います。
 けれども『俺ガイル新』でどうなったかと言うと、4巻にその答えが書いてありました。

 もともと私が穿ちすぎた解釈をしていただけだと言えばそれまでですが、由比ヶ浜との関係に明確な結論は出せていません。
 その点では、上記の場面は作中での重要度が少し減ったと言って良いのでしょう。

 それでも、平塚に導かれる形で始まったこの作品の最終盤において、八幡が自らの意思で平塚と握手をかわし「さよなら」を伝えたことは、教師と生徒という二人の関係を締めくくるのに相応しい行動だったと思います。

 先程の「疑い続けます」という発言に疑問符が付いている状況を勘案すると、物語の最終盤で示される「成長」あるいは「達成」と言っても良いのかもしれませんが、それの最も印象的な場面はどこかと問われれば、平塚に自分から握手を求めて礼を伝えた場面のほうが無難かなと思うのでした。


作品を考察することで見えてくるもの

 考察の何が楽しいのかと考えてみると、ただ読み流している時には気付けなかった新しい側面に気付けた時のわくわく感が大きいように思います。

 だから、自分とは違った観点から考察をして下さる方々の存在はそれだけで嬉しいものですし、それゆえに自分の解釈を他者に押し付けるようなことが私はあまり好きではありません。
 けれどもその一方で、自分が主張したいことのために解釈をねじ曲げるような方々もまた、私はあまり好きではありません。

 幸いにして良い出逢いが重なったおかげで、俺ガイルをきちんと考察する方々と仲良くさせて頂いているわけですが。では他の方々はどのようにこの作品と向き合っているのかを、ここで簡単に(許可も得ず勝手に)見てみたいと思います。

 恋愛という側面を作品に持ち込むと、どうしても「勝ち負け」の話になりがちですが、『俺ガイル』は恋愛だけではなく、より広い視野に立って各々の関係を描いているように思えます。
 その上で本作を特徴づけているのが、以上の視点ではないかと思います。

 付き合っている男女という特別な関係に至るまでの物語と言うよりもむしろ、普通の高校生へと至る道筋が描かれているのが『俺ガイル』なのかもしれません。

 普通とは少し違った部分があるために、彼らの会話は時には目的語を欠き、時には言葉足らずで話が終わり、そんな面倒くさそうなやり取りを積み重ねていきます。
 そんな各キャラが急に等身大に見える瞬間があって、彼らもまた作中世界で生きているのだと実感できる辺りも、この作品の魅力と言って良いかもしれませんね。

 とはいえそうした印象は、この作品が八幡の一人称で成り立っていることと不可分では無いのでしょう。
 そして興味深いことに、アニメでもよくよく見るとモブが少なく(八幡らが廊下で会話をしていたり下校途中の道で話している時にも、他の作品と比べると他者の存在が希薄な気がします)、それが三人称あるいは神視点との距離を示しているようにも思えます。

アニメは尺の都合上どうしてもテンポ良く描かなければならないので、モノローグはほとんどカットで原作と印象が違いすぎるんですよね

 鍵が掛かっているので引用で。
 引き続きアニメについての話になりますが、仰るとおりモノローグの扱いが特に厄介ですね。そのために、アニメ勢は初見で理解できたのだろうかと余計な心配をすることもありました。

 まあ原作を読んでくれるほうが嬉しいし、考察をするなら結局は原作小説を参照する形になるので良いとして、アニメの独自解釈はなるほどと思うことも多いのでアマプラ復活を願っています。

 ところで『俺ガイル』を考察する上での難点として、作者さんが喋りすぎる弊害があるようにも思います。興味深い話も多い反面、このように作中の描写とは乖離するような発言が流れてくることもあり、どう消化すれば良いのか悩む時がありますね。

 連ツイの最初に書かれていた結論は「八幡にとっての由比ヶ浜は甘えられる母親みたいな存在」というものでしたが、個人的には雪ノ下の扱いにも不安を感じる部分があって、それは由比ヶ浜の「母親」に対して「娼婦」のような側面が垣間見えることです。

 これらは文学作品で描かれてきた「性」においては珍しくない対比なのですが、『俺ガイル』における「性」の問題については、きちんと文学の研究をしてきた人が書いてくれたら良いのになと思っています。

 それぞれが隠し持つ物語が作品の奥に潜んでいる中で、意外とヒロインであるはずの雪ノ下が見えにくい(むしろ由比ヶ浜のほうがしっかり描かれている)のが興味深いところです。

 その雪ノ下について、以前に「眠り姫」という解釈を書いておられた記憶があるのですが、これは先程の「娼婦」という側面に繋がるのではないかと私は考えていて、雪ノ下家についても色々と考えてしまいますね

 そもそも雪ノ下に関しては、7巻における変化が後の展開に繋がったと言えるのではないかと思います。
 由比ヶ浜の変化がそれに引きずられる形で始まって、ついにプロム編では主役としての活躍を見せていた(ある意味では八幡よりもよほど丁寧に描かれている)ことを考えると、やはり雪ノ下の謎さ加減が目立ちますね。

 その間に八幡もまた変化を見せていくわけですが、ここでまとめられている本物に対する考え方の変遷はその中でも特に興味深いものの一つでした。

 平塚とのやり取りが八幡にとってどれほどの重みを持っていたのかが伝わって来ますし、だからこそ最後の「さよなら」からは物語が終わってしまう時に特有の雰囲気が伝わって来て、しみじみとしてしまいますね。

 とはいえ14巻の終わり方について、それはいわゆるメリバではないかと指摘されていたのがこの記事でした。
 奉仕部の三人が失ってしまったものと、その代わりに得たものを確認して。その上で普通に生きていく彼らを、「今」を大切にする彼らを肯定するという結論に繋げていたのが印象的でした。

 それに対してこちらの記事の末尾では、自立とは自分の力だけで成し遂げることではなく頼れる相手を見付けることだという主張によって、八幡と雪ノ下の関係を肯定しています。
 こうして比較してみると、考察の違いが明確に感じられて面白いですよね。

 既に存在している考察だけではなく、こうしてまた別の観点から論を組み立てていこうとする方もいらっしゃるわけで、実際にそれが読める日が楽しみです。


 どうしてこんな流れになってしまったのか書いている当人もよく分かりませんが、僕は友達が少ないので認識できている方々はこれで打ち止めです。

 他にも面白い考察があれば教えて頂きたいなと思いますし、もしも以上の方々の考察を見て自分も書いてみようかなと思う方がいらっしゃれば、ぜひ実行に移して欲しいなと思うのでした。


終わりに

 ということで、俺ガイルについて書いてみました。
 書き残しておきたいネタは幾つかあるので、これからもぼちぼち書いていこうと思っています。

 ひとまず、ここまで読んで下さってありがとうございました!
 また別の記事を書いた際にはよろしくお願いします。

補足

 記事を書いた翌日にTwitterにて以下のように補足を述べました。

「自らの意思で動く」は静ちゃんエピソード完結編としてカタルシスを表現し得る程の成長だろうか

 それと以上のご指摘についても補足をしておきます。
 結論から申し上げますと、作品の構造について考える際にカタルシスという要素を加えることには2つの点で問題があるように思います。

 まず1つ目は、ある展開に対してカタルシスを感じるか否かは個人差がとても大きく、読書体験が豊富な人ほど定番の流れに冷めた目を向けがちだという点です。
 そうした声が大きくなると、読者の予想を外すことに多大な労力を費やして結局は作品そのものを歪めてしまうことにもなりかねず、作者にとっても読者にとっても良くないことだと考えられます。

 そして2つ目は、作品の構造とカタルシスとは本来無縁のものだと思えるからです。
 つまり早い話が、「最終決戦が死ぬほど盛り上がらない作品はいくらでもある」ということです。
 盛り上がりに欠けてもカタルシスが無くても最終決戦は最終決戦なので、それを制することは重大な意味を持ち得ますし。いくら最高の盛り上がりを見せたところで、中ボス戦をラスボス戦と呼ぶことはできません。

 もちろん最高の盛り上がりとともに物語の幕が引かれる形が理想ではありますし、そうした考え方が広く浸透しているからこそ「あの場面で終わっていれば」と語られる作品が後を絶たないのでしょう。

 ともあれ、カタルシスという要素は主に作者が引き受けるべきもので、それの有る無しで作品構造を云々することは考察者にはあまり求められていないのではないかと私は思います。


 話のついでに、この記事では誤解を避けるために本旨から外れる主張・考察は出来るかぎり取り扱わないよう心掛けました。

 例えば、俺ガイルを「平塚が八幡を奉仕部に入部させたことから始まる物語」と捉える以外にも「八幡と雪ノ下の物語」といった有力な読み方は存在しますし、これら二つは両立できると私は考えているのですが、そうした方向に話を進めていくことは本稿においては避けました。

 他にも、最初の方で述べたファンタジーの喩え話は13巻を念頭に置いたもので。
・八幡は見当違いの行動に出ている(葉山「君がすべきなのはそんなことじゃないはずだ」)。
・雪ノ下は既に諦めていて、由比ヶ浜も諦めては前を向いて打ちのめされては諦める繰り返しに陥っている。
 このように私は解釈しているのですが、ここが論点になると話が無限に広がって行きかねないと考えて喩え話で済ませました(が、これは不要な気遣いだったかもしれません)。

 それと、この呟きの前半部分についても詳しく書くべきか悩んだのですが、この稿では触れないことにしました。

 俺ガイルという作品は色んなところで話が繋がっているので、どう切り取って議論を深めれば良いのか悩ましいですね。。