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(ネタバレあり)ひとまず「生きよう」と思った――新しい映画の旅:すずめの戸締まり

「すずめの戸締まり」、見てきました。「天気の子」を見て映画館から出た時はすごく気持ちよかったのですが、今回は余韻を噛みしめるというか、味わうというか、そういうモードです。
筋の通った感想を書くにはもう少し解像度を上げる必要がありそうですが、ひとまず1回見た時点の雑記として、書いてみます。
作品内容の紹介は含みません。見てない人が読んでも何のことかわからないかも。

大筋の話

変わらなかった世界を生きていく

本作も「天気の子」と同じく、一言で言えば「大丈夫」、あるいは「自己犠牲をしない」という話ではあったと思います。そしてもう一歩踏み込むと、「天気の子」が「物語によって変わって(変えて)しまった世界を生きていく」だったのに対して、本作は「物語によって変わらなかった世界を(世界を変えずに)生きていく」という違いがあるように見えます。より地に足のついた答え、現実世界の讃歌、その一足が道となる。どちらの物語に(より強く)救われるかは、人にもよるだろうし、同じ人でもモードによって違うという事があると思います。私は、そうだね、そうだ、しんどいことも多いこの渡世だけど、ひとまず明日も生きようか、と思うことができました。

要石としての勉強の描写

印象的なのは、主人公とその相方はそれぞれ「将来やりたいこと」があって、それに向けて勉強をしている、という事を強く描写していたことです。
主人公は看護師、相方は教師(閉じ師では食っていけない!なんて地に足のついた描写!)。
当初は、主人公は「死ぬのは怖くない」と言い切る無鉄砲、相方は自分が人間じゃなくなりそうな時に「そうか…」って言っちゃうダウナーぶりでした。それが2人共「そりゃいつかは死ぬけど、まだ生きたいんだ」と言えるようになったのは、2人が恋に落ちて互いが生きる動機になったのが大きいのはそうなんだけど、「将来やりたいこと」が道しるべ、それこそ現実に自分たちをつなぎとめる「要石」として機能した、そのように見えました。

日々を生きる人たち

また、振り返ってみると、「日々を生きる」事の描写は本作はたくさん出てくるんですよね。宮崎の漁協の人たち(直接描かれてないけど、漁師の人たちとの飲み会に行かなきゃいけないあの感じ!)。愛媛で出会った、実家の旅館を手伝う高校生。神戸で力強く双子を育てるシングルマザー。主人公と叔母さんの12年間だって、彼女たちの言葉に断片的に出てくるだけだけど、「日々を生きる」事の積み重ねだから饒舌じゃないという事とも取れる。
旅の道中で獲得したものが終着点で結実するというのはロードムービーの1つの型ですが、本作の場合は「日々を生きる」事がそれにあたるのかな、と思います。

「普通に生きられる」という希望

最終局面、主人公が12年前の4歳の、悲劇の只中にある自分と邂逅して、希望を示します。この希望が特別なものじゃなくて(16歳の女子高生にとって、イケメン大学生との恋愛は特別なのかもしれないけど、それはおいておこう)、「あなたは悲劇を乗り越えて、日常を普通に生きていくことができるんだ」というものであるのが、本作の力強いメッセージで、本作の様々な描写が、その力強さに掛け算をしていったのだと思います。そして、これから先も日々を生きていく主人公が最後の戸締まりを「行ってきます」で締めるのが美しいなと。

震災の描写の話

記憶の想起として牙を剥く、フィクション・アニメの力強さ

私は東日本大震災の時、東京で働いていました。無事でしたが、公園に避難しましたし、家に帰ってずっとNHKのラジオを聴いていました。余震が来るたびに体がビクついていました。同年5月には災害救援ボランティアに参加して石巻で泥出しをして、津波の被害を実際に目で見ました。Jアラートを耳にするようになったのはそれから数年後だった気がしますが、2018年の大阪地震の時に大阪に住んでいて、そのときには地震でビクってなるのとJアラートが結びついていました。

そんな程度、震災で被害にあったうちには入らない程度の私でも、本作は体がビクってなる事(Jアラートのようなものが鳴る)が何度もあって、それが本作の鑑賞体験に伴う大きい重苦しさにつながりました。

注意喚起をする人に悪気はない、しかし…と思ってたのですが、実際に本作を見ると、「ああ、これはまあ言いたくなるわ」と思いました。常世の描写は津波が来た町のそれ(乗り上げた船、私は当時実際に見ました)だったし、最終局面ではそれが火に包まれていて、それってつまり、あの時に起きた喪失を、フィクションである分余計に鮮烈に表現した、という事だと思います。

私ですら「身体にくる」内容だった本作を、被害の当事者だった人が見たらどうなるのか。同じ当事者でも喪失の受け止め方には幅があるわけで(今年3月のねほりんぱほりん「復興活動から離れた人」は傑作でした)、人によっては正視に耐えないかもしれない、体に不調をきたすかもしれない。そう考えると、おいそれと他人に鑑賞を勧められないのですよ、本作。

震災の事を軽く扱ってはいないし、その上で発されるメッセージは希望だけれど、そのための描写としてのあれを受け入れられない人はいる可能性があるし、その人たちに対して言える事なんてないよな、と思います。(劇場でもらった「本」に新海監督は当時東京にいた事が語られていて、つまり当事者性があるわけではない、というのもどう映るだろうかと思う)

旅先の描写の話

本作は宮崎→愛媛→兵庫→東京→宮城(ですよね?)と旅しますが、行ったことがある場所が多くて、場所ごとに「八幡浜港!」「明石大橋!」「熱海の車窓!」「東京の乗り換え!」とテンションを上げていました。
私は東京から東北に向かう高速は利用したことがありませんが、あれも経験者からすると上がるポイントなんじゃないかと思います。
「天気の子」の新宿描写とかもそうなんですけど、現実にある場所の描写の解像度が高いので、行ったことがあるとその五感が再現されて、ぶわーっと脳汁出るんですよね。新海作品の好きなところの1つです。
私が八幡浜港から乗ったのは別府行きのフェリーです。実際は別府行きと臼杵行き(どちらも大分県)があるだけで、宮崎と行き来する航路は今はないはず。

わからなかったこと

西の要石=ダイジンが抜かれたあと逃げたのはなぜなのか、なぜ要石の役割を押し付けたのか、なぜ結局また要石に戻ったのか、みたいな感情の動きが全然追えてなくて、主人公たちが旅をしなければいけなくなった必然性みたいなところの話の流れは腑に落ちていないままです。先月見たRRRが技巧を凝らしているのにめちゃくちゃわかりやすい話だったことを考えると、本作そこはちょっと(うまくできるはずなのに)うまくないんじゃないのかな、とは思ったりします。

主人公が東京で戸締まりをしたあと相方の部屋に1人で帰る時に、色んな人から奇異の目で見られる描写が強めに入ってたのは何、とか、最終局面で一瞬だけ映るつがいの蝶の意味は、とか、細かいところで何だろうみたいなのはたくさんあります。少し前のアトロクでも宇多丸さんが言っていた通り、実写映画と違ってアニメ映画では「写り込んでしまう」事は基本的になくて、全ての描写は誰かの意思決定によって入っているものなので、入れた理由があるはずなんですよね。情報量の多いアニメ映画だとそういうフックが一山出てくるので、どれをどう追いかけたら良いのか考えながら見る必要があって、圧倒されてしまいます。

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