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日記

2021/5/4
海が見たかった。
より厳密にいえば、視界をまっさらに埋め尽くしてくれるものに出会いたかった。
GWだというのに、何もしていなかった。
やらなければならないことはたくさんあった。ただ、のっぺらぼうな虚無感が私にぶら下がっていた。そいつは私に刹那的享楽と安住とを押し付け、それに私が懐柔されたのを見計らって去って行った。残されたのは私だけだ。
――わかっている。言い訳だ。こんな大層な外敵がいることにしないと耐えられないのだ。
この私を取り巻く、後悔と自己嫌悪と怠惰に塗れた呪詛は、少しずつ、しかし確かに私を蝕んでいく。振り払っても振り払っても、そいつは形を変え、色を変え、体内に侵食し、私の穴という穴をどす黒い液体で満たす。

一昨日は一日中家にいた。
せっかくの休日で何か料理しようと思っていたのだが、冷蔵庫には何も入ってなかった。
買いに出るのも面倒なのでカップ麺を食べた。ただ何をするでもなく3分待った。
昨日はさすがにもうそろそろ動こうかと思って、昼によく行くラーメン屋に行った。
昼の2時を過ぎていたのに、見たことないくらい混んでいた。
朝ごはんを食べなかったことを後悔しながら、30分くらい待った。
その店は先に食券を買っておく暗黙のルールがあるのだが、おそらくそれを知らない夫婦が後からやってきて、私が券売機で何にしようか悩んでいる間に先に列に並んだ。
それでさらに待つ時間が増えた。
とはいえ、自分は急ぐわけでもない。そして知らないのも仕方がない。
そう思いながら、スマホでマンガアプリを立ち上げた。最近スマホの調子が悪くてなかなか起動しない。真っ白な画面を見つめていると段々とみじめになってきた。
――海が見たい。その時そう思ったのだ。

ラーメン大盛にチャーシュー丼を掻き込み、外で五月晴れを浴びる。
都会の真ん中で浴びる日差しは存外からりとした気分にさせてくれるものだ。おそらく、人の活気が、自然と人とのスペクトラムが、秩序ある生気を醸成するのだろう。
ただ、今の私はこのくらいでは満足しない。
もっと圧倒されたいのだ。この目一杯を動じないもので満たしたいのだ。

よし、南に行こう。
私の住む地域は三角州になっていて、そのまま南に下れば海に出るはずだった。
イヤホンを耳につけ、音楽を流す。最近同じバンドの曲ばかりを聴いているから、たまには違うのも、と思い、声が特徴的なシンガーソングライターを選ぶ。
「模範的な夜の森林をくぐり抜けて…」
この高層ビルを木に見立てよう。信号機は木の実だ。空の青は、夜に染めよう。スーツ姿の人々は、妖精にしよう。
そうして、私は精悍な森を妖精たちと予定調和的に歩き出す。

しかし、ご存知の通り何事にも終わりは存在する。それもゆるやかな形でそれは訪れる。
直立不動な大木たちは、やがて枯れ、傾き、小さくなっていく。
私を放っておいてくれる夜の裂け目から、不釣り合いな陽光が覗く。
高層ビルから、住宅街が目立つようになり、少し大きめの業務用スーパーを越えたら、そこからはもったりとした商店街のにおいがする。
これを人情のにおいだ、と言う人もいるだろう。ただ、そこから逃げてきた私のような根無し草にとっては、妥協を蜜に煮詰めて頭からねっとりと注がれているような気がする。
ラジオを自転車に括り付けて野球中継を聞きながら漕ぐおじさんが通り過ぎる。
「すばらしき日々の途中 こびりつく不安定な夜に…」
もうやめだ。私は夜の散歩に出かけているのではない。
すぐさまいつも聴いているバンドに音楽を変える。これで自分の中に夜を作ることができる。

「空っぽな奴ほど詩を書きたがる…」
『死を書きたがる』
海が見たいとか、結局海を見たいというプロットに憧れてるだけなんじゃないんだろうか。
そもそも海に行って何をする?海を見て突っ立っている自分を思うとまた惨めだ。
テトラポットの前に立って、風を浴びたいのだろうか。そんな陳腐な情景、小説にだってなりやしない。

そろそろ着く時分なのに、海は見えてこない。
まわりには更地と、ちらほら住宅街が見える。
つまり、迷ったのだ。
まあいいか、適当に歩こう。

十分ほど歩くと、開放的な風が吹いてきた。
お、適当に歩いているうちに海に出たのかもしれない。
まばらな住宅街の中、足を速める。道の先は少し上り坂になっていて、その端は進行方向を横切るように自動車専用道路になっている。それを越えた先に海があるらしい。
坂を上る。
車が目の前を通り過ぎる。
――海。……ではない、川だ。
どうやら、南に行くつもりが東に進んでいて、三角州の右側にある川についてしまったらしい。
さらに。道路の向こう側には金網があって、草が鬱蒼と生い茂っている。
歩行者もいないからスピードを出して通り過ぎる車。
左右に伸びる金網。
手入れされていない茂み。
その向こうに川がある。

諦めて帰ろうとまたイヤホンをつけた私の傍をごみ収集車が鋭く駆け抜ける。
不意打ちで動揺する私の片耳に歌詞が流れる。
「面影に差した日暮れ 爪先立つ、雲が焼ける、さよならが口を滑る」
薄暮にカラスが鳴いていた。


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