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「八葉の栞」第五章 前編


4月4日

第一節

その日、真桜が藤堂探偵事務所を訪れたのは、14時を少し過ぎた頃だった。
柔らかな春の日差しを伴って姿を表した彼女は、いつもと変わらぬその笑みを満面に湛えていた。
「遅くなってごめんね。どうしても、やらなくちゃいけないことがあって…」
彼女は「オーナーには話をつけてあるから後の予定はない」という旨を付け加えた。

涼介たちは真桜を待つ間、これまでに読んだ数々の記録を整理していた。
彼女の話は長期間に及ぶと予想されたため、『記憶の雫』は一旦使わず、直接話を聞くことに決めていた。

涼介は真桜の笑顔を見つめる。彼女は笑顔を絶やさない。
はるりとよく似たその愛らしさに、遺伝子の存在を感じる。
だが、真桜はどう見ても20代だ。
どれだけ若く見えていたとして、実年齢が40歳以上だとは思えない。
今年30歳を迎えたはるりの母親としては、若すぎる。
真桜が涼介に視線を合わせた。
「大丈夫だよ。全部話すからね」
その声には、不安を払拭する不思議な力があった。
暖かくて、包み込むような優しさがある。
そんなところも、はるりにそっくりだ。

真桜は来客用のソファに腰を下ろした。
茉莉花は分厚いノートを構え、ジョシュは真剣な顔付きで尻尾をピンと伸ばしている。

ひとつ深呼吸をして、真桜は話の口火を切った。
「最初に、あなたたちが一番知りたがってると思うことから伝えるね」
室内に緊張が走った。ジョシュが喉をごくりと鳴らした。
「私は、はるりの居場所を知ってる」
真桜は涼介を見ながらそう言った。
そして、茉莉花たちに視線を移す。
「『水鏡桜とうたかたの少女』は私が持ってる」
ふたりは目を見開いた。
「マリカ…」
ジョシュが茉莉花に何かを言いかけたが、茉莉花はそれを遮った。
「うん。わかってる。まずは、これまでの経緯を聞こう」
真桜はその反応に満足そうに頷いた。
「時系列順に話した方がいいよね。長くなるけど、いい?」
「もちろん」
「全部話してもらうにゃすぞ!」
「お願いします」
「わかった。お付き合いよろしくね」
真桜はそう言うと、涼介が入れた熱いお茶を一口啜った。

第二節

「私は1973年の春に生まれた。双子だったのは聞いてるよね?私は姉の春香と共に生まれて、一緒に育った。私たちの家系が、かつて『花守の一族』と呼ばれてたのも知ってるかな。今はもうそれも形骸化してて、私たちの世代では、水鏡桜ってちょっと特殊な桜らしいね、というくらいの認識しかなかったんだけどね」
真桜は一旦ここで区切った。
この辺りの情報は、佳乃の記録の中で語られていた内容だ。
フィクション作品の世界にありそうな特殊な家系も、時の流れと共に風化し形骸化していく様は、妙に現代的なリアリティがあると、涼介は思った。

「私はそんなだったけど、春香は真面目だったから、水鏡桜の伝承を信じてた。『水鏡桜とうたかたの少女』は私たちの先代が子供向けに書いた本なんだけど、春香はあの本を熱心に読み込んでた」
真桜の目はどこか遠くを見ている。その視線の先に、春香との過ぎ去った日々が浮かんでいるのかもしれない。
茉莉花は真桜の言葉をノートに書き綴っていた。涼介もPCに入力しているが、ここまでは佳乃の記録の細部を補完しているような形だ。

「私たちが16歳になった年に、文乃さんが交通事故に遭った。私は彼女とはほとんど面識なかったんだけど、それでもすごいショックを受けた。春香の親友だって、知っていたから」
涼介は佳乃の記録を思い出す。春香の妹は彼女に気遣って、文乃とはあまり接触がなかったと、はるりは言っていた。
はるりはなぜそこまで知っていたのだろう?

「文乃さんに助かる見込みがほとんどないことを聞いた春香は、水鏡桜と『うたかたの契約』を交わした。そして、自身の『存在の力』を文乃さんに与えて、姿を消した。あっ、もしかしたら気になってたかもしれないけど、『存在の力』の譲与は、対象者の存在さえ知ってれば、水鏡桜を介して遠隔でも行えるの」
なるほど。だから、事故当日の佳乃の記録には春香が登場しなかったのだ。涼介は得心した。

「春香の『うたかた』が発動したとき、私も彼女の記憶を失った。あの子の持ち物も全部家にあったのに、私はそれを全部自分のものだと錯覚したの。『水鏡桜とうたかたの少女』も、春香の調香ノートも…あのときから、私の一部となった」
ここまで話してから、真桜は少し顔を赤らめた。
「えーと、これももう知ってると思うけど…私、『Libro Vento』には結構足運んでて、そこでその、匡貴くんと出会ったの」
春香の影響があって立ち寄るようになった古書店だが、春香と文乃、真桜と匡貴の関係は、ただの偶然だと彼女は言った。
佳乃と茉莉花は彼女たちの縁を奇妙に感じていたが、そこに必然が入る余地はなかったと、真桜は断言した。そして、説明を続けた。

「春香が消えたあと、私も寂しさを紛らわすようにたくさん本を読むようになった。匡貴くんと出会ったのは17歳のとき。20歳で結婚して、その翌年にはるりが生まれた」

「ちょっと待って」と茉莉花が口を挟んだ。
「大事なとこで悪いんだけど、ひとつ気になることがある。『春香が消えた』ってどういうこと?『うたかたの契約』を結んだ人は、その後どうなるの?」
茉莉花の問いに、真桜は人差し指を唇にあてて考え込んだ。
「うーん、これは後で話そうと思ってたんだけどねー。『うたかた』が芽生えた…って、私たちは表現するんだけど、『うたかた』の能力を得たあと、契約者は他者の記憶に残らない存在になるの」
「それは知ってる。数時間から数日程度しか記憶に残らないって、佳乃さんの記録で知った。私たちは、『うたかた』は連想記憶を消失させる能力だと思ってる」
真桜は感嘆した。
「すごいね!さすがだね!そう、『うたかた』は記憶の繋がりだけを弾き飛ばすの。もっと詳しく言うとね、契約者が誰かと接触すると、その人の脳内のシナプス結合部分に微細な泡が生じるの。その泡はどんどん大きくなっていって、限界強度を超えると、シャボン玉が割れるように弾ける。このときに、電気信号のパターンが乱れて、神経伝達物質のバランスが崩れちゃうの。でも、このままにしておくと正常性が保てなくなるから、別の近い要素を持ったニューロンと再結合して、欠損部分を自己補完するようになる…っていう感じかな」

「…長い。けど、なんとなくわかった」
茉莉花は少し困った顔をしながら、真桜の説明をノートに書き込んでいく。ジョシュは目をクルクル回していた。

涼介は佳乃と匡貴の記録の中で、彼女たちがはるりの記憶を失うときに、頭の中で何かが弾ける音を聞いていることを思い出していた。
想像すると、かなり恐ろしい現象が起こっていたのだとわかる。

別のニューロンとの再結合の例として、匡貴の場合、はるりを孤児の養子と認識するようになった。これは、真桜の存在を忘れた結果、脳が矛盾のない新たな記憶を作り出したためだ。
一方、文乃は春香の代替となる親友を設定せず、『友達のいない孤独な人生』という自己認識を形成した。
これらは共に、脳内で不自然さを回避するための処理の結果といえる。

涼介は身震いした。
もしかしたら、勘違いや記憶違い、デジャブなどが起こる原因のひとつに、こういった特殊な能力の作用も影響しているのかもしれない。意識できないという観点で考えたとき、彼自身とて、決してその例外ではないのだ。

第三節

「話を進めるね。契約者が行き着く末路は2つある。ひとつは、『存在の力』を他者に与えるとき、すべての力を譲ってしまうと、自分の存在が保てなくなって、身体ごと消滅する。もうひとつは、『うたかた』を持ったまま寿命を迎えると、水鏡桜を守護する『桜の精』として、白桜町を見守る霊的な存在になる」
「なんかエグい…」茉莉花が顔をしかめた。
「はは…そうなんだよね。でも、人助けができる能力だから。しょうがないところもあるんだよ」
「ハルカはどうなったんにゃすか?」
真桜は悲しそうに目を伏せる。
「私も春香のこと認識できなくなっていたから、確かなことはわからないんだけど、多分『桜の精』になったんだと思う。文乃さんに力を与えた後も、彼女は生きていたみたいだから」
「なんでわかるの?」茉莉花がもっともな疑問を口にする。
「契約者は、他の契約者の『うたかた』の効果を受けないの」

真桜の言葉に、涼介はハッとした。
はるりも、春香の存在を調べたのではないだろうか。はるりは『Spring Note』の調香ノートをきっかけに春香を知り、彼女の足跡を追った。
はるりは春香の生き様に何かを感じ取ったのだと涼介は想像した。
だからこそ、彼女は春香の香水を愛用した。
春香の意思を継ごうという意識などではなく、単純に彼女の選択に尊敬の念を抱いたのだ。

「よくわかった。話の腰を折ってごめん」
茉莉花がめずらしく謝る。真桜は顔を綻ばせた。
「ううん。大丈夫。興味を持ってくれるのは嬉しいよ。こんな話、全然人にはできないから」
「うん。その気持ちはわかる」
茉莉花がしみじみと同意する。ジョシュもうんうんと頷いていた。

涼介は皆の空いた湯呑みに、淹れ直した緑茶を注いだ。
ありがとうと真桜がお礼を言ったとき、彼女と涼介の目が合った。
真桜の目の光の裏に、涼介は同情の影を感じ取った。
なんだろう。これから、いったいどんな話が待っているというのか。
「はるりさんの話を続けて」
茉莉花は熱そうにお茶を飲みながら、話の先を促した。

「1999年だったかな。はるりが5歳になったとき、あの子、突然重い病気に罹って倒れたの。すごい高熱が出て、貧血になって…。お医者さんたちが手を尽くしてくれたんだけど、全然原因わからなくて」
真桜は声を震わせながら続ける。
その目には、当時の恐怖と不安が浮かんでいた。
「はるりは日に日に弱っていった。私の目には、あの子から青白い光が漏れ出てるのが見えた。通常の治療では全く効果なくて、私ははるりを失いたくなくて、あの子をなんとかして助けたくて、『うたかたの契約』を結んだ」
茉莉花は無表情のままだったが、その目は真剣だった。
ジョシュは前のめりになり、涼介は耳を澄ませて、真桜の話を聞いていた。

商店街の方から、自転車の呼び鈴の音が聴こえた。
真桜はそれが合図だったかのように、話を続けた。

「ただ、はるりの治療には膨大な量の『存在の力』が必要だった。私の生命をすべて注ぎ込んで、ようやくあの子の命を繋ぎ止めることができた」
先程、真桜が言っていた『うたかたの契約』を交わした者の末路。
彼女は、自らの『存在の力』を使い切り、身体ごと存在が消滅してしまったということになる。それならば、目の前にいる彼女は…。
涼介は困惑した眼差しで真桜を見つめた。

第四節

「はるりは…ものすごく簡単に言うと、骨髄に重大な問題があった」
真桜は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「私は『存在の力』をあの子の身体に送って、異常が生じてる部位を除去した。欠損した部分も、自己修復するまで、私の『存在の力』を被せてカバーすることにした。無茶な方法だったけど、もう彼女には時間が残されてなかったから」
真桜は大きな瞳に涙を溜めながら、息を深く吸った。
「『存在の力』を攻撃に転用すると、大量に消費しちゃうのは知ってるよね?患っている部分の除去と、はるりが失っていた『存在の力』の補填に、私はすべての力を使った。全部使い切った」
彼女の声は、次第に小さくなっていった。
「でも…それでも足りなかったの。命こそ取り留めたけど、あの子の身体はずっと弱いままで…」
真桜の両手が小刻みに震えていた。涼介たちは無言で彼女を見つめた。

「雰囲気暗くしちゃって、ごめんね」
真桜は笑顔を作った。涼介は、これほどまでに悲しい人の笑顔を見たことがなかった。星のような煌めきの影に、徹夜明けのような暗い表情があった。

「あの子はその後、少しずつ回復していって、無事に小学校に入学したの。だけど、小さくて、身体が弱くて、気も弱かったから、すぐにいじめの標的にされてしまって…」
真桜は一瞬言葉を詰まらせて、「きっと、私のせいでもあるんだと思う」と、小さな声で付け加えた。
「はるりの骨髄には、私の『存在の力』が残ってたの。子供は敏感だから、ふたつの異なる『存在の力』を持ったはるりに違和感を覚えたんだと思う。なんか変だから、気持ち悪いって…あの子、よくそう言われてた」
このとき、真桜の脳裏に、当時の情景が鮮やかに蘇った。
これまで、かろうじて抑えていた感情が奔流し、彼女は堪らず落涙した。
「にゃんで…にゃんで、こんなことになるにゃすか。ひどいにゃすよー」
ジョシュも声を上げて泣いた。

茉莉花はおもむろに立ち上がると、「ちょっと休もう」と言いながら、窓を開けて空気を入れ替えた。
涼介は無言で頷き、真桜の肩に優しく手を置いた。
真桜の身体は、はるりよりもさらに小さい。
彼女も必死に戦っている。
はるりのために。きっと今も、ずっと。

「優しいね」
真桜は、涼介の手に自身の手を重ねて、言った。
「あの子も好きになるわけだよ」
「はるりは…」
「あなたのことが好きだったよ。あなたのことだけを、ずっと想ってた」
真桜の声は頼もしかった。涼介も力強く頷いた。

外では夕陽が西の空に傾き、薄い青と深い藍のグラデーションに星が瞬いている。開放された窓の戸から、静謐な空気が吹き込んだ。
こほんと茉莉花が咳払いをした。
ジョシュは器用にティッシュを掴んで、鼻を噛んでいた。
真桜は微笑んで、話を続ける。

「はるりはいじめに遭っていることを匡貴くんに話すことができなかった。匡貴くん、ずっと仕事でいそがしかったから。なるべくはるりをひとりにしないように頑張ってくれてたんだけど、家に帰るとすぐに寝ちゃうから…」
はるりも遠慮しちゃったんだと彼女は言った。
「はるりは孤独になって、いじめも悪化していった。あの子が爪を噛むようになった頃かな、心がどんどん自分の中に向いていって、空想の中で友達を作ろうとしたの。あの子は無意識に、自分の体内に宿る真桜の『存在の力』を見つけて、名前と人格を与えた」
涼介の中で、それまで宙に浮かんでいた数々の疑問点が、明確な線を描き、像を結んだ。真桜は頷いた。
「そう。それが、私」
彼女は静かに言った。

「真桜の『存在の力』の残滓に、はるりが命を与えてくれた存在。それが、私なんだよ」

第五節

「ある日、はるりが私に手紙を書いたの。驚いたけど、私はそれに乗った。あのときの私は、はるりの心の中に居るだけの存在だったから、あの子とのコミュニケーションに手紙を使うのは合理的な方法だった」
真也や玲於奈の記録の中でも、はるりは子供の頃に、架空の友人と文通をしていたと言っていた。涼介がそう思った瞬間、茉莉花がノートのその箇所に蛍光ペンで線を引いた。真桜が話を続ける。
「私は親として彼女に伝えたかったことを、手紙に書き記した。匡貴くんが捨てずにいてくれた『水鏡桜とうたかたの少女』のこととか、可愛い笑顔の作り方とか…って、なんか恥ずかしいなあ」
真桜は照れ隠しに笑った。先程までよりも明るい彼女の表情に、涼介は少し安堵した。

「あの子は、『水鏡桜とうたかたの少女』の影響で、放課後を水鏡桜の前で過ごすようになった。あの桜には記憶を浄化する能力があることも知ってるよね?…あれ?知らなかったの?」
「詳しくは知らないっす…」
「そうだったんだ!ごめんね。水鏡桜には、本人にとって害となる記憶を忘れさせて、逆に成長に繋がる記憶を定着させる力があるの。だから、白桜町には健康な高齢者とか、クリエイティブ系で成功する人が多かったりするんだよ」
「あっ…」涼介は声を漏らした。
彼が白桜町に戻ってきたきっかけも、仕事仲間や取引先の多くが、白桜町やその近辺を拠点としていたからだった。彼らも水鏡桜の効用に肖って、この地を選んだのかもしれない。

「話を戻すね。はるりはずっといじめられてひとりぼっちだったんだけど、あの子が9歳のときだったかな、やっとね、彼女をかばってくれる男の子が現れたの」
真桜は涼介の大きな身体を見つめた。
「あなたが、初めて彼女を救ってくれた。あの子にとって、あなたは太陽のような、憧れの存在になった」

涼介は喜びに近い感情と共に、猛烈な罪悪感を覚えていた。
彼はそのときのことを憶えていない。なぜ、憶えていないのか?
その問いに対する解を、多分彼は持っている。
「あなたたちは、水鏡桜の前でよく顔を合わせるようになった。涼介くんはお父さんのレターナイフを製品として完成させることを夢見てた。だから、水鏡桜からインスピレーションを得ようとしてたんだよ」
確かに子供の頃はそんな夢を持っていた。そのこと自体はまだ憶えている。
「はるりは少しずつあなたに心を開いていって、色んなことを相談するようになった。あなたはそれを、とても親身になって聞いてくれたの。涼介くんはね、はるりの爪のことにも気付いてくれてた。はるりが匡貴くんに話せないこととかも、細かく気遣って、助言を与えてくれた」
「にゃるほど。マサキの記録と合致するにゃすな」
ジョシュはふむふむと頷いた。
「リョースケは子供のときからすごかったんにゃね」
「うん。はるりは涼介くんに恋をした。あの子は自分の爪がボロボロなのが恥ずかしくなって、噛むのをやめるように頑張った。私との文通…ううん、私との会話もやめて、まっすぐに現実を見ようとした」
あなたに近づくために、強くなろうとしたんだよと真桜は言った。

「はるりが10歳のとき、学校で『将来の夢』をテーマにした作文があった。そこであの子は、自分の夢を発表したの」
自分のようにどこにも居場所がない人たちが、安心して時間を過ごすことができるカフェを作る。家にも学校にも居場所がなかったはるり。その寂しさを想像し、涼介は胸が苦しくなった。
そのときの俺は、彼女の話を聞くことくらいしかできなかったのだろうか。今なら違う。だけど、そのときは何もできなかったんだ。涼介は自分の無力を痛感する。
「涼介くんはあの子の夢を聞いてね、すごく褒めてくれたの。応援するって言ってくれた。たまたまそれを耳にした女の子が、玲於奈ちゃんにそのこと話しちゃって…。それからは、彼女からのいじめも始まった」
「ちょっと待って。『ハーモニー食堂』って…あいつ、まさか…はるりさんの夢をパクったの?」
茉莉花が呆れた声を上げた。ジョシュがうげえと顔をしかめた。
「多分、そういうことだと思うよ。あの子はあの子で涼介くんに気に入られたかったんだよね」
真桜は苦笑した。

その後、玲於奈と彼女の取り巻きが、はるりの持ち物を隠して捨てた。
その中には、はるりの母親、真桜の形見であるハサミも含まれていた。
はるりは必死でハサミを探した。涼介もその姿を見かけ、捜索を手伝ったが、ハサミを見つけることができなかった。このことは、玲於奈の記録の中にも記されていた。
「涼介くんは、宝物のレターナイフをはるりにプレゼントしてくれた。あの子の文通のことを知っていたから。そんなあなたの優しさに、はるりは感銘を受けて、もっともっと強くなろうって、心に決めたの」

そして、あの日が訪れた。
そう言った真桜の目には、これまでよりも深い翳が浮かんでいた。

第六節

「匡貴くんの記憶で見たかな。あの雨の日、はるりは瑞善寺川緑地で攫われそうになった。なんとか逃げたんだけど、水鏡桜の手前で捕まっちゃって、危うく連れ去られるところだったの」
真桜は再び涼介を見つめる。
「そこに、あなたが来てくれた。どうやって気付いたのかわからないけど、必死に駆けつけてきてくれて、誘拐犯…『雨の日の悪魔』と戦ってくれた」
だが、勝てなかったんだ。涼介は目を落とす。

「大人と子供の体格差だもの。しょうがないよ。あなたははるりを守るために、一生懸命頑張ってくれた。あの〇〇〇、子供にも全然手加減しなくて、はるりはあなたが死んでしまうと思って…力を解き放ったの」
「『存在の力』で攻撃した?」
茉莉花が問う。匡貴の記録に記されていた、あの光弾のことだろうと彼女は見当を付けていた。
「そう。攻撃には膨大な『存在の力』を使うから、あの子は無意識に自分の中にある私の『力』を使った」
「でも、男を倒すことはできなかった」
「うん。男はパニックになって、ナイフではるりを刺そうとした。刺されそうになったあの子を、涼介くん…あなたが、身を挺してかばってくれた」
涼介の左胸に鋭い痛みが走った。その痛みが、彼の記憶を呼び覚ました。
「俺はあのとき、心臓を刺されて…」
真桜がつらそうに頷く。
「致命傷を負ったあなたは死に瀕した。はるりは水鏡桜と契約して、あなたを救った」

「はるりさんはそのとき、人々の記憶から消えた…」
茉莉花がぽつりと呟いた。
「そう。『うたかたの契約』のときに、皆に忘れられちゃうよ?って説明はされるんだけどね、やっぱり匡貴くんの反応がつらかったみたいで、あの子は彼の前から逃げた」
真桜はあえて軽めの口調で話したが、その内容は非常に重たかった。
涼介は匡貴が呼んだ救急車に連れられて、病院に運ばれた。
彼は救われた。はるりの犠牲と引き換えに。
涼介は抑えきれない悔しさに、血が滲むほど強く拳を握りしめた。

昨日匡貴が見抜いた、涼介が抱く後ろめたさ。
それはきっと、はるりを守ることができなかった、自身の無力さだ。
涼介は、胸の奥から込み上げてくる叫びを必死に押し殺した。

「私は『雨の日の悪魔』への攻撃で『存在の力』を失って、はるりに話しかける力を失ってしまった。あの子は、本当のひとりぼっちになったの」
彼女のさらなる孤独が、追い打ちのように、涼介の心に重くのしかかる。
だが、本当の追い打ちは、この後に襲いかかってきた。

「行き場をなくしたあの子は、水鏡桜に戻って、木陰で丸くなって眠った。次の日、はるりは涼介くんのお見舞いに行ったの。お金を持ってなかったから何も買えなくて、それでもあなたに逢いたくて。あの子のことを思い出せなかったとしても、あなたなら必ず味方をしてくれるって、そう思っちゃったんだよね」
嫌な予感がした。涼介には、その日の記憶が少しだけ残っている。
忘れたくても、忘れられなかったから。

「病室にはあなたのお母さんがいた。誰かが持ってきたりんごが3つくらいあって、お母さんが果物ナイフで皮を剥こうとしたときに…」
「待って!今、そこまで言う必要あるの!?」
茉莉花が真桜の言葉を制した。
彼女にもこの先に起こった出来事が予想できていた。

涼介の先端恐怖症。通り魔に襲われたことが原因だと、彼は思っていた。
それは『うたかた』により改変された記憶の繋がりだ。
しかし、そこは問題ではない。
心臓を貫かれたという事実。
その恐怖が、少年であった彼の胸に刻まれてしまった。

当時の涼介には夢があった。父を超える工芸デザイナーになることだ。
父が完成を諦めた試作品のレターナイフ。
父が成し得なかった目標を、彼が形にして叶えること。
無垢な少年が抱いた夢は、その瞬間、無情にも潰えた。

涼介はあのとき、己を失ったかのように怯え、暴れてしまった自分の姿を、今では鮮明に思い出すことができた。はるりは、あれを見てしまったのだ。彼女は責任を感じた。涼介の夢を奪ったのは自分だと、自らの罪として受け止めてしまった。彼が知るはるりなら、必ずそう考える。
現に、彼女はそれ以降、自らの意思で彼の前に姿を表すことはなかった。

涼介は、今度こそ、耐えることができなかった。
苦痛に満ちた彼の哭声が、茉莉花たちの胸を深く抉った。

第七節

「ごめん…。ちゃんと全部話した方がいいと思ったの。無神経だったよね。本当にごめん」
真桜は心の底から涼介に謝罪した。
彼女とて、彼を傷付けたかったわけではない。
ただ、話さずにはいられなかったのだ。

「あなたは、あの日から、大切な人を守ることができる人間になろうと努力した。そして、こんなにも強くて、優しい人になった。あなたの夢は、有形から無形に転じて、様々な人の力になってる。無力なんかじゃない。ずっとあなたたちを見てきた私が、全力で保証する」
「そうだにゃ!おいどんもマオと同じ気持ちにゃすぞ!リョースケは世界に誇ることができる最高の男だにゃ!!」
涼介は答えることができなかった。
ただ黙って、心配そうに近寄ってきたジョシュの頭を撫でた。
彼の目には、その心中を表すかのような、複雑な光が宿っていた。
「はるり…」と、彼は呻くように呟いた。
真桜は顔を伏せて話を続けた。

「すべての人々から忘れ去られたはるりは、ひとりで孤独に生きていった。生き延びるためには…何だってやった」
「ほにゃ?ハルリはこのとき10歳だにゃ?お金もないのに、どうやって…」
「ジョシュ!!」茉莉花がジョシュを戒めた。
その声には、普段の彼女からは想像ができないほどの、強い気迫が込められていた。
「それは私たちが聞くべきことじゃない」
黙っててという茉莉花を、真桜は落ち着いてと宥めた。
「でも、ごめんね。でも、茉莉花ちゃんの言うとおり、これは私の口からは話せない。何があっても」
「うにゃ…。ごめんにゃさい」
ジョシュがペコリと頭を下げた。大丈夫だよと、真桜は微笑んだ。

今度は茉莉花がお茶を入れ直し、真桜に訊ねる。
「これだけは教えて。私たちは匡貴さんの記録から、はるりさんが記憶を失った後の彼と再会するところを見た。あれは偶然だったの?」
この問いの意図に、真桜は瞬時に気付いた。
彼女は茉莉花から目を逸らして、「酷なこと聞くね」と呟いた。
しかし、これは真桜にとっての助け舟ともなった。
話さなくてはならないこと。でも、話しづらいことでもあったから。

「あれは偶然だったんだよ。でも、はるりは匡貴くんに会えることを期待して、あの公園にいた。そういう意味だと、蓋然的な再会…だったのかな」
「匡貴さんは…」
「うん。心の穴が空いてしまった人は、その隙間を埋めようとする。…その多くは、凶行に走る傾向がある」
それに、と真桜は続ける。
「二度目の『うたかた』で開く穴は、一度目とは比べものにならないほど…大きいの。あのときのはるりは、それを知らなかったんだよ。知らなかったから、匡貴くんの心を壊してしまった。はるりは、重い責任を感じた」
匡貴の一件から、はるりはさらなる孤独へと足を踏み込んでいった。
それ以上のことを、真桜は語らなかった。

第八節

「昨年、はるりが涼介くんと再会を果たしたのも、紛れもない偶然だった。あの子は、涼介くんに会わないように、一生懸命頑張ってたんだけどね…」
真桜が発した言葉の意味を、涼介は最初理解できなかった。
だが、先に茉莉花が確認した情報から、すぐにそれが心の穴のことなのだとわかった。涼介も一度『うたかた』で彼女の記憶を失っている。彼の心の穴は比較的小さかった。肉親である匡貴と違い、当時の涼介にとってはるりの記憶は…はるりのそれと比べると、それほど重たいものではなかったというのが、現実的な解釈だろう。

「本当は、あなたの告白を断って、速やかにあなたから離れるべきだった。だけど、あの子にはそれができなかった。19年…。あの日から、19年だよ?あの子は、19年間も想い続けた、あなたとの再会をなかったことにはできなかった」
涼介ははるりと出会ったときのことを思い出していた。左胸に走った重たい衝撃。守っていきたいと感じた、激しい衝動。あのときに感じた、すべての感情。今の彼は、その意味をすべて理解できる。

「俺は…今でも子供の頃のはるりを思い出すことができません。でも、たまに夢を見るんです。俺は仰向けに倒れていて、桜の花びらが降ってきて…。誰かが心配そうに俺のことを見てくれてるんです。だけど、手を伸ばしても、その人には届かない。放してはいけないとわかっているのに…掴むことができない」
あれはきっと、幼き日のはるりだ。涼介を救ってくれた、恩人だ。
ひとりにしてはいけないのだと、心のどこかで気付いていた。
だが、あのとき重傷を負っていた涼介は、動くことができなかった。
今は違う。今度こそ、彼女をひとりにはしない。
涼介の決意が、涙となって零れ落ちる。

「涼介くんと過ごした約1年、はるりは人生で一番の幸せを感じてた。違うか。一番どころじゃないね。あの子はほとんど幸せだったことがないから…こんな夢のような人生があるんだって、毎日訪れる初めての輝きに胸をときめかせてた」
だけど、と言って、真桜は深く息を吸った。
「終わりが遠くないこともわかってた」
『うたかた』による連想記憶の消去は、契約者の『存在の力』で防ぐことができる。ただし、その間『存在の力』を使い続ける必要があり、さらに最長でも1年程度しか持たない。佳乃の記録で、はるりはそう説明していた。

「俺がはるりを憶えていられるのは、彼女の『存在の力』で『うたかた』を抑えているからですよね。その力がなくなったら、俺はまたはるりのことを…」
「半分正解かな。あなたはもうはるりのことを忘れない」
真桜がまっすぐな眼差しで涼介を見る。
「どういう…ことですか?」
「あの子はあなたと再会して、人生最後の夢を描いたの」
「人生最後の…夢?」
「そう。最初で最後の、どうしても叶えたい夢。それは、あなたの記憶の中で生き続けること」
その言葉に、茉莉花の直感が働いた。
「まさか…」
「うん。はるりは、『裏返し』を使う決意をしたの」

『裏返し』。通常とは違う能力の使い方。涼介は茉莉花からそのように聞いていた。通常の能力使用とは比較にならないリスクがあるとも。
真桜がその先を説明する。
「『裏返し』はすべての能力に存在する。『記憶の雫』なら、記憶という過去を書き起こす代わりに、未来で起こる出来事を記すことができる。『八葉の栞』の場合は、記録の中の原因と結果を変える代わりに、現実世界の事象を書き換えることができる」
涼介は思わず茉莉花とジョシュを見た。
信じられない力だ。
まさに世界を変え得る可能性を、彼女たちはその身に秘めているのだ。
それなら、『うたかた』は?
涼介は視線を真桜に戻した。

「『うたかた』は、少し能力の種類が違うから、『裏返し』の特性も違うの。『うたかた』の場合は、使用者の記憶が対象者の中に永遠に残るようになる。その代わり、『裏返し』共通のデメリットとして、使用者はこれまでのすべての記憶を失う」
涼介は頭上から鉄槌を振り下ろされたような強烈な衝撃を覚えた。
一瞬息が止まった。

「はるりは…まさか…もう…」
言葉を紡ぐことさえ困難だった。涼介の手が小刻みに震え始める。
真桜は目を閉じて、首を横に振った。
「3月4日の深夜、彼女はあなたのもとを去って水鏡桜に向かった。あの本とレターナイフを持って。そして、その宝物を胸に、『裏返し』を使った」

涼介は言葉を失った。
彼の世界がこの一瞬にして崩れ去ってしまったかのように。
そして、真桜の次の言葉が、彼に完全なとどめを刺した。

「あなたが知るはるりは、もういない」

第九節

「リョースケ…」
うなだれる涼介の膝に、ジョシュが飛び乗った。
「ちょっと休むにゃ。無理しちゃダメにゃすよ!」
ジョシュは懸命に涼介を励まそうとした。
涼介は何か答えなくてはと思いながらも指一本動かすことができなかった。
事務所の外は既に暗く、室内の柔らかな照明が憔悴しきった彼の姿を浮かび上げた。両目は腫れて赤く、唇は乾き切っている。
今朝までの彼の姿はもうそこにはなかった。

はるりが失踪してから約1ヶ月の間に、彼の神経は徐々にすり減っていった。ここ一週間の出来事は特に、彼の精神に大きなダメージを与えていた。
それでもここまで持ち堪えることができたのは、彼のはるりに対する想いの強さだった。

涼介は子供の頃のはるりを思い出すことができない。
だが、彼女に命を救われたことを、今は知っている。
彼は過去に起こった事象とは無関係に、純粋に今のはるりが好きだった。
昨年桜の木の下で出会った彼女、この1年を共にした彼女のことが、大好きだった。もう、彼女に逢うことができないという事実は、彼に大きな絶望を与えていた。

「いくつか気になってることがあるから、聞かせて」
茉莉花が真桜に目を向けた。
ふたりも既に困憊していたが、ここで止まるわけにはいかなかった。
「うん。いいよ」と真桜が応える。
茉莉花はノートを開く。ページを捲る微かな音が、静寂を破った。
「私はずっと違和感を持ってた。どうして最近、うちに来る依頼のほとんどが、はるりさんに関係したものだったのか」
「どうしてだと思う?」茉莉花の鋭い眼差しに、真桜は静かに問い返した。
「多分、はるりさんは涼介さんに自分のことを知ってもらうために、この町の人々に自分の情報を伝えて回っていた。私たちが彼らの記憶を読むことを予期して」
茉莉花の言葉に、ジョシュが小さく息を呑んだ。
龍五郎の記録には、はるりが年明けから職場に行かず、白桜町や近辺の住人と積極的に会話をしていたことが記されていた。
はるりと話した人々は皆、彼女がどこか遠くにいる誰かを見ているようだと感じていた。彼女は涼介を見ていた。彼に向けて、言葉を紡いだのだ。

「はるりさんは、他者の記憶を介して、涼介さんに語りかけていた。自分という人間、そして人生を、彼に伝えようとした」
思い返せば、はるりは会話の文脈を無視して、本来は不必要である情報まで人々に話していた。多少強引にでも、様々な情報を会話の中に織り込もうとしたのだ。
「さすが名探偵だね」
真桜は感心したようだったが、茉莉花は無表情のまま質問を続ける。
「私が本当に聞きたいのはここから。なぜ、彼女はこんな回りくどいことをしたの?」
茉莉花の問いに、一瞬の沈黙が落ちた。

涼介は顔を上げた。彼は真桜に代わって、茉莉花に答えた。
「それは…そのまま話しても、俺が信じないと思ったからっすよね」
涼介の顔には、自嘲的な笑みが浮かんでいた。
その悲痛な面持ちに、真桜は堪らず目を背けた。
「そう。涼介くんは自分の目で見たものなら、非科学的な現象でも信じる。でも、自分の目で見るまでは、仮説のまま答を保留にする癖がある。順番が大切。だから、この手順を踏む必要があったの」
一同の視線がジョシュに向けられた。
「おいどん?」
自らの顔に前足を向けるジョシュに、真桜が頷いてみせる。
「そう。喋るネコの存在を信じてもらうこと。それが、特殊能力を認識してもらう最初の入口。ここに来る依頼人も、みんな同じでしょ?」
それを聞いて、涼介の匡貴の言葉を思い返した。
ジョシュの存在を容認して、特殊能力を否定するのは滑稽だ。
彼はそのような意味のことを口にしていた。
涼介も、まさに彼と同じ思考を踏んでいたのだ。

真桜は涼介の目を見て言った。
「理由はもうひとつあるの。もし、そのまますべてを話して、あなたがそれを信じてくれたとしても、あなたは絶対にはるりの『裏返し』を止めようとする。あなたは、そういう人。だからこそ、あの子は、あなたのことを好きになった」
涼介は自問する。
もしそのような状況に直面したら、確かに自分ははるりを止めるだろう。
その結果、心に取り返しがつかないほどの穴が空くことになったとしても、構わない。そう考える。そして、はるりはそれを望まなかったのだ。
「あの子は匡貴さんのことでとても傷付いていた。あなたにまで、同じことできるわけないよね」
真桜の言葉に、涼介は無言で頷いた。

涼介の脳裏に佳乃の言葉が蘇る。
直接話さなかったのには、きっと彼女なりの理由がある。
そのとおりだった。
信じることとは、疑わないこと。佳乃はそうも言っていた。
涼介は、はるりの思いやりを疑った自分を恥じた。
茉莉花は涼介を気遣いながらも、どうしても避けるわけにはいかない、重要な質問を真桜に投げかけた。
「次にあなたのことを教えて。どうしてはるりさんの中に眠っていたあなたが、今こうして実在しているの?」

茉莉花の言葉に緊張感が滲んだ。
「あなたは何者なの?」

第十節

夜の帳が下りて、商店街では早くも居酒屋が賑わいを見せていた。
窓ガラス越しに、夜の喧騒が僅かに聴こえる。
真桜の心は、春の夜を流れる風のような、静穏な落ち着きを取り戻していた。

「人が誰かを思い出せなくなったとき、その人の中から『存在の力』が放出される。これは知ってるよね?」
「もちろん」
「『うたかた』によって連想記憶が弾かれたときも、同じように『存在の力』が体外に出ていく。そして、白桜町や周辺で放出された『存在の力』は、すべて水鏡桜に還元される。『うたかた』の場合、親密度が高いほど、心の穴は大きくなり、水鏡桜に送られる『存在の力』も多くなるの」
「…光合成みたいな感じ?」
「うん。とても似てるよ。人は普段から微量の『存在の力』を放出してる。記憶の入れ替えは常に行われているから。『うたかた』は、それを加速させるような感じかな」

茉莉花はその情報をノートに書き記していく。真桜は茉莉花の先程の質問に直接答えてはいないが、彼女は静かに聞き入っていた。真桜のこの説明が、先般の問いへの回答に繋がるのであろうと確信していた。そして、水鏡桜の生態は、茉莉花にとっても重要な情報となる可能性があった。

「水鏡桜は、人々から吸収した『存在の力』を養分として芽吹き、花を咲かせる。水鏡桜の中で純化された『存在の力』は花びらや花粉に乗って、人々のもとに届けられる。主に、健康の促進、能力の成長、記憶の浄化という形で、町民の健全な生活に寄与するの」
茉莉花はペンを走らせる手を止めた。
「なるほど。『うたかたの契約』は、水鏡桜にもメリットがあると」
「私たちは一応、『花守の一族』だからね。元々は水鏡桜の負担を部分的に肩代わりするためのものなんだよ」
真桜は淡々と説明を続ける。
「水鏡桜も『うたかたの契約』を結ぶ際に『存在の力』を消費するんだよ。『うたかた』の発動時に対象から放出される『存在の力』が、この水鏡桜の消費分を超えれば、『うたかた』は消滅する。それを果たす前に命が尽きてしまった場合は、さっきも話したように、契約者は水鏡桜を守る『桜の精』になる。『桜の精』は、白桜町の人々の記憶を読んで、必要に応じて手助けをしたりするみたい」
まあ、私も見たことはないんだけどねと、真桜は付け足した。

「はるりが『裏返し』を使ったとき、彼女は自身のすべての記憶の繋がりを失った。この時点で、彼女を知るすべての生物から、あの子に関わる記憶の繋がりが消えた。涼介くんを除いてね」
真桜はそう言って、涼介の方をちらりと見た。

「はるりの胸にも、大きな穴が空いた。20年間愛し続けた涼介くんへの想いは、あの子のすべてだった。心が壊れるほどの大きな穴から、膨大な『存在の力』が放出された。同時に、彼女の中に眠っていた真桜の『存在の力』も解放されたの。ふたりの『存在の力』が絡み合い、ひとつの実体となった。それが、今ここにいる私」

第十一節

「はるりの涼介くんへの想いの強さが、まさか人ひとりの存在を生み出してしまうなんて、私自身すっごく驚いた。私はね、自分の使命は、この身体を使って彼女の最期の願いを叶えることなんだって思った。そのために、この世にまた存在を持つことができたんだって思ったの」

真桜の言葉に、茉莉花は思わず納得した。
いくつもの依頼が、この短期間に舞い込んできた理由がわかった。
はるりに関連した依頼が多かったことの謎も解けた。
真桜ははるりが仕込んだ会話を把握してる。彼女は言葉巧みに…時に強引に、人々の悩みを茉莉花への依頼に誘導していったのだろう。
茉莉花は、はるりが佳乃に語っていた情報を思い出していた。
真桜は生前、心理カウンセラーだった。
その経験が、少なからず活かされたのだろう。

「なんかハメられた気分」
真桜は最初意外そうな表情を見せたが、すぐに意地悪な笑みを浮かべた。
「そんなことないよー」
その様子を見ていたジョシュが、遠慮がちに口を挟んだ。
「ちょっと聞いていいにゃすか?」
普段は怖気付くことなく喋るジョシュだが、先程茉莉花に叱責されてから、慎重になっているようだった。
「うん。いいよ」
「ハルリが何をしようとしたのかはわかったんにゃけど、それっておいどんたちの能力がないと成り立たないにゃ?ハルリはおいどんたちを知ってたにゃすか?なんでリョースケに協力するとわかったにゃすか?」
いい質問だ。茉莉花はジョシュを褒めたくなったが、なんとなく悔しいのでやめた。

「さすが優秀な助手だね。でも、答は簡単。はるりは、あなたたちを知っていた。というか、会ったことあるんだよ。あなたたちが白桜町に移ってきたのは、はるりの依頼のためなんだから」
真桜はさらっとそう答えた。
「はるりはあなたたちの能力を知って、それまでのあの子の人生を間接的に涼介くんに伝える計画を考えた。それでも、本当に望んだ形での情報伝達が可能なのか自信を持てなかった。だから、直接依頼して協力してもらうことにしたの。この計画は、あなたたちが白桜町にいないとスムーズに進行しないから、引っ越しまでしてもらったのです」
「は?」
「ほげにゃ!?」
ふたりは呆気に取られた。信じられないという気持ちが先行したが、同時に妙な納得感を覚えていた。

「いや、でもそんなの全然憶えてないんだけど…」
「はるりが『裏返し』を使った時点で、あなたたちもあの子を思い出せなくなった。茉莉花ちゃんね、初めて涼介くんの写真を見たときに、この人アシスタントにしたいって言い出して、きっと記憶を失ってもそうするんだろうなあとなって、今回の流れに踏み切ることになったの」
「やめろ!それ以上言うな!なんか恥ずかしい…」
「マリカ…おいどんは情けないにゃすぞ」
「ははっ…はるりもあのときはドン引きしてたよ」

茉莉花は赤面したが、それでも彼女らしい鋭い質問を投げかけた。
「はるりさんはなぜ私たちの能力を知っていたの?」
真桜は少し意外な返しをした。
「それは、あなたたちが『雨の日の悪魔』を捕まえたから。それがきっかけで、はるりはあなたたちに興味を持って、調べたの」
茉莉花は軽く舌打ちした。考えてみれば当然だ。
『雨の日の悪魔』は、はるりにとってはすべての元凶だ。
毎日がつらければつらいほど、その元凶への恨みを募らせたはずだ。
絶対に復讐を考える。少なくても、茉莉花ならそう考える。

「涼介くんと再会する前まで、はるりにはふたつの目的があった。ひとつは『うたかた』を消すこと。もうひとつは『雨の日の悪魔』を探し出すこと。でも、あの子がそれを成し遂げるのは困難だった。18年かけて、ようやくあいつの尻尾を掴んだとき、あなたたちが彼を捕まえてしまったの」
はるりは悔しかったかもしれない。
だが、茉莉花たちのその実績が、彼女たちの能力の評価に繋がった。
その結果、はるりは茉莉花たちを信頼し、最期の望みを叶えるため、協力を要請したのだ。

第十二節

「これで私の話は全部かな」
真桜が安堵の息をつく。だが、茉莉花は気を緩めない。
「まだ、最も大事なことを聞いてない。はるりさんは今どこにいるの?」
「そうだにゃ!ハルリを探すのが、リョースケからの依頼にゃのだ!」
涼介はぴくりと反応した。彼の暗い目に、細い光が宿る。
「あの子はもうこの世にいない。さっき、そう言ったでしょ?」
「記憶の繋がりは失っても、存在自体が消えるわけじゃない。そうでしょ?さっきの『うたかた』の説明では、そうだった」
「…はるりは例外だったの。あの子の存在は、ほぼすべて涼介くんへの想いだけでできていた。それを失ったとき、存在が形を保てなくなって、彼女は分解された」
「そんにゃ…」
「あの子の意識と僅かな『存在の力』は、幽霊のようになって、涼介くんと共にいた。心当たりあるんじゃない?」
真桜の問いかけに、涼介は頷いた。

電源が切れたスマート家電に代わり、はるりは彼の生活を支えてくれていたのだ。多分、昔のはるりの夢を見るようになったのも、彼女の存在が近くにあったからだろう。涼介はふと気付いた疑問を口にする。
「そういえば、ここ数日は彼女の気配がない…」
涼介の言葉に、ジョシュが首を傾げた。
「ほにゃ?どういうことにゃすか?」
茉莉花は鋭利な視線で真桜を見据えた。
「はるりさんの魂が涼介さんから離れたということ?これから何が起こるの?あなたは、はるりさんの居場所を知ってると言った。これで終わりじゃないんでしょ?」
真桜が静かに頷くと、涼介は立ち上がった。
「教えてください。俺は、はるりと会わなくちゃいけないんです」

「はるりの『存在の力』は、水鏡桜によって再構成される。私も初めてのことだから確証はないんだけど、1年分の記憶につき、おおよそ1日かけて再生するみたい」
真桜の言葉には僅かな淀みがあった。しかし、茉莉花は構わず、先を促す。
「それで?それはいつ終わるの?」
「多分、明日のお昼くらい」
「わかった。ありがとう」
茉莉花は涼介の方を振り向く。
「会いに行くでしょ?はるりさんに」
「はい」
今日はもう遅い。茉莉花とジョシュも疲れた表情を浮かべている。
帰宅して、明日に向けて備えよう。そんな空気が流れたそのとき、想像だにしていなかった一言が飛び出た。

「悪いけど、はるりを涼介くんに会わせるわけにはいかない。再構成されても、形が保てるようになるだけで、心は穴は塞がらない。あなたに会えば、あの子の心は壊れる」

「そんなこと、会ってみないとわからない」
茉莉花の強気な反論に、真桜は一瞬目を閉じ、深呼吸した。
そして、静かに、しかし確信に満ちた口調で答えた。
「わかるんだよ。私はずっとはるりを見てきた。人の心に空いた穴を、数え切れないほど見てきた。あの子は、涼介くんに逢ってしまったら、もう耐えられなくなる」
真桜は涼介の目を見つめる。
「あなたは大切な人の心を壊してもいいの?あなただって、絶対に無傷ではいられないんだよ?」
「俺は…」
涼介には真桜の言うことも理解できた。理解せざるを得なかった。
これまでに彼らが得てきた情報。それらが行き着く先は、真桜の示す結論に帰着する。それでも、涼介は諦めることはできなかった。
彼の覚悟を察し、真桜は決意を固めた。

「確かに、私から話を聞いただけで納得することなんてできないよね。見てみる?これから起こること」
「…どういう意味?」と、茉莉花が訊く。
「私も『うたかた』の使い手だから、水鏡桜の能力を少し使えるの。能力の成長…能力の一時的な飛躍的成長。私なら、『存在の力』を分け与えて、擬似的にあなたたちの能力を『裏返す』ことができる。つまり、未来を書き起こすことができるようになる」
そう言って、真桜は再び目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼女の周りに、ゆっくりと青白い燐光が立ち昇り始めた。
その光は次第に強さを増し、部屋全体を彼女の色で包み込んでいった。

「ジョシュくん。いつもどおり、私の記憶を掬ってみて。私自身の記憶は、はるりの身体から放出されてからの1ヶ月分くらいしかないから、今この瞬間の記憶を探してみて」
ジョシュはドキドキしながら、真桜の記憶を掬う。
彼女の言うとおり、知識量に反して、記憶の海はとても浅かった。
海というより、水たまりだ。その水たまりの中に、少し異質の水球がある。もしかしたら、彼女の中にある、僅かなはるりの記憶かもしれない。
気になったが、ジョシュは真桜の言葉に従い、彼女の最新の記憶を掬った。

いつもどおり、掬った雫から記録を書き起こそうとしたとき、真桜の燐光に呼応して、ジョシュの雫が強い光を放った。
「にゃ、にゃんだー!?」
彼の前足は、これまでのように過去の記憶ではなく、これから起こる未来の情報を記していった。

「できたにゃす!」
ジョシュが書き込んだノートを、茉莉花がテーブルの真ん中に置いた。
彼女の手が少し震えているのが見て取れた。
涼介は息を呑み、前のめりになってノートを覗き込んだ。

真桜の記憶(未来)

第十三節

「はるりは明日の午後、水鏡桜の前に現れる。多分、それがあの子に会える最後のチャンスになる」
私は涼介くんにそう告げた。他にどうしたらいい?
これ以上、彼を説得することはできない。
彼がどれだけはるりのことを大切に想ってくれてるか、私にだって痛いほどわかってるから。
「今日はもう休もう」という茉莉花ちゃんの言葉で、解散となった。

4月5日、14時。私たちは、瑞善寺川沿いの桜並木に集まった。風がとっても強くて、舞い散る桜の花びらが、霞のように辺りを包みこんでいた。

水鏡桜の梢に、はるりはいた。
彼女はひとり佇んでいた。
あんなに大きくなったんだ。いつも私は彼女の中からこの世界を見てきた。いざ自分が身体を持ってみて、初めて彼女を客観視することができた。
小柄だけど、私よりは少し大きい。
左手に何か持ってる。ああ、あの子も匡貴くんと同じ左利きだったっけ。
顔のパーツは私そっくりで、輪郭が匡貴くん似。遺伝ってよくできてる。
自分の娘が、可愛くて仕方なかった。
思わず、これから起こるであろう悲劇を忘れたくなった。

涼介くんがゆっくりとした足取りで、はるりに近づいていった。
彼の心は、揺らいでる。はるりが彼の記憶を失っていようとも、きっとこれからの彼女を大切にしてくれるだろう。でも、彼は気付いている。この先、ふたりの生活の中で、彼しか知らない記憶の存在を意識するタイミングが訪れる。その度に、彼の心は傷付いていく。
そして、それはこれまでの1年間に、はるりが味わってきた苦痛でもある。
理解力ある彼は、そのことをわかっている。だからこそ、彼は揺らいでる。
私にそれを責めることはできない。

涼介くんがはるりの前に立った。はるりの顔には困惑の色が浮かんでる。
やっぱり、思い出せないんだ。
最愛の人を思い出せない苦しみが、彼女の心を蝕んでいく。

不意に強い風が吹いた。
薄紅色の花びらが舞い上がり、重なる桜の隙間から、眩しい太陽の光が射し込んだ。

その瞬間、はるりが叫びだした。頭を抱えて絶叫している。
茉莉花ちゃんとジョシュくんは、立ち竦んでいた。私も同じだ。
迂闊に動くことができないような、鋭い緊張感が空気を震わせていた。
「はるり…」
彼女の名を呼んで、涼介くんが一歩踏み出した。あ、ダメだ。そう思った。

声にならない悲鳴を上げ、はるりは全体重をかけて、両手を突き出した。
涼介くんが、「え…」と声を漏らした。
彼の左胸から一筋の赤い血が流れ落ちた。彼はその場に倒れ込んだ。

茉莉花ちゃんたちが彼に駆け寄っていく。
彼の胸に、細い金属の欠片のようなものが見えた。
レターナイフだった。はるりの心を支え続けてきた、あのレターナイフだ。太陽の光を反射して、血に染まったその刃が、皮肉のように輝いていた。
美しい刃先の向こう側に、涼介くんの生命が終着する。

涼介くんは驚きと苦痛に顔を歪めながらも、必死ではるりに手を伸ばそうとしていた。でも、彼女には届かなかった。
次第に、彼の身体は力を失っていった。
彼の『存在の力』が尽きていくのが、私の目には見えた。
あの日、はるりがすべてを失って守った光が、儚く散りゆく。

「救急車呼ぶにゃす!早く!」焦るジョシュくんの声が聴こえる。
「おまえ…!!」はるりに掴みかかる茉莉花ちゃんの声が聴こえる。
泣き叫ぶはるりの声が聴こえる。
「なんで思い出せないの…?どうして、思い出してくれないの…私のこと、守ってくれるって…言ってたのに…」
涼介くんを見下ろす彼女の瞳からは、一筋の光すらも失われていた。


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