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1.17はキティーちゃんとミートボールの日。

毎年そわそわする。
昨晩もすぐには眠れなくて、起きるとひどい胃痛でうにゃうにゃする。

「もし、地震が起こらなかったら友達みんなと尼崎に住み続けれたかな」

「もし、あの日落っこちてきたブラウン管テレビの下敷きになってたら、
 今はないのかあなあ…」

「とはいえ、すごい被害があった中、生き延びてしまった。
 私は何をしたらいいんやろう・・・」

そうやって、悲しくなり・感謝し・罪悪感のようなものを感じたり・使命じみたものがほしくなったり、この日にSNSやTVで流れまくるあの日の写真や映像にきゅーっと胃がしめつけられる。
それが1月17日。

25年たってあの日を忘れて没頭できる”今”を持てている幸せを感じつつ、
少し距離ができたのか、やっと言語化できるようになったので忘れないように書いておこうと思います。

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1995年1月17日。当時4歳だった私は尼崎の武庫之荘団地に住んでいました。

日中は交通公園を夢中で走り回り、3歳児教室という子育て支援の場?でできた友達たちと毎日充実していて。ママたちもすごく仲がよくって。次の春からみんなで「からたちようちえん」に行くんだと思っていました。

家具関係の仕事をしていた父は、ほとんど起きている時間に帰ってこないので小さい頃はあまり記憶がありません。たまに深夜0時くらいに屋台のラーメンを買ってきてくれる人というイメージです(笑)あるときから、家に帰ってくるのが早くなって、嬉しかったなあ。バブル崩壊のおかげです(笑)

1月16日は私と母が高熱を出していて。父が家事を全部してくれて、翌朝の炊飯器のセットをして布団に入りました。

日中に寝過ぎてたので、深く眠れず。うとうとしては時々目が覚めて。

途中でトイレに行きたい!と母を起こして、2才の妹も起きてトイレへ。
その後も大して眠れなくて、退屈しながらぼんやり隣の部屋の豆電球の明かりを眺めてはうとうとを繰り返してしていました。


すると、床から振り落とされるような揺れととてつもない轟音。



ものが落ちる音、ガラスが割れる音、
永遠に感じるくらいに長くて、
「ぎゃーーーーひとりぼっちーーーーしんだーーーーー」と
こころぼそくて、声が出なくて、おそろしかった。

揺れが収まると、「大丈夫かあ!」と父の声がするけど、
どこにいるのかよくわかりません。停電して真っ暗です。怖い。
(タンスの引き出しが父に向かって複数落ちてきたためで動けず、
 母はとっさに2歳の妹に覆いかぶさっていたようです)

母の声も聞こえて、なになに?!と思っていると
外から光が差し込みました。誰かが懐中電灯で照らしてくれたようです。
父と母が「懐中電灯はどこや?」「テレビボードの上」と探し始めます。

けっこう探してたと思うけど、どこにもなくて、
暗闇を母が足元を触りながらさがしていると、パッと明るくなりました。


「あ゛い゛ギディイでずゔゔゔ〜〜〜」



私のおもちゃ、キティちゃんのテレビ電話です。
ちょっと電池が切れそうなのか、声がゾンビぽくってかなり不気味です。
でも当時は携帯電話がないので、光るのがこれしかない。仕方ない。


不気味な声と灯りを得て、いざ寝室を出発。
玄関まで地面にものが散らかっていて足の踏み場がない。
割れているものがあるかもしれないからと緊張感ピリピリのなか
そ〜〜〜っと歩いて
やっとの思いで玄関までたどり着く。
さっき行ったトイレと同じ道に思えない、こんなに遠かったかな。

玄関についたら、靴が山盛りに散らばっていて。
お気に入りの靴がない。
嫌やけど早くでなあかんからキティちゃんのスリッパで外へ。


父の営業車まで「あ゛い゛ギディイでずゔゔゔ〜〜〜」というゾンビ声の灯りを頼りに歩いた。母が少し恥ずかしそう。(今思うとめっちゃおもろい)


「ガス漏れしてるから火をつけないでくださーい!!!!」という声が聞こえてくる。「そうかあ〜!冷静やねえ。」と父と母。

車のなかにいる間も何度も揺れて、母に触れていないとこわかった。
明るくなってから、父が何度か片付けに戻ってくれていて。
「公衆電話がつながらん!」そんなことを聞いた気がする。


10時ぐらいに電気がもどったので全員で部屋に入った。
普段ビールの空き缶で遊んでたキッチンに、ものがいっぱい落ちてる。

電気が回復していたので、テレビがついていた。
「阪神高速が倒れてる…」母は固まったらしい。

そのあとは、ご飯を炊いて、ミートボールを食べた。
水が出ないから、お風呂のお湯であっためていたのを覚えている。
あったかいものを食べてホッとして。ちょっといつもに戻れた感覚がある。
(父がその日唯一開いてたコープこうべに行って、どん兵衛と一平ちゃんを買ってきた。つくってあったお茶を沸かして食べたみたい。お茶の味がしてうどんはまずかった by母)

その日は1日家で過ごした。まったく記憶がない。
(お父さんはずっと片付けてて、妹は寝てたけど、さよはお腹をさすってると寝るけど手を離してテレビを見にいこうとすると「うーん」と言うてた。電話は唯一義母の電話だけがかかってきて無事を伝えてんby母)

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次の日の朝、大阪府内の母の実家へ避難して、すごく安心した。
(「さよが『お腹すいたぁ〜』って入ってきてなあ。あの時はほんま涙出そうになったわ」ってばあばが言ってたで by母)

2週間ほどお世話になったあとは、尼崎にもどって。
「@@ちゃんちはマンションで、ドアがあかなくなった」と聞いていた家に遊びに行ったら、リビングがボコボコ。でも、いつもの生活だった。

幼稚園の入園式も揺れたけど、新しい生活は楽しかった。
お昼は好きなものが食べれなくて嫌やったけど(給食)友達ができた。

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夏祭りの後に、新しい家になった。母の実家のあたりに引っ越した。
当時はよくわかっていなくって、くる日も来る日もみんなに会えなくって。
どこかのタイミングで「あーーーーーずっと会えないんやーーー」ってわかってすごいぎゅっとした気持ちになった。

冬のころには眠ると夢をみるようになって。こわくなった。
①4〜5人の人が話をしていて(戦隊モノで悪者が爆弾とか落とすボタン?が見えて)押さないでーーーーって泣きまくって目覚める夢
②公園のみんなが居てあそぼ〜って入っていくのに誰も覚えてない夢
③片付けても片付けても、すごい揺れで家がめちゃめちゃになる夢

春になると、幼稚園に入れるようになった。年長さんクラス。
1クラスしかないからか、年少さんの1年でまとまっているように感じた。

お友達をどうやって作ったらいいかわからない。
公園のみんなと遊び方も違うけどそれが説明できない。
なんかAちゃんとBちゃんは一緒に遊ばないらしい。わからない。
仲良くなりたいな〜!と思ってお顔が好みの男の子10人くらいにチューしたら、めちゃくちゃな空気になって。5歳ながら周りにドン引きされたのはわかった。えええ〜。(さよは口から生まれてきたラテン人やな〜!by母)

胃が痛い記憶も多いけど、幸福な時間もたくさんあって。
無心で、絵を描くこと。粘土をつくること。がそうだった。
(1日でキティちゃんのボールペンのインクなくなったんやで!
 描きすぎて。はじめてみたわそんなん by母)

作品を見てみてー!と見せたら、感想をいってくれたりする。
なかには向こうから話しかけてくれる人もいる。
好きなことを話したら、相手も好きなことを話してくれる。
好きなことを話している人は笑っている。

無心でできることや好きなものは、年々増えていった。
歌う、踊る、字を覚える、計算する、SPEEDをみる、ポケモン緑、
モー娘。、まちあるき、平家物語、太平記、baseよしもと、阪神、perfume、、、

学校の授業で映画をみたり調べる機会を得て様々なことを知る。
母も震災特番は必ず録画していた頃があった。
すごい被害があった人もいるんだなと申し訳ない気持ちになったり。
ルミナリエを「キレイだねー」と言ってる自分にモヤモヤしたり。

それでも、いつもの間にか、友達作りに悩むことも
「ポコニャンがいたらなあ〜時間を戻してくれるのに〜」と思うことも
重たいもやもやした気持ちも減っていった。

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当時の母は28才、父は31才。ちょうどいまの私と彼の年代。
2人の子供がいて、、、本当にすごいと思う。同じことが起きてもこんな行動取れるやろうか。自信はない。あの日が起きた世界で、生き延びた私ができることはいまだよくわからない。負けず嫌いだけどわりとポンコツや。

でもせめて、
大変な時でもちょっとクスッと笑えるキティーちゃん電話。
あったかくてホッとしたレトルトのミートボール。
それは覚えておきたいなあと思う。

写真は、正月に母と妹と食べた(夫の実家からいただいた)お野菜と伊賀牛のすき焼き。母と妹が笑っている空間がすごく好き。場所がどこであっても、ここが我が家だなあと思う。妹の天然ボケを聞いて、父もあの世で一緒に「ククク・・・!」と笑ってるやろう。

ライフステージが変わっても、頻度が減っても、いつまでも家族や大切な人たちとあったかいご飯をあったかいお家で食べられる幸せを噛み締めていたいなあ。




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