「いちろくみそひと同期会」について適当に

「いちろくみそひと同期会」というネプリに参加しました。
2016年に短歌を始めた人々が、五首連作を寄稿しています。
詳しくは主催のとわさき芽ぐみさんのツイートをご覧ください↓
https://twitter.com/o10waMEGMEG/status/1009751258129825792

ここでは、ネプリの歌の中からなにか言いたいと思った(≒いいと思った)歌を引用し、なにか言います。

カウンセリング  妖精が飛び降り自殺するときの音だったのか(淡島うる「バッファ」)

カウンセリングは通常、精神的な不調を抱えた人物が受けるものであり、それを飛び降り自殺と関連付けることは容易である。というわけで「カウンセリング」と「飛び降り自殺」はいわゆる「つきすぎている」言葉なのだけど、この歌の場合は「妖精」という語を投入することでそこの距離をうまく取っている。
妖精といわれてどのようなものを想像するかは千差万別であろうが、いずれにしても現実からは遠い存在であり、ましてや「飛び降り自殺」をするなどとは考え難いであろう。また、「カウンセリング」の音が、通常人間が敢行するような「飛び降り自殺」が立てるような音の印象からは離れていることも、「妖精」と相まってある意味での現実感のなさを増幅させる効果を感じた。この「妖精」がたとえば「あなた」とか「誰か」などの言葉ではだめなのだ。

正気だよ。チガヤの柔い穂を撫でるあなたと歩かないままの岸(西藤智「海まで少し」)

言い聞かせるかのような初句。しかし正気だとわざわざ宣言することで、逆説的に正気でない誰かが存在していることが示されているように思われる。直接的にあなたの不在を描くのではなく、あくまでも「歩かない」という形で提示するのがよいところ。

コンパスは壊れてしまつて僕はもう言ひ訳できない迷子なのです(宮本背水「異邦の地の鐘を聴く」)

因果関係に不思議なところがある歌で、普通に考えれば、コンパスが壊れてしまったことこそが迷子の言い訳になるはずである。
しかし逆にいえばコンパスによって方位が示されている状態においては、いわばコンパスによって誘導されている状態であるから、仮にコンパスが狂っていて道に迷ってしまったとしても、それが原因だからと言い訳できるということなのだろう。
本当はもう少し一般化して「判断を外部に委ねるな」などと言えればかっこよかったのかもしれないのだが、この主体は結局のところ迷子になっており、それはもうどうしようもなく悲しい迷子なのだと思う。

おわり。

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