動物園の中の動物になる

 仕事を辞めてからどれくらい経ったか、すっかり忘れてしまった。
 最近気づいたことなのだが、人間、意外と働かなくても生きていける。しかも東京都近郊(23区内は無理だ)で、一人暮らしで。
 私にその手順を教えてくれた人とはdiscordで知り合った。とあるオンラインゲームのコミュニティサーバーだ。どんなネットコミュニティもそうなのだろうけれど、大手のそこは登録メンバーだけでも千人を超えていて、アクティブな人も多かった。だから朝から晩まで、なんなら朝から朝までオンラインゲームをしながらおしゃべりすることが可能だ。私はそこで何人かの親しい人を得た。乞われて個別に通話したりもした。相手は主に男性が多い。もちろん口説かれることもある。

  そのうちのひとりに、仕事を辞めた理由を聞かれ、私は問われるがままに今の自分の病状を伝えた。そもそも「病気」であるという認識もなかったが、通話相手の彼は「それは病気だよ」と断じた。なので病気だ。私は教えられるがままに診断書をもらったり、なんとか起きられた日中に市役所に行った。我ながら偉いと思うし、私にそこまでさせられた彼も偉い。

 そういうわけで、私は世間的に言う労働に従事しなくてすむ身分を得た。毎日昼過ぎに起きて、ゲームにログインしながらdiscordにつなげば、日中も誰かしら話し相手は居る。ゲームの世界のことだけでなく、いろいろな話題に及ぶが、そういう時はやんわりとゲームの話がしたいとねだればいい。こういうコミュニティに集まる男の人は基本的に女に優しい。相手が女性であるだけでいい、みたいな空気を感じることもある。なので私は無邪気に『女の子』を演じる。ほかの女性プレイヤーには甘えたり頼ったりして、嫌われないようにふるまう。加減が難しくて、やりすぎると男女ともにすっと離れていくことがある。不思議だ。人間ってやっぱり動物で、危険を察知する能力があるんだなと思う。すこし噛み合わないな、と感じたら距離を置く。

  私を不労でも食っていけるように案内してくれた彼は、口数が多くよくしゃべる。そして過去の栄光アピールをよくする。つまりちょっと年上の世代だと推測できる。
 苦労とかお金があるという示威をネット上でしても虚しいだけのような気がするが、彼はそれをしないほうが空しいんだろう。
 一応恩人なので、私は彼を邪険に扱わないが、一番偉いのは手続きに至った私本人である。そこだけは譲れない。だから私は彼から送られてくるネット回線ごしの秋波をスルーした。
 そもそも私は無口なほうが好みだし、他人に依存しない男性が好きだ。つまり、ネットゲームとかdiscordにいる彼らは対象外なのだ。翻って、男性陣からしても、こちらをそう見ているとは限らないし、むしろ対象外としてくれていたほうが健全だ。お互いに、という感じ。
 それでも野生の埒外な人間たちは、おかしな言動をするし、他人との距離感を見失いがちだし、どうしてそれでVC(ボイスチャット)なんてしようと思ったの? というくらい人間界で暮らした経験がなさそうである。

 そんな埒外な人のうちのひとりから、個別のチャットで「話がしたい」とメッセージが来ている。
 私はその文字を眺め、そしてフレンドたちのオンライン状況を眺め、そして楽しくなる。
 告白されるにしろなんにしろ、他人と接することは悪くないでしょう?  とりあえず夜明けが近い今、私は薬を飲んでベッドにのろのろと向かう。  明日(今日かもしれない)も同じような時間が続きますように。明日も明後日もその先も。  

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