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ラブストーリー 下

「結局、夏祭りには行きませんでした。僕と彼女の間にその話題が出ることはなかったのです。しかし、お互いわかっていました。蝉が儚さであるように、青空が青春であるように」
茜に晒された彼は、私にそう話した。私に言い聞かせるように、あるいは彼自身に言い聞かせるように。
「けれども、一度だけ、青春が零れ落ちたことがありました。夏休みが始まる前日、つまり終業式の日ですね、大掃除の後、全校集会が始まるまで時間があるので、皆は思い思いに喋っていました。私は、そのときあまり勉強する気も起きなくて単語帳を開いたまま空を見上げ、呆けていました。
するといつものように、とん、と。
そして、なんでもないことのように、
――今日一緒に帰らない?
あまりに自然だったので私もそのまま頷きました。
教室でしか話したことがなかったので、靴箱で彼女のローファーを見た時は不思議な気持ちでした。

今日は部活ないの?
うん
テニス部だっけ?
そう、もうすぐ大会なの
そっか、がんばってね
うん……
……
テニスってさ、夏は暑そうだね
うん、焼けちゃうからさ、たいへんだよー

しかし、横顔と水色のヘアゴム、亀裂の入ったアスファルトを大事に歩きました。
今では、そんなことばかり思い出します。

……それから、夏休みに入って。4日目くらいですかね。珍しく父親が早く帰ってきたと思ったら、話がある、と。両親の前に正座させられて、何か言うことはないか、と。

何もない。
そうか。
最近浮ついてるんじゃないか。
……
宿題もちゃんとやっていないらしいな。答えを写すなんてカンニングと同じだぞ。

父親は教師でした。母親は、その時後ろからまあまあ、と怒気が混じった父親をなだめていました。怒りを磔にしました。

それは、他にやりたい勉強があって……
そんなものは言い訳にならん。やらなければならないことは、きちんとやるべきだ。
……
それに、この前、女の子と歩いていたらしいな。

頭が空白で覆われました。いえ、ぽっかりと穴が開きました。
その穴に落ちて、落ちている途中に、何故知ってるのかとか、それでどうして怒られなければいけないのかとか、一回だけでこんなことになるのかとか、色んな思いが走馬灯のように流れました。そんな思いがくるくると回って浮かび、そしてきりきりと消えていきました。
穴の底に打ち付けられたと同時に、私に打ち付けられた結論。
――全部私が悪い。
私は私を磔にしました。

それから、私は今まで以上に勉学に励みました。怒られたからではなく、この家から一刻も早く出たかったから。大学に入ってしまえばもう縛られることはない。親にも、親に告げ口した誰かにも。学校にも、学校では教えてくれない価値観という暴力にも。
私は、この頃から人の目が怖くなりました。誰が私を見ていて、誰がそれを私の親に言うかわからない。誰が私を見ていて、誰が私を貶めるかわからない。私が会う人はすべて私を選定している。私が会う人はすべて私を品定めしている。
だって、そうじゃありませんか。誰か、新しい人に出会ったとき、あなたは何を考えますか。この人はどんな人なのだろう。何に興味を持っているのだろう。仲良くなれるのだろうか。まともな人なのだろうか。私はどう映っているのだろうか。
その出会って数分でその人の品定めが終わります。あとは馬が合うか、様子見か、廃棄処分か。好奇の目。怪訝な目。警戒の目。純粋な目。侮蔑の目。虚ろな目。

あああ、私は夏が嫌いです。夏の「目」が私を見つめてくるのです。
歪んだ空に浮かぶ白い太陽。すべての色を混ぜた、白。私への評価の総体。
私は、空気になりたかった。誰にも見つからない、空気になりたかった。
雲一つない、夏の空。空っぽの空。見上げても、何も言ってくれない空。
私は、秋を望んでいた。人々の飽きを望んでいた。もう私に構わないで欲しかった。
秋になれば落葉し、人は物悲しさを覚える。それこそ私が夏に抱いていた感情だった。

だから、私はずっと空を見つめていました。

夏が、嫌いです。
私は、渡守に憧れました。そう、川の両岸を行き来して、人や荷物を運ぶ仕事です。
誰かに、私を夏から連れ去ってほしかったのです。秋に、連れて行って欲しかったのです。
しかし、そんな人は誰も現れませんでした。私が溺れかけているその横を、その川に入れるなんて滅多にないことだぞ、苦しいかもしれないが、それは光栄なことなんだぞ、と唾を吐かれました。
私が溺れていたその川の水は、あの空のように鮮明に青でした。
助けが来ないのであれば、お前が助けになるべきだ。そう思うようになりました。
空が青いのは、信号機の青と同じだと誰かが言っていました。青だから、進めと。
青だから、私は進まなければならないのです。私が立ち止まってしまったら、後ろがつかえてしまう。だから、歩け、歩け。足を前に出せ。心は勝手についてくる。だから、とにかく歩みを止めるな。

そうしてあの夏、私は文字が読めなくなりました。
誰かを救おうと、掬おうと勉学に勤しんでいた私を嘲笑うかのように、私の痣を笑うかのように。

まずは、数字が読めなくなりました。1が「いち」だと発音はできるのですが、それが「1個」という意味であることに結びつかないのです。この頃は、自分の頭が鈍っているだけだろうと思っていました。疲れているだけだと。だから、数字の意味に対する違和感を磔に、理性を生かしました。意味は分からなくとも、計算はできるので、さほど問題ではありませんでした。歩け、歩け、そう言い聞かせました。
すると次に、専門書の用語が読めなくなりました。例えば、「赤」と聞いたら、林檎だとか、血だとか、薔薇だとか、そんなことを思い出すでしょう。そんな用語に付随するイメージや質感がなくなりました。
だから、私はイメージに対する違和感を磔に、理性を生かしました。単語を、定義として記憶しました。「赤」であれば、血を連想させるため危険の信号として使われる、暖色であるため食欲を増進させる、等。「赤」という単語を見ると、その定義を逐一思い出し、どの定義がその文章に適切か模索する作業が必要となりました。
少し、疲れを覚えるようになりました。歩け、歩け。
それから段々と、日常語にも侵食してきました。
「こんにちは」=「人と会った時にする挨拶」
「挨拶」=「コミュニケーション、人間関係を円滑にするための道具」
「昨日何してた?」=「映画やカラオケ、読書、何か普段と違ったことがあったかを聞いている。相手が興味を持つ話題を話すとよい、もし昨日何もしていなければ最近の話でもよい」
まるで、真っ白なジグソーパズルを組み合わせているようでした。今でこそ、何となく形によってピースを区別できるようになりましたが、真っ白なのは今も変わりません。それに、そのピースは吹けば飛ぶように軽いので、手にしたまま考え込んでいるとどこかに飛び去ってしまうのです。私はよく、言葉に詰まりました。そしてそんな自分に腹が立ちました。歩け、と言っているのに足が出ないことに腹が立ちました。そして、これは自分の身体に起きたことだから、当然自分が悪いのだと思いました。自分が間違いなのだと思いました。しかし、正解が何かは今でもわかりません。」

彼は、詰まりながらも2時間ほどかけてここまで話した。診察時間はとっくに過ぎていたが、私にはこの話を聞く義務があった。

――齢29、男性、非常に聡明。主訴は、読字障害。思考制止も見られる。日常会話も困難だと訴えている。初期症状は9年前の夏より自覚。通院開始は3年前。寛解の兆しはなく、先月、本病院へ紹介。現在、治療のため無職。
彼が高校1年生の夏、家族と衝突、大学入学以降は絶縁状態。両親が厳格で、同級生の女子生徒との交際を許さなかった。それに反抗しようとした彼を見て、両親は女子生徒の家に「関わらないでくれ」と連絡した。彼はその近辺の記憶は曖昧で、尋ねると「自分が悪いのだ」と繰り返す。その後一刻も早く家を出たいとの思いで、県外の大学を志望、合格。

紹介状にはそのように書いてあった。そしてそれが事実であることを私は知っている。
私が心療内科で働き始めて初めての患者。こんな偶然があるのかと思った。
あの夏の夜、かかってきた電話。彼の父親の声と、その後ろから聞こえる怒号。彼の怒号。
――やめろ、関係ないだろ。おれの問題だ、おれが悪いんだ。
怒気が混じる父親の声よりも、彼の声の方がはっきりと聞こえた。
彼には、その事実はなかったことになっている。何もできなかったという結果に整合性を持たすためか、自分を今も許すことができないのか。
あの時、受話器を抱えながら、こんなことになるとは想像していなかったけれど、それほど痛みは感じていなかった。片田舎、誰の家の事情がどうとか、そんな話はすぐに耳に入ってくる。だから、少しだけ覚悟はしておいた。
それでも思ったより受話器は重くて、両手で抱えながら、私は彼にどうして空を見ているのか、と尋ねたことを思い出していた。

――空は、いつ見たって同じ空じゃない。色んな空がある。見守っているようだったり、見下しているようだったり、晴れやかだったり、憂鬱そうだったり。そう感じるのは自分の心の動きのせいかもしれないけれど。
いずれにせよ、すべてのものは変わっていく。すべてのものは同じではない。すべてのものは消えてゆく。だから、楽しいことも辛いことも、いつか全部消えてなくなるんだ。儚いってたぶんそういうことなんだ。それが美しいとかそんなことじゃないと思う。早く消えてくれ、と願う、ただそれだけなんだ。

私は何と言ったのだろうか。何と言おうとしていたのだろうか。何が言えたのだろうか。

「先生、私は治るのでしょうか」
あの頃の力の宿った眼差しはもう見る影もない。頬はこけ、不釣り合いな無精髭。
しかし、あの日あの時と同じように、口元は固く、固く結ばれている。

夏は死に、秋が生まれる。
秋が死に、冬が生まれる。
冬が死に、春が生まれる。
そして、
春が死に、夏が生まれる。

夏も、あの空も、ただ死にゆくのではない。
死んだ後には何も残らない。
季節はうつろう。空もうつろう。
形を変えて、永久に生きる。
生きる。
形だけが死に、生きる。
何かが残っていればそれは、生きている。

私は医師だから、私情は挟めない。明日、担当は変えてもらおう。
外の茜は消えて、すっかり暗くなっていた。


逸らす 空
懐かしい 夏
寄る辺ない 夜
渡守としての 私
朽ちることない 口


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