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「メリーさんの羊」が暗示する親世代の罪について

はじめに

 本稿は、劇場版の前編が本日公開されたアニメ『輪るピングドラム』(2011年7月-12月)の12話で語られる「メリーさんの羊」から、過去に親世代が犯した罪を推測しようと試みるものです。
 その手掛かりとして、高倉兄弟妹や夏芽姉弟らが現在=2011年に体験したあれこれを参照しており、つまり最終話までのネタバレが含まれています。

 また、以前の記事で詳述した内容については説明を簡略化しています。

 以上をご了承の上、よろしくお願いします。

仮説

 さて、まずは私が「メリーさんの羊」をどう解釈したのかを示しておきたいと思います。
 とはいえ「メリーさん」が高倉父(剣山)を、「三匹の仔羊」が晶馬・冠葉・陽毬を、「二匹のウサギ」が闇ウサギ(シラセとソウヤ)を模している事に異論は出ないでしょうし、「女神」と眞悧の類似性についても同様だと思われます。

 それに対して「リンゴの樹」と「黄金の実」は意見が分かれそうな印象です。私は前者が高倉母(千江美)を、後者は二人の「想い出」を暗示していると受け取りました。

 メリーさんのご自慢は、毛並みが美しい三匹の仔羊と、庭にあるリンゴの樹。
 それは世界で最初の樹で、毎年多くの黄金の実をもたらし、世界の未来・夢・愛を照らしていました。
 ところがある朝、リンゴの樹は枯れていました。
 世界は闇に閉ざされ、メリーさんは泣くばかりで仔羊たちの声も届きません。
 メリーさんは二匹の闇ウサギに唆されて、女神の神殿で燃える松明の灰を盗みます。
 灰のおかげでリンゴの樹は蘇りますが、メリーさんは嬉しさのあまり仔羊すらも目に入りません。
 女神はメリーさんではなく、仔羊の中でも一番小さな陽毬に罰を与えました。
「だって罰は、いちばん理不尽じゃないとね」
(以下13話)
 けれども女神は、死の罰を与えるのはやめました。
「だって、これで罰が終わりじゃつまらないでしょ」

『輪るピングドラム』12-13話を要約

 千江美という名前が「知恵の実」を連想させること。セリフが少ない千江美が21話で三人のことを「大切な未来」と語っていること。剣山が晶馬たち三人よりも優先する存在。そして寓話で語られている「世界」を「剣山の世界」と捉えてみると、この話は千江美が一度死んでしまい、それを剣山が無理に蘇らせた可能性を示唆しているように思えます。

 その場合は同時に、陽毬が理不尽な罰を受けて死に瀕したものの生き返ったという一連の流れが、「現在=2011年の出来事とは限らない」とも言えるのではないかと思います。死の罰が三年という期間を費やして与えられたのかもしれないし、実はもっと幼い頃に同じような事があったのかもしれないということです。

 とはいえ、いずれにしても私の解釈にこれ以上の根拠と言えるものはありません。
 けれどもこう解釈することで、作品の他の場面においても従来とは違った解釈が可能になり、それらを結びつけていくと作品の違った側面が見えて来ます。

 以下ではそれを示していきたいと思います。

箱に入った二人と「冠葉は選ばれたんだ」の別解

 二人が「生き残ったほうが」という話をしていたこともあってか、24話のこの場面は「冠葉と晶馬のどちらを選ぶのか」という解釈に傾きそうになります。けれども冠葉が口走った「誰に」「何に」という疑問も含め、それらは不明なまま謎として残っています。

 とはいえ「冠葉も晶馬も選ばれる」という可能性は考えにくく、それは晶馬の描かれ方に原因があるように思います。つまり「自分が選ばれるとは思えない」と最初から諦めていたような気配が、晶馬からは伝わって来るからです。

 ここでメリーさんの話を思い出してみると、おそらく時系列としては箱の場面が先であろうと思われます。けれど仔羊よりもリンゴの樹を優先する父の心情を、おそらく実の子である晶馬は以前から薄々感じ取っていたのではないでしょうか。
 そう考えることはそれほど無茶な解釈では無いと私は思います。

 つまり「冠葉は選ばれたんだ」という発言は晶馬と直截的には関係が無く、「晶馬は選ばれない」という事実がそれとは別に独立して存在していたのではないか、とも考えられるのです。

 そして晶馬の代わりに選ばれたのは千江美ではないかと思い至ったところで、この話はいったん保留にしたいと思います。

「お前を選ぶんじゃなかった。私は家族に失敗したよ」の別解

 冠葉が21話にて実父から言われたこの言葉は、組織から去って夏芽家に戻った真砂子(とマリオ)との比較として受け取られているように思います。

 けれどもメリーさんの話を考慮すると、子どもたちよりも妻を優先する剣山とは違って、夏芽父は妻よりも子どもたちを優先したのではないか、という解釈が出てきます。その選択を死に瀕した時に後悔したということですね。

 仮にそうだとすると、物語は悲劇的な色合いを帯びて来ます。
 つまり父に選ばれた冠葉が、その証とも言えるリンゴを晶馬と分け合ったことで、高倉家では妻と子の両方が助かったのに対して。夏芽家では(選ばれなかった)妻が犠牲になった可能性が浮上するからです。

 作中で誰よりも早く「運命の果実を一緒に食べよう」と口にした冠葉が、その行為ゆえに父に疎まれることになったのだとしたら、何だかやるせないですね。

「家族四人」の別解

 夏芽家に(つまり祖父のもとに)戻った真砂子は16話にて父からの手紙を受け取ります。そこには「家族四人で」と書かれていて、この時点では(父と真砂子とマリオ以外の)残り一人が謎のままで、母という可能性も残されていました。

 冠葉と真砂子が実の兄妹だと判明してからは、残りの一人は冠葉だと受け取るのが一般的だと思われます。そもそも、手紙を受け取った真砂子が冠葉を除外するとは考えにくく、ゆえに夏芽母はこの時点で既に亡くなっていたのではないかと考えられます。

 けれども夏芽父の心情が以上のようなものだとしたら。そしてメリーさんの話を考慮すると、「冠葉を除外して母を加えた四人」という意味で夏芽父が手紙を書いていた可能性も無くはないと思われます。

 つまり、冠葉に向かって「家族に失敗した」と語った夏芽父は、妻を(メリーさんと同様に)生き返らせようとしたのではないか。けれどもそれに失敗し、失意のまま亡くなったのではないかという疑惑が生じます(灰を撒くという方法を思い付けなかったのか、それとも灰を撒いてもダメだったのかは分かりませんが)。

 仮にそれが正しいとすると、冠葉は夏芽家だけではなく高倉家でも(メリーさんの話にあるように)「子どもたちより妻を優先する父の姿」を見せつけられる羽目になるわけで、不憫さが増しますね。。

「母子ともに健康」と聞いて「良かった」と胸をなで下ろす場面の別解

 始まりの部屋で病院からの連絡を受けた剣山は、ただ妻と子の無事を喜んでいるだけだと思っていました。けれども直後にテロ行為に走ったように、この12話の時点でもきな臭い雰囲気は漂っていました。

 家族の無事を確認してから破壊行為へと赴く流れは、23話の冠葉を連想させます。
 つまり、蘇生した真砂子の姿を見せつけた眞悧が、冠葉に破壊をささやいたように。16年前にも眞悧が「母子ともに健康」という状況をもたらして、その対価としてテロ行為を唆したのかもしれないということです。

「僕たちのせいで君の姉さんは亡くなった」の別解

 晶馬が苹果にこう語った11-12話の時点では、子世代は親の罪を背負っているのだと思っていました。とはいえ(特に晶馬に関しては)罪の意識が過剰ではないかと思える節もあり、少なからぬ違和感が残っていました。

 けれど、もしも晶馬と冠葉(と真砂子)が生まれた時に、母子の健康とテロ行為との等価交換が親たちの間で意識されていたのであれば。

 地下鉄におけるテロ行為は、まず誰よりも親世代にとっての罪であるのは勿論として。責任能力の欠如により法律の上では無罪であったとしても、子世代にとっては自身が生きているというその事実こそが根拠となって罪の意識を覚えるのではないかと思うのです。

 つまり晶馬が「僕たち」と複数形を使っていることは、夏芽父母もまた16年前に類似の状況に陥っていた可能性を示唆しているようにも受け取れるのです。

「高倉家の罪は、僕だけの罪なんだ」の別解

 とはいえ晶馬は20話にて単数系で「僕だけの罪」と苹果に告げました。冠葉も陽毬も元々は高倉家の子ではなく、特に陽毬は晶馬が家族にしただけに、よりいっそう罪深く感じているのだろうと当時の私は思いました。

 確かに血の繋がりという点だけから考えると、高倉家の罪は晶馬だけの罪だと言えるのでしょう。あるいは、冠葉や陽毬と家族になる前に高倉家が犯した罪については、それを子世代が引き受ける場合には晶馬だけが該当すると、そう言いたくなるのも理解できる気がします。

 けれども夏芽父が剣山と同じく組織の幹部だったことを考えると、高倉家の罪は夏芽家にとっての罪でもある可能性が高く、各家ごとに罪を分けて考える必要性はさほど無いと思われます。要は、晶馬の罪であるならば冠葉の罪でもある可能性が高いということです。

 もしも「高倉家だけの罪」が実在するとすれば。それは晶馬たちが生まれた時でも、陽毬と冠葉が高倉家の一員となった後でも無く、その間の期間に起きた出来事が原因ではないか。もっと言えば、箱の一件に関係しているのではないかという推測が出て来ます。

 つまり、冠葉のおかげで母子ともに生き残った高倉家と、冠葉を選んだがゆえに母を(更には父をも)喪ってしまった夏芽家という対比を目の当たりにして、夏芽父だけではなく晶馬もまた後悔の念を抱いていたのではないかと考えられるのです。

 そしてこれは、運命の果実を一緒に食べた晶馬としては、決して冠葉の罪にしてはいけない問題です。
 母親同士でリンゴを分け合う手も、母子で分け合う手も思い付かず、ただ冠葉から与えられたものを受け取っただけの晶馬にとって、これは高倉家の罪であり、何よりも自分だけの罪なのだと考えたのではないでしょうか。

「これで罰が終わりじゃつまらない」の別解

 陽毬は24話にて「生きることは罰」だと口にしています。私は、13話で上記の発言とともに死の罰を取り下げた女神の意図もまた類似のものだと考えていました。

 とはいえ死の罰と比べると、生きているだけでも儲けものだという話も有り得るわけで、「生きることが罰」になるためには何かしらの環境要因が必要となります。
 ここで陽毬が小学校から追い出される場面が思い浮かぶのですが、それはおそらく高倉父母の指名手配が原因であろうと思われます。

 この話で引っ掛かるのは、地下鉄テロから指名手配までに13年という年月が流れていることです。22話にて冠葉を追い詰めた機動隊の対応と比べると非常にお粗末で、逆に何かしらの作為を感じずにはいられません。
 そして記憶の操作を筆頭に、この作品内には超常現象を引き起こす何かが実在しています。

 ではここで、夏芽父の手紙にあった「家族四人」という記述を思い出してみましょう。
 剣山は16年前に「母子ともに健康」を喜びましたが、テロ行為と引き替えに望んだのはそれではなく「家族揃って健やかに過ごせること」だとしたら。つまり剣山も夏芽父も「指名手配されない状態」だったとしたら、陽毬への死の罰を取り下げる代わりに保護を打ち切るという罰を与えることが可能になります。

(この保護を受けたのが高倉家と夏芽家だけだとしたら、組織の他の構成員には逮捕のリスクが残るので組織改名の要因になり得る=この仮説を否定する根拠にはならないと思います。)

 この罰はつまらないものとは程遠く、親世代に罰を与えると同時に子世代をも生き辛くさせるという点で非常にハイブリッドな罰であり、いかにも眞悧が好みそうな罰でもあると思うのですが、いかがでしょうか。

まとめ:親世代が罪を犯すに至った経緯について

 16年前、妊娠中の妻の身を案じる剣山と夏芽父に、眞悧は取引を持ちかけました。母子ともに健康で家族揃って健やかに過ごせる未来と引き替えに、彼らに地下鉄へのテロを実行させます。
 桃果のおかげで被害は抑えられたものの、冠葉と晶馬は生まれながらにして罪を背負うことになりました。

 10年前、今度は母と子の二択が提示されました。陽毬への投薬量は増えているのに新薬が有限だったのと類似の状況だと思われますが、母と子の片方だけしか助けられないと知って(真砂子の希望もあってか)子を選んだ夏芽家と、母を選んだ高倉家で明暗が分かれました。
 箱の中で見付けたリンゴを冠葉が分け合ったことで晶馬も生き残り、結果的に死者が出なかった高倉家とは違って、夏芽家は母を喪い、程なくして父も帰らぬ人となります。

 冠葉と陽毬が高倉家に引き取られて時が過ぎ、ついに千江美は死んでしまいました。妻を生き返らせるために、女神の火で焼かれた灰を盗んだ剣山でしたが、その代償は大きなものでした。
 いちばん幼い陽毬が死の危険に晒され、自分たちも指名手配されてしまい、陽毬は小学校からも友人の輪からもはじき出されてしまいます。

 こうして親世代は表舞台から去って、子世代の物語が始まることになるのでした。

 以上、できる限り飛躍を抑えた形でまとめたつもりですが、推測が多く含まれていることをご了承下さい。少なくとも、これが唯一の解答では無いと私は考えています。

終わりに

 こうした推測が当てにならないのは、既存の作品には描かれていない新要素を盛り込んで話を構築することが作り手には可能だからです。

 それでも、既存の情報を丹念に追って仮説を組み立てることには価値があると私は思いますし、それは「根拠の無い思い込みで組み立てた仮説がたまたま正解だった」場合よりも有益だと考えます。なぜなら前者は次に繋がり、後者はどこにも繋がらないからです。

 それともう一つ、眞悧は13話にて運命の話をしていました。運命が人の生涯を支配していて抗うことができないのであれば、類似の状況に置かれた人は同じような行動を取るはずです。そしてそれを確認するためには、親世代と類似の状況へと導く必要があります。

 つまり親世代の動向を探る際には子世代の類似の状況が参考になる可能性が非常に高く、本作品はとても考察しがいのある構成になっていると言えるでしょう。

 一般的に妥当と思われる解釈ではなく敢えて別解を示し続けた本稿ですが、読み方を変えればこんな解釈も有り得るのだと、そうした面白さを感じ取って頂けたら良いなと思いながら文字を重ねました。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

 なお、本稿の画像は前回に続いて、ピンドラ10周年の記念サイトにて配布されているものを使用しました。とはいえ前回のような意味づけは特になく、ただ三人と三匹の姿が微笑ましく思えたのでこれを選びました。

 次回は俺ガイルについて書く予定です。よろしくお願いします。