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俺ガイル各キャラの名前についての一考察

はじめに

 本稿では、渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(小学館ガガガ文庫、以下『俺ガイル』)に登場する各キャラの名前について考えてみたいと思います。
 具体的には、登場人物それぞれについて個別に語って行く形になりますが、その前におおまかな仮説をここで書かせて下さい(とはいえ、読み飛ばしても特に問題はありません)。

 まず主要人物の名前については鎌倉時代、つまり「伊豆で挙兵した源頼朝鎌倉に入って幕府を開いてから、それが滅亡するまでの間」に起きた出来事と関連している、という前提で考えてみました。

 そして命名のルールとして、以下の3点を挙げておきます。

  1. 姓よりも名に重要な意味を持たせているキャラは八幡の身内

  2. 姓に意味があり、かつ姓名で繰り返しがあるキャラは八幡と深く関係する

  3. 姓と名に関連性がなく、かつ姓の由来が鎌倉から遠いほど八幡との関係が薄くなる

 残念ながらこの仮説は、川崎沙希が登場する2巻にして早くも意味を失います。
 と言うのも、雪ノ下・由比ヶ浜・葉山といった面々と川崎を同列に扱うには、残念ながら関わりの深さに大きな差があると思えるからです。
 この傾向は巻が進むほど顕著になってきて、例えば会長選挙の時期に登場した海浜の仲町千佳や生徒会書記の藤沢沙和子(名前の初出は前者は8巻、後者はアニメ『続』)に至っては、名前を覚えている読者のほうが少ないようにも思われます。

 それでも私が仮説として挙げた理由は、1巻の時点では機能しているように思えることが一点。それと、綻びはあれども一応のルールを示しておく方が、書く側にとっても読む側にとっても利便性があると考えたからです。

 ということで前置きはここまでにして、具体的な話を始めましょう。

比企谷八幡

 姓の比企谷は鎌倉の地名、名の八幡は頼朝が深く信仰した八幡神が由来だと思われます。

 父の義朝が平治の乱(平治元年≈1159年)で敗れた結果、源頼朝は数え14歳で伊豆に流されました。1180年に挙兵するまでの20年間をそこで過ごしたことになりますが、そんな頼朝に仕送りを続けた人々の中には比企尼の名前もありました。
 比企尼は頼朝の乳母の一人で、当時としては珍しく夫の任地(武蔵国比企郡)に一緒に出向いて、そこから伊豆に米を送ったり、娘婿たちに頼朝の世話をさせていました。
 苦しい時期をずっと支えてくれた比企尼を頼朝は大切に扱います。尼を鎌倉に迎え、比企一族を住まわせた土地は、やがて比企谷と呼ばれるようになりました。

 残念ながら比企氏は、後に執権として鎌倉幕府の権力を握ることになる北条氏と対立し、滅亡します(比企能員の変=1203年)。
 しかし一族の娘が2代執権・北条義時に嫁いでいて、その子らは比企氏の勢力圏となっていた北陸の守護を務めたり、異母兄の3代執権・泰時とその子孫ら(北条氏の嫡流=得宗)を支えて幕政で重きをなすようになります。

 俺ガイルの5巻で、小町と散歩に出た八幡は、変わってしまった町並みを眺めながら「変わらない」ことの大切さを述べています。
 それは専業主夫を志望したことなどと同様に、現状への言い訳を含んだ未熟な物言いではあるのですが、「ぼっち」という環境で生き抜くための八幡なりの処世術でもあったのでしょう。

 比企氏の娘と義時の間に産まれた長子・朝時は、当初は嫡子として扱われていました。しかし母方の一族が滅亡した数え11歳にして環境は一変し、北条氏の家督も異母兄の泰時が継ぐことになりました。
 それでも朝時は、父方の祖父にして初代執権・時政の屋敷を相続したり(屋敷があった場所の名前から、彼の子孫は名越流と呼ばれることになります)、北陸など比企氏の権益を引き継ぐなど、決して粗雑には扱われていないのですが、彼の子孫らは「本来ならば我々が嫡流だった」という自尊心のゆえにか、反抗的な態度が目立ちました。

 それに対して、朝時の同母弟・重時は一族滅亡時に数え5歳だったので、おそらく環境が変化したという自覚に乏しかったと思われます。それゆえにか、彼の家系(≈赤橋家)は代々得宗に協力的で、幕末には得宗家に次ぐ(より正確には、得宗家と赤橋家が飛び抜けて高い)家格を誇るようになります。

 こうした過去の歴史をどの程度参考にしたのかは分かりませんし、そもそも八幡がぼっちに至った経緯なども明確には書かれていないので、無理に結びつける必要はないのかもしれません。
 けれども上記5巻の八幡の独白からは年齢には似合わない無常観が伝わって来て、それを育むのは直接の経験か、あるいは歴史に学んだ結果であろうと思われ、そして後者であればその学びは八幡だけのものではなく、作者の学びでもあるのでしょう。

 ここまで長々と書きましたが、それはつまり端的な説明が難しいということでもあり、姓が比企谷である必然性は無いと言えるのかもしれません。
 少なくとも、姓の比企谷よりも名の八幡のほうが重要だと思えるのですが、その理由は次に回したいと思います。

雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣

 姓の雪ノ下由比ヶ浜は鎌倉の地名で、名は繰り返しになっています。結衣には「結ぶ」意味合いを持たせているのかもしれませんが、雪乃については不明です。

 挙兵から2ヶ月にも満たない1180年10月7日、多くの軍勢を引き連れて鎌倉に入った源頼朝は、まず鶴岡八幡宮を参拝しています。そして10月12日、小林郷の北山に鶴岡宮を遷しました。それは今と同じ場所、すなわち神奈川県鎌倉市雪ノ下です。
 では頼朝が最初に参拝したのは、つまり八幡神がもともと居たのはどこなのか?

 鶴岡八幡宮は、前九年の役(1051-1062年)の戦勝翌年(1063年)に源頼義(頼朝の祖父の曾祖父、一説には祖父の祖父)が石清水八幡宮を勧請して建てられたと『吾妻鏡』に書かれています。場所が由比郷鶴岡なので由比若宮、頼朝が北山に遷した後は元八幡と呼ばれました。

 ちなみに当時の海岸線は今よりも内陸にあり、特に滑川の下流は元八幡の付近で左右に広がる入り江を形成していたと考えられています(=由比浦)。由比若宮は、今は住宅地の中に建っていますが、かつては海に面した立地の良い場所だったのでしょう。

 以上が、八幡雪ノ下由比ヶ浜を特別な命名だと考える理由となります。

比企谷小町

 姓の比企谷は鎌倉の地名、名の小町は通りの名前から。

 比企谷については既に述べた通りですが、あえて付け加えるとすれば、比企氏の母から産まれた兄弟の性格が比企谷兄妹に反映されている可能性はあるかもしれません。
 つまり生徒会の仕事をするなど社交的な小町と、執権の泰時らを助けて要職を歴任した弟・重時。そしてぼっちで捻デレの八幡と、反抗的だけど憎めない側面もある兄・朝時という対比は、よくある組み合わせかもしれませんが面白いですね。

 さて名前の小町ですが、これは駅前の小町通りよりも小町大路に由来すると考えたほうが良いと思われます。
 なぜなら、小町大路はJRの湘南新宿ラインと交わる辺りで由比若宮のすぐ近くを通っていて、そのまま北に向かうと鶴岡八幡宮の南東に至るだけではなく、すぐ目の前には頼朝の屋敷もあるからです。

 つまり小町大路は鶴岡八幡宮や頼朝邸(いずれも雪ノ下近辺)と由比若宮を結ぶようにして走っている形で、それは(事故の被害者ゆえに記憶に残っていない)八幡よりも先に小町と由比ヶ浜が顔を合わせていたこと(俺ガイル1巻、お菓子の人)を思い出させます。

 そして妄想を働かせても良いのであれば、雪ノ下が他の二人との間に線を引いた3巻末から千葉村にキャンプに行けることになった4巻の間、あるいは2学期が始まる5巻末までの間に、雪ノ下と由比ヶ浜の仲を小町が取り持っていた可能性も無いとは言えず、そんな裏話があれば読んでみたいものですね。

 ちなみに土木工事が好きだったらしい頼朝は、鶴岡八幡宮を雪ノ下に遷した後で、由比ヶ浜へとまっすぐ続く道路を小町大路の西側に整備しました。これが若宮大路で、それはつまり小町や八幡を介さなくとも両者が行き来できる環境が整ったことを意味するのかもしれません。
 俺ガイルにおいて、その様子を窺い知るのに最適なのは、14巻のPrelude 1から4ではないかと思います。

平塚静

 姓の平塚は地名ですが相模川の西なので、鎌倉からは少し遠いですね。名のはおそらく、鶴岡八幡宮で舞いを披露した静御前が由来であろうと思われます。

 俺ガイル1巻に出て来る教師は平塚以外は姓のみで、体育の厚木も相模川の向こう側でした。
 家庭科の鶴見は鎌倉を挟んで反対側ですが、平塚との共通点と言えば箱根駅伝の中継所を連想する方が多いのではないでしょうか。その場合、鶴見中継所は鶴見川の向こう側、平塚中継所は相模川を越えて花水川の向こう側で、いずれも戸塚中継所と比べると鎌倉からは遠いという印象になりますね。

 とはいえ平塚と鎌倉には物理的な距離では測れない繋がりもあり、妻の北条政子が後の3代将軍・実朝を身ごもった時に、頼朝は平塚八幡宮を含むいくつかの神社に安産を祈願しています。
 なので遠いから関係が薄いとは言い切れない側面もあるのですが、それでも既に挙げたような地名と比べると意味の薄さは否めないとは言えそうです。

 静御前は頼朝の弟・義経の愛妾で、兄と対立した義経が行方をくらましている状況で捕らえられ鎌倉に送られました。白拍子の静は舞いの名手として『義経記』に逸話があり、頼朝・政子に所望され鶴岡八幡宮で舞いを奉納することになったのですが、絶賛を浴びた舞いとともに義経を恋しく想う歌を堂々と披露したことで有名です。

 こうしたエピソードが平塚の造形にどの程度影響したのかは分かりませんが、9巻や14巻での八幡とのやり取りを連想させるものがあるのではないかと思います。

 それともう一つ重要なのは、静は義経の子を身ごもっており、産まれたのが男子だったので殺され由比ヶ浜に埋められたのだとか。

 詳しい話は俺ガイル考察班のサイトやブログに譲りますが、八幡は平塚の教えを受け継ぎ踏襲したわけではなく、むしろ都合良く換骨奪胎している感があります。
 それは「正解には程遠いが、100点満点の答えだな」(14巻P.505)という平塚の言葉にも表れていますが、その後の各キャラの行動を見ていると、平塚の意志を受け継いだのは由比ヶ浜ではないかと思える瞬間が多々あります。

 元のエピソードが赤子殺しなので、ちょっと怖いのが難点ですが、この辺りの展開は物語の冒頭の時点でかなりの程度を固めていたのではないかと考えられ、その証拠とは言えないまでも手掛かりの一つとして数えるくらいは良いのではないかと思うのでした。

閑話:鎌倉時代の神仏信仰(海老名姫菜、戸部翔、大岡、鶴見留美、川崎大志、川崎沙希)

 鎌倉幕府が成立するまでは各地で様々な信仰の形が存在していたようですが、幕府の庇護を受けられるか否か、という一点に寺社の存亡がかかりかねない状況になってしまえば、ある程度の均質化はやむを得ないことなのでしょう。
 この閑話では、そうした観点から俺ガイルの一部キャラの命名をざっと確認して行こうと思います。

 海老名は実に古墳時代から栄えていた地域で、奈良時代には相模国分寺が建立された場所でもあります。つまり相模国の中ではトップカーストに位置する地域だったと考えられ、その重要性は鎌倉時代になっても変わりませんでした。いわゆる「いざ鎌倉」の中継点として繁栄していたようですね。
 平塚について述べた際に、頼朝がいくつかの神社で安産祈願を行った話を書きましたが、この相模国分寺もその一つです。

 それとは別に、頼朝に従った御家人の中に海老名氏がいるのですが、その氏神として信仰を集めた有鹿神社についても触れておきましょう。
 ここは飛鳥時代の記録にも登場するほど古い神社なのですが、奥宮には縄文時代の遺跡があり、その当時から祭祀が行われていたことが分かっています。俺ガイル4巻で巫女のコスプレをして陰陽師ネタを語っていた海老名を連想してしまいますね。
 それが鎌倉時代に最盛期を迎え、その所領は川沿いを下って寒川神社の付近にまで広がっていたとのことですが、残念ながら鎌倉幕府の滅亡とともに衰退してしまいました。無理に結びつける必要は無いのですが、海老名の今後が気になるエピソードではあります。

 河川に沿って信仰が広がるのは珍しいことではなく、互いの領域を侵さない形で河川ごとに特定の信仰が盛んになるという点では興味深いものがあります。
 戸部杉山神社もその一つで、杉山信仰は主に鶴見川・帷子川・大岡川の流域に点在しています。
 戸部杉山神社には、源頼朝が食事をした際に使った「しゃもじ」を地面に挿したら芽が出たという逸話が残っていて、「しゃもじを使ってご飯を食べると喉が開いて咳が治まる」という理由から咳止めの御利益があると伝えられていますが、俺ガイルと関連づけるのはさすがに難しいですね。

 鶴見神社も杉山神社の一つで、鎌倉時代に広大な所領を誇っていたことは海老名の有鹿神社との共通点と言えます。とはいえ杉山神社の繋がりのほうを重視すべきだと思われます。
 と言うのは、戸部翔は7巻で、鶴見留美は4巻で奉仕部と関わるわけですが、この関連からのみ考察すれば、2巻のチェンメの犯人が大岡であるという可能性が浮上するからです。
 このチェンメについては原作から完全な解を得るのは難しく、大和説や大岡説の他に葉山説や葉山平塚共謀説など色んな話を見聞きした記憶がありますが、キャラの命名を根拠としたものは無かったと思うので、ここで書いておくことにしました。

 さて、その大岡にある頼朝との繋がりがある寺社と言えば若宮八幡宮が思い浮かびます。(ちょっと外出までに間に合うか怪しくなって来たので以下では引用を多めにします。)

源頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、久良岐郡の今の横浜の地は鎌倉の鬼門にあたるので、鎮護のため頼朝は数カ所に社寺を創建、報賽所としました。若宮八幡宮はこうした由縁の地に源頼朝が建久4年9月7日鶴岡八幡宮の境内社なる若宮八幡宮の別宮として創建されたと伝えられております。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=234&cd=1204004

 鎌倉から見て鬼門にあたる場所に創建した寺社から命名したと思われるキャラは他にも居るのですが、それらは幕府の滅亡の際に改めてまとめる予定です。
 ここでは川崎にも若宮八幡宮があるという繋がりを語っておきたいと思います。

八幡塚六郷神社 (御祭神・応神天皇 東京都大田区東六郷三の十の十八 源頼朝が鎌倉攻略の時この地に陣をはり、成功の御礼にこの地を鶴岡八幡宮の神社領として御分霊を祀ったのがこの神社です)の氏子 (八幡氏子) が、大師開拓のおり移り住み、祀ったのが当神社であり、応神天皇の若宮が御祭神であるので若宮八幡宮と呼ばれてる。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=5&cd=1201005

 川崎が鎌倉から遠すぎるという話は最初に書きましたが、どういう繋がりで命名したのかも不明な部分があります。(あえて一つだけ言うならば、川崎の若宮八幡宮は大岡よりも後の時代に創建されたと考えられ、それは川崎大志という年下のキャラと関連づけられるかもしれません。)
 ここでは頼朝との関わりもある若宮八幡宮つながりで書いてみましたが、この先も解明の糸口を掴める気がしないという感覚があり、なので何かをご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さいませ。

材木座義輝

 材木座は鎌倉の地名、義輝は室町幕府の将軍・足利義輝から。

 頼朝が居を構えたことで、鎌倉では空前の建築ラッシュが起きました。御家人達の屋敷から飲用水の整備まで、木材の需要は高まり、とどまるところを知りません。
 各地から大量に運び込まれた木材は、ひとまず由比浦の南東の浜辺に保管されることになりました。というのは、当時の鎌倉の外港と言えば六浦津であり、大型船はここで荷を下ろしていたからです。

 もう少し詳しく説明すると、当時の由比浦が入り江になっていたのは先に述べた通りですが、小型船や中型船の往来には便利で、その賑わいは大津とも比較されたほどでした。けれども遠浅なので大型船の停泊には向いておらず、それが可能になるのは3代執権・泰時の時代(1232年)に和賀江島を築いて以降となります。
 そして若宮大路が作られた由比浦の南西部とは違って、南東部の入り江の端の辺りは土地を持て余していた感があり、ゆえに一時的な木材の保管場所として選ばれたのではないかと考えられています。

 そんなわけで、この地域は材木座と呼ばれることになりました。
 これを俺ガイルと関連付けて考えると、八幡神が鎮座することになった鶴岡八幡宮を筆頭に、木材が装いを新たにした姿を見せている地域がある一方で、材木座には加工されないままの生の木材が積み重なっていた、という対比が成り立つのではないかと思います。

 八幡と違って材木座は軽く扱われる風潮がありますし私も人のことは言えませんが、実は両者はそれほどかけ離れた存在ではなく、状況次第では八幡が材木座と化していても不思議ではなかったと思われます。
 両者の違いは装い、と書くと強化外骨格を思い出しますが、それよりも環境の違いと書いたほうが伝わりやすいでしょうか。
 つまり材木座は八幡ほど家族に恵まれていたわけではなく(とはいえ不幸な環境ではなかったと思いますが)、平塚や奉仕部の二人との縁を活かした八幡ほど出逢いにも恵まれたわけでもなく、そして八幡のように外見がそれなりに整っているわけでもなく、そうした違いが二人を分けただけで、本質的には似通っている部分があると思います。

 八幡の長所は材木座も持ち得たかもしれず、逆に材木座の欠点が八幡にも表れたかもしれず、そう考えると3巻冒頭にある材木座の創作設定の中で「同位体」という言葉が使われているのが意味深に思えて来ますね。

 材木座という姓と比べると、義輝という名にはそれほど意味が無いように思えますが、とはいえ無関係というわけではないのが面白いところで、以下ではその話を書いてみます。

 実に150年にわたって続いた鎌倉幕府にもついに終わりの時が来るわけですが、最後の16代執権を務めたのは赤橋家の守時でした。得宗家に次ぐ圧倒的な家格を誇った赤橋家ですが、当時は得宗に仕える内管領と外戚の安達氏の権力争いが激しく、執権ですら有名無実と化していた中で、その家名ゆえに火中の栗を拾った形でした。
 ところが守時の不幸はこれで終わりではなく、妹が嫁いだ足利高氏(鎌倉幕府の滅亡後に尊氏に改名)が幕府に反旗を翻し、それは新田義貞の挙兵に繋がって幕府滅亡に至りました(1333年)。新田軍を相手に突撃する守時の鬼気迫る様は『太平記』で存分に描かれています。

 足利氏は代々北条氏から妻を迎えていて、ほぼ身内のような扱いを受けていました。だからこそ尊氏は全国の武士達からの支持を得られたわけですが、そう書くと誤った印象を与えてしまうかもしれません。つまり支持を得る「資格」があることと、「実績」をあげて支持を得ることは分けて考えるべきだと思うからです。
 ここで重要なのは、その両方が必要だということです。つまり尊氏は全国の武士達の要望に応えて「実績」を積み重ねて行きますが、それをするためには北条氏に代わって御家人たちを従える「資格」が無いと始まりません。
 その「資格」を担保したのは、代々の妻達も重要ですが何よりも、最後の執権・守時の妹婿という血縁でした。

 足利尊氏は室町幕府を開いて初代将軍となりますが(1338年)、守時の義弟ということに加えてもう一つ、赤橋家との繋がりが重要な意味を持ちました。守時の弟で尊氏から見ればやはり義兄となる、最後の鎮西探題・英時との繋がりです。
 一度は都を追われて九州に落ち延びた尊氏は、九州で勢力を盛り返して湊川の戦い(1336年)へと向かうことになります。その成功を導いたのはやはり、尊氏が現地で示した「実績」と血縁による「資格」でした。

 このように赤橋家と尊氏の繋がりは切っても切れないものがあり、その覇業に大きく関与している以上、その血を軽視することはできません。
 そして加えて言えば、赤橋家は弟の家系でしたが、兄の名越流もまた尊氏の覇業に貢献しています。つまり後醍醐天皇による倒幕の動きが盛んになり畿内に軍勢を派遣する際に、幕府は名越流の当主と尊氏を総大将に任じたのですが、前者は早々に敗死してしまうのです。これで自由を得た尊氏は、御家人たちからの支持を集めた上で、京都の六波羅探題を攻め滅ぼすに至ります。

 こうした経緯を見れば、尊氏は赤橋家はもちろんのこと名越流にも多少の恩があると言える状況にあるわけで、その血を軽視することは決してできません。
 つまり両家の祖となった兄弟の生みの母、つまり比企の血も疎かにはできないわけで、室町時代の将軍や鎌倉公方は全て、守時の妹の血を引くことになります。

 では結論を述べましょう。
 室町幕府の13代「剣豪将軍」義輝には、比企の血が流れているのである!

閑話:ヤマトタケルの東征(秦野、相模、柔道部、大和)

 この閑話では、そもそも八幡神とは?という話から始めたいと思います。
 古代史は深く関わると沼なので一般的な話で許していただくとして、通常は応神天皇(第15代)が死後に神格化された存在だという理解で良いでしょう。現在の皇室の直接の祖先で、桓武平氏や清和源氏の祖先でもあると考えられるので、武士からの信仰を集めたと考えられています。

 応神天皇の母は神功皇后で、この人は戦前の一時期までは歴代天皇にも数えられていたので、大正生まれの俺ガイラーには何を今更と思われるかもしれないほど有名でした。その一方で夫の天皇(14代)は影が薄く、そして神功皇后の義理の父にして皇位を継ぐ前に亡くなったヤマトタケルと比べるとその弟(13代)も存在感は皆無です。

 ということで、ここでは八幡神の祖父にあたるヤマトタケルの東征において、相模国に残る逸話を紹介しながら俺ガイルの命名について探っていきましょう。

 足柄峠を越えて相模国に入ったヤマトタケルは、そのまま東に向かって秦野市にある御嶽神社に至ります。

古伝に倭建之命東征の時大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望されたことにより御嶽社を建立されたと伝えられる。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=874&cd=1209320

 そして厚木からは相模川沿いに北上して、石楯尾神社に逸話を残しています。
 ここは現在の住所だと相模原市緑区佐野川となりますが、2000年代に相模原市に編入される前は津久井郡藤野町佐野川でした。今は消滅した津久井郡には藤野町・相模湖町・津久井町・城山町があり、これらは7.5巻に登場する柔道部員たちの元ネタだと思われます。

日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=1103&cd=1208243

 相模原市中央区には皇武神社があり、ここにもヤマトタケルは立ち寄っています。

日本武尊、勅命により御東征の砌りこの地を御通りになり、その折相模にて聚雨に逢われ、沼辺の小野姓と称する人家に立ち寄った時、この甕で造った酒を奉持したと申し伝えている。現今も祭典の節はこの例に倣い、甕にて御神酒を奉る習慣がある。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=584&cd=1208189

 大和市でも深見神社に伝承を残しています。

日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=660&cd=1207077

 それと、ここまでのヤマトタケルの足取りは、同じ大和市にある諏訪神社の御由緒の中で詳しく書かれています。

東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途みち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところが石楯尾神社であるといわれている。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=662&cd=1207079

 ここに書かれているように、ヤマトタケルは走水で相模国に別れを告げています。ここには走水神社があり、東征の足取りを詳しく紹介してくれているので、少し長いですが引用しておきます。

武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。
ここに御所(御座所)を建てました。(現在、御所ガ崎と云われております。)
走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)
武尊は、上総国へ軍船にていっきに渡らんと船出なされましたが、海上中ばにおいて突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進みもならず戻りも叶わずあわや軍船は転覆するかの危機に、武尊につき添ってこられたお后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、私が海に入り荒ぶる神の御魂の怒りを鎮めるほどに尊様はつつがなく勅命を奉じてその任を完遂してほしい」と告げ「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と辞詠し、海上に菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重を敷き、その上に身を投じたところ忽ちに波は凪ぎ風は静まり武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に到着なされました。(以来、水走る走水と云われております。)
上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて京に帰る途中、碓氷峠より遥か東方に光る走の水の海の輝きを眺め、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」嘆き呼びかけたと云う、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったと云われております。
武尊は、京へ帰路の途中伊吹山の賊と戦いの後、病にかかり伊勢国能襃野でお亡くなりになりました。御齢三十三歳と云われております。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=452&cd=1205065

 ここで旧国名について説明をしておきますと、基本的には都に近いほうから上下・前中後という命名になっています。上野国(群馬県)と下野国(栃木県)とか、越前国(福井県)と越中国(富山県)と越後国(新潟県)などですね。
 けれども千葉県の旧国名を調べてみると、南から阿波国・上総国・下総国となっています。これはどういう事なのでしょうか?

 結論から言うと、葉山から横須賀を経て東京湾を渡るというヤマトタケルも通ったルートが当時の主要ルートだったからで、つまり千葉県の北側にある下総国は、意識の上では上総国よりも遠かったのです。
 ついでに言うと西隣の武蔵国は奈良時代末まで東海道ではなく東山道に属していて、相模国よりも北関東との交通が盛んでした。

 それは何故かというと、当時の東京湾沿いの土地は湿地帯でとても荷物を担いで歩けるような場所ではなく、そして都に税を納めるには水上交通を活用するほうが便利だったので、比較的安全に行き来できる海のルートが主要な幹線として使われていたからでした。
 武蔵国については、相模国から境川沿いに北上して府中に至るルートが活発になってからは両国の結びつきが盛んになって行き、そして鎌倉時代を迎えるという流れになっています。

 ということで、三浦半島が交通の大動脈としての役割を果たしていたという知識を得たところで、次に行きましょう。

三浦優美子と一色いろはと葉山隼人

 三浦は鎌倉時代の有力御家人である三浦氏から。優美子は1巻の印象だと性格を反映しておらず名前がまちがっているようにも思えるのですが、実は優しくて美しい子という名前がまちがっていないと後々明らかになります。

 ここまでは地名が由来のキャラがほとんどでしたが、三浦については氏族に由来すると考えたほうが良いように思います。
 というのも三浦氏の居城は横須賀の衣笠城で、ここは葉山から横須賀へと至る幹線道路の途上に位置しているからです。そのうえ当時は海岸線が今よりも内陸側にあり、衣笠城の付近もまた由比浦と同じように入り江になっていたという話です。
 つまりは地形的な魅力という点で鎌倉と共通するところがあり、なので三浦市よりも衣笠城のほうが位置的に重要だと思えるからです。

 既にヤマトタケルの時代から主要なルートだったという話はしましたが、この道は近代でも重宝されていて、明治時代に葉山に御用邸が建てられた理由にもなっています。つまり有事の際にはこの道を東に向かって横須賀の海軍基地に移動することが想定されていたからでした。
 そうした知識を前提に、この県道27号横須賀葉山線を見直してみると、国道134号との分岐点にあたる地名の重要性は明らかでしょう。
 つまり、三浦郡葉山町一色です。

 たしか『「俺ガイル」語り』だったと思うのですが、作者さんは一色について「2巻の後くらいに登場する可能性もあった」と述べていました。実際には7.5巻が初登場でしたが、時系列では夏休み前なので4巻よりも前、3巻より後となり、そう考えると先程の発言にも特に違和感を感じなくなりますね。
 ともあれ架空の話はさておいて、重要なのは一色というキャラが初期の時点で既に構想にあったということで、地図を見るとその存在がより際立つのではないかと思うのでした。

 三浦に話を戻すと、実際の作品からは削られたエピソードが存在していた感じを受けます。
 それは戸塚と比較をすることで分かりやすくなると思うのですが、中学時代には県の選抜にも選ばれていたのに高校ではテニスをしていない三浦と、八幡との関わりによってテニス部の部長としての役割を果たせるようになり進学にも影響することになった戸塚という対比を見れば、八幡が三浦に何らかの影響を与えるエピソードがあっても不思議はないと思えるのです。

 とはいえ実際のところは分からないので何とも言えませんが、軽い扱いで終わってしまった感がある三浦にも、構想の段階では色々な展開が有り得たのではないかと考えてみると、なかなか興味深い立ち位置に思えてきますね。

 さて、三浦葉山の間に位置しているのが一色だとして、見方を変えれば八幡(雪ノ下と由比ヶ浜)と一色の間に葉山が位置しているとも受け取れます。
 これは作中で一色が抱えているジレンマをそのまま反映しているように思えるわけで、やはり絶妙の位置関係だなと思うのでした。

 そんな葉山隼人に話を移すと、姓の葉山は三浦半島の地名だとして、名の隼人には意味があるのでしょうか?

 一つ思い付くのは先程のヤマトタケルとの関連で、熊襲を滅ぼした一件と薩摩隼人あるいは霧島市隼人町などを結びつけることは可能だと思います。
 とはいえ、俺ガイルを単純に「カースト底辺からの反逆物語」として捉えるのであれば有用かもしれませんが、葉山は単なるやられ役ではなく、八幡とはまた違った独自の物語を紡ぐ存在として描かれていることを思えば、あまり積極的に結びつけたくはないなと思うのでした。

 さて、葉山港の近くには鐙摺城跡があります。源頼朝が伊豆で挙兵した時に、三浦一族は鐙摺城北側の入り江から援軍に向かったと伝えられています。
 けれども途中の酒匂川が雨で増水していたために渡河できず、やがて石橋山の合戦で頼朝が敗れたという情報が届いたので、引き返すことになりました。

 このエピソードが重要だと思うのは、基本的に俺ガイルのキャラの名前は神奈川県内の地名から取られているのですが、酒匂川よりも西の地名が見当たらないからです。
 もしかすると将来的には小田原なんて苗字がひょいと登場することもあるかもしれませんが、それよりもこうした細かなこだわりを大事にするほうが作者さんらしい気もするので、どちらかと言えば登場しないで欲しいなと思うのでした。

 さて、頼朝に味方しようとした三浦一族は平家側の攻撃を受けて本拠地の衣笠城を落とされてしまうのですが、伊豆から何とか海上に逃れた頼朝と房総半島沖で合流することに成功しました。
 挙兵から三浦一族との合流までの期間は、頼朝の生涯で最も危機的な時期だったと言って良いでしょう。鎌倉幕府の成立は何年なのかという話がありますが、この時に船上で和田義盛を侍所の別当に任じるという口約束を交わした時点で、幕府が成ったとは言えなくとも道筋が明確に見えたとは言っても良いように思います。

 つまり、頼朝と三浦一族が合流したことで鎌倉時代への道が拓けたと考えられるわけで、それは俺ガイル1巻末のテニス勝負から本格的な物語が始まったことと呼応しているようにも思うのでした。

閑話:東海道と鎌倉街道(相模南、城廻めぐり、玉縄、折本かおり、仲町千佳)

 鎌倉幕府が成立すると、そこに至る道が重要度を増すことになります。その中でも特に重視されたのは、まずは京と鎌倉を結ぶ東海道、そして上中下からなる鎌倉街道でした。

 東海道を整備するには川をどうするかという難題があり、例えば酒匂川の増水で三浦一族が渡河できなかった話は先に書きました。そのため土木工事に熱心だった頼朝も橋の建設を盛んに行っています。おそらく一番有名なのは相模川に架けた橋で、その落成式に出た帰り道に落馬した頼朝は、それがもとで命を失いました。

 相模南と遊戯部の相模が姉弟であることが俺ガイル13巻で明かされましたが、前者の由来は相模原市というよりも、この相模川であるようにも思います。
 平塚や厚木といった教師と生徒たちを(1巻の時点では)分けていた境界でもあり、ヤマトタケルとの関連もあり、そして6巻と7巻以降という区切りをも連想させるからですが、とはいえ確たる理由があるかと言われると難しいところですね。
 ただ少なくとも、4巻までの命名とはまた違った根拠がありそうだ、とは言っても良いように思うのでした。

 さて、鎌倉幕府が滅びて以降は戦乱が繰り返され、当時の道から大きく外れてしまったところもあるので、鎌倉街道の同定は難しいという話は芭蕉の時代に既に出ていましたし、柳田國男も同じような事を述べています。

 なので大まかな話になりますが、鎌倉街道の上ノ道は化粧坂を越え境川沿いを北上し藤沢から大和・町田・多摩を経て、関戸の渡しで多摩川を渡り府中から高崎を通って碓氷峠を越え信濃・越後に至るルートだと考えられています。
 これは後に新田義貞が鎌倉攻めで通った道でもあり、上中下の中ではいちばん推定しやすいと思われます。

 鎌倉街道の中ノ道は巨福呂坂を通って戸塚方面に向かい、中山を経て多摩川を二子の渡しで越えた後は、新宿・赤羽を通って岩淵の渡しから川口に入り、鳩ヶ谷・幸手・古河を通って奥州に至ると考えられています。
 頼朝が奥州を攻めた時に通った道だと伝わっています。

 鎌倉街道の下ノ道は朝夷奈切通を越えて東に向かい、金沢八景から北上して保土ヶ谷・菊名を過ぎて丸子の渡しで多摩川を渡り、品川を通って東京湾沿いに北上して橋場の渡し(隅田の渡し)を経て、松戸・柏を通り常陸へ抜けるルートが一般的ですが、上中の道と比べると当時の知名度にも使用頻度にも疑問符がつきます。
 一説には途中までは中ノ道と同じで途中から東に向かうルートを下ノ道と見なす場合もあるようで、その場合の分岐点は現在の大船駅の少し西側、地名で言うと玉縄付近ということです。

 玉縄城は戦国時代に築城され、後北条氏の一門が代々城主を務めた城で、交通の要所として重視されていました。
 俺ガイルでは海浜の生徒会長として登場しますが、時代の違いや執権北条氏と小田原北条氏の違いなどが高校の違いを反映している(鎌倉時代や八幡神との繋がりがほぼ無い)という受け取り方はできそうで、命名の理由としても面白いように思います。

 けれどもそこで問題になるのが城廻で、これは「城の廻り」に由来した地名だと思われるので戦国時代の話になってしまい、鎌倉時代との接点が薄いんですよね。
 玉縄とは同じ生徒会長という共通点がありますが、それでも釈然としない部分があり、この辺りはもう少し違った解釈があるのかもしれません。

 なお時代の違いという点では、折本西原遺跡は弥生時代、仲町遺跡は縄文時代のものと考えられているので、ここは大きく外していないと思うのですが……。

閑話:鎌倉幕府の滅亡(鶴見留美、富岡美緒、本牧牧人、藤沢沙和子、稲村純)

 鎌倉を攻め滅ぼしたのは新田義貞ですが、同じ時期には鎌倉の東側でも反乱が相次いでいました。
 室町時代に書かれた『梅松論』によると、下総からの軍勢を迎え撃った金沢貞将(15代執権の嫡子で、最後の執権・守時と同様に『太平記』で死に様を描かれた一人)は鶴見での戦闘に敗れ、朝夷奈切通まで撤退することになりました。

 周囲を敵に囲まれ援軍の見込みもない、鎌倉を枕にした最後の戦いを余儀なくされた原因とも言える戦闘が行われた場所が鶴見なのは、9巻での鶴見留美の再登場との繋がりを妄想してしまいます。八幡が今まで有耶無耶にしてきた諸々が一気に押し寄せてきた、その象徴の一つであるように思えるからです。

 とはいえ鎌倉の守りは堅く、そして既に少しだけ言及したように鬼門線に沿っていくつかの寺社が建てられており、それらを由来とした命名が9巻以降では目立つように思われます。
 例えば俺ガイル新で登場した富岡八幡宮とか、生徒会副会長の本牧神社などですね。

鎌倉の鬼門の方の鎮護として、源氏の氏神八幡宮を併せ祀ったものと思われる。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=269&cd=1204029

建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=260&cd=1203013

 それでも鎌倉に迫り来る新田義貞の勢いは凄まじく、鎌倉街道の上ノ道を南下し、藤沢市村岡から洲崎に入った辺りで軍勢を3つに分けて総攻撃を仕掛けました。軍を分ける前には軍議もあったでしょうし、ということは書記ちゃんの活躍もあったのでしょう。

 幕府軍の必死の防戦のため新田軍は攻めあぐねますが、干潮を利用して稲村ヶ崎から由比ヶ浜への侵入に成功した時点で、鎌倉の運命は尽きたと言って良いのでしょう。
 得宗の北条高時を始め、あれだけ対立していた内管領の長崎氏と外戚の安達氏も主君に殉じて、こうして鎌倉幕府は滅亡しました。

戸塚彩加

 姓の戸塚は地名から。名については戸塚再開発からだと作者さんが説明しています。性別がまちがっているように思えるけれども実は合っていると考えられるのは、戸塚が女性だと八幡がその時点で詰むため物語が始まらないからです。

 三浦のところで少しだけ書きましたが、戸塚は最終的にはテニスに関連した進路を選びます。所沢の人間科学かスポーツ科学にすると10巻で述べていて、この決断には既存のものに加えて八幡との何かしらのエピソードが潜んでいるように思えてしまいます。
 感覚的には、今まで述べてきた妄想の中では一番確率が高いようにも思うのですが、願望が混じっていると言われると否定はできません。

 さて、おそらく新田義貞にとっては鎌倉を攻め滅ぼした日こそが人生最良の日で、その後は辛い戦いに明け暮れる運命が待っていました。
 義貞は常に懐に八幡大菩薩の神像を抱いて戦っていたという話があり、この神像は延朗上人(頼朝の祖父の兄の子で15歳で出家して碩学として名を馳せ天寿を全うした)が作ったものだということです。
 その神像は義貞の子・義宗に伝えられ、紆余曲折を経て、現在の横浜市戸塚区に辿り着きました。その神像を霊水池のほとりに奉祀して創建されたのが街山八幡社だとされています。

 八幡大菩薩の神像は、最後は戸塚で安住の地を得ました。
 これはつまり、戸塚の性別がまちがっていない理由になると思われます。

地図

 ちょっと時間が足りなかったので、年が明けて時間ができたらこつこつ作ってこっそり付け加える予定です。ました。

終わりに

 俺ガイルの名前の話がTwitterで持ち上がったのは、2021年の春頃でした。その頃から書きたい気持ちはずっとあったのですが、解明しきれない部分が多々あるので調べものに忙しく、そしてそれが楽しいがために、気付けば年単位の時間が過ぎてしまいました。

 長文を書き上げたわりには自分でも納得できていない箇所もあり、でもひとまず仕上げられたことにほっとしています。

 かつて、サボらないためにという理由で、Twitterで名前の話を書きたいと宣言したことがありました。それが上記のTweetなのですが、その前段部分、つまり初回プロム後の陽乃についても、本日頒布される同人誌で二次小説という形で書かせていただきました。

 同人誌『レプリカ』には他にも興味深い原稿ばかりが収録されていますので、良かったら手にとって読んで頂けると嬉しいです。
 詳細は以下のTweetをご覧下さい。

 ちなみに宣言と言えば、以前にはこんな予告もしていました。

 これについては、もしも二次小説がボツになった時の予備として取っておいたのですが、もしも掲載が許されるのであれば、『レプリカ』vol.2に書かせていただけると良いなと思っています。

 最後に、本稿の画像はwikipediaの「鶴岡八幡宮」に掲載されていた「由比八幡」の写真を使わせていただきました。

 そんな感じで長々と書かせていただきましたが、ここまで読んで下さってありがとうございました!