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「媒介者としての自分」をいかに乗りこなすか。

やっほー、おはようございます、パン好き人事ことたかおです。

さて昨日は朝渋スタッフの超絶大好きな方と一緒にパン作りをしに行きました。いつもしかめっ面でひとり黙々とパン制作に身を投じていたため、誰かと何かを出来る、それを通じて楽しさを共有できるということはなんて素晴らしいんだ…と感動しました(勢いで、満了していたくせに12回分のレッスンを課金してしまった、偶発性万歳…!)。

その後は友人らと一緒に鎌倉に行ってきました。いくつかサプライズも用意して、非常に楽しい時間でした。やっぱり友人が喜んでくれるのを見ると何より嬉しいし、これまでにどんな人生があったのか、私には分かり得ぬ領域はたくさんあれど、「幸せの一助になれたのであればこんなに嬉しいことはないな…」と心に温かいものを感じる1日だったのでした。

という前置きはさておきとして、この週末に考えた「自分の多動性とMedium(媒介物)としての自分の乗りこなし方」というテーマについて、書いてみようと思います。

# 多動性について

周囲の人間から「たかおのスケジュールはテトリス」「たかおは複数人いる説」「家には絶対いなそう」「いつもどこかにいる気がする」「非リアなのにキラキラアカウント」などの評価をいただくことがある(あながち間違いではないので特に否定することもない)。

多動性については前から認識しているとおりだが、それ単体では意味を持ちえず、良いこともあれば悪いこともある。昔は多動のくせに一喜一憂しがちな性質を持っていたので、出かければ出かけるほど、外気に当たれば当たるほど、精神を病んでいく時期もあった。
今でこそ疲労で突然事切れることもあるが、最近はうまく乗りこなせてきている気もする。そこまで病むこともなければ、特段疲労感や絶望感もない。どうしてだろう。何が変わったのだろうか。そのことを書いていこうと思う。

特に多動気味で自分を見失いがちな人にとって、ひとつ参考になるのかもしれない、と思って筆を執った(あるいは、私に関わる上で私の行動原理を理解したい人がいれば、理解の助けになるかもしれないと思っている)。

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# 多動に関する自己認知

多動を自分自身どう捉えているのか考えてみたが、最近の私は、自分自身を、「何かと何かを媒介するもの」とか「場を構成する何か」とか、そういう感じに捉えている。
私という主語やら主体がメインではなく、何かと何かの繋ぎ目にたまたま私がいたり/あったりする、みたいな心象風景。自分をある種風景とか物質とか、それに近いものだと思っている。

「自分はその場にある物語の主人公ではない」という期待値を自分自身にかけているからこそ、やたら多動でもあまり自分を見失うような心象風景にはなっていないのではないか(多分主役級を買って出ようとするとたいへんな気がする…)。

# 私が行動する上で意識するべきこと

とすると、私の問うべき問いは「私が何をするのか」が先に立つわけではないことが分かる。例えば以下のようなものだ。

・誰の情報を媒介するのか
・どんなものを媒介するのか(何を、ではない)
・結果としてどんなものが伝わるのか(何が、ではない)

これらが先に立ち、その後ろに行為がある、という構造になって然るべきだと思う。本来?であれば、「何か目的があり→その先に為すこと」があるはずなので、自分単体で目的を持ち得ないことには注意すべきだと感じる(物事を思考する順番と捉え方を意識すべき)。

# 私が行動する上で意識しないこと

上記を踏まえて物事を捉え直すと、例えば「物事に対する主体性」「自分で選ぶ必然性」などについては、今の自分は持ち得ない、あるいはあまりなくても良いものであるようにも思える。前回のnoteで「選んだものを正解にする」話をしたが、媒介者とか風景として自分を捉えるのであれば、もはや関わる事象単体については選ぶ必要すらないかなとも思う。

つまり、「自分から何かを得るために動く」という力学を働かせる必要はなくて、それよりも「求められる場所に登場する」、「与えられた場所でやるべきだと感じたことをやる」というのが自分にとっては正しい姿なのではないか、と思っている。

# 自分で意思決定をしないこと=他力本願なのか

他力本願だと揶揄されるかもしれないが、私は以下3つの理由で(自己防衛的かもしれないが)そうではないと捉えている。

・意思決定をする「役割」を担っているわけではない
・意思決定はそもそも得意ではないので、全体最適の観点で正しくない
・意思決定をしない人間であっても、決定の責任を負うことはできる(あるいは、負わないといけない)

単にリソース配分や役割、思考の順番や優先度の問題かなと思う。ここまで考えていくと、「何か大きなもの」のような存在を前提としているのかもしれない、とも思い始めた(これを私は【たかお共和国】という造語を使って表現し始めたのだが、その話はまたいずれ…)。

# それは「周りに振り回されている」ことなのか

こういう話をすると「自分を大事にしなよ」「周りに振り回されないほうがいいよ」などのアドバイスをしてくれる人もいて、それはそれで真なりだなとも思う。
ただ、現在の状況については「周りに振り回されている」という風には捉えていない。なぜなら前段でも述べた通り、「自分の行動や方向性についての責任は自分で負う」としているから。

他人に私の人生の手綱を握らせるつもりはない。あくまで私の人生を乗りこなしていく主体は私だから。自分の人生に責任を持つことは、その味わい深さを余すことなく感じる権利でもあると思うし、それ自体は(自分から探しに行ったり決めたりするのではなくて)「他人にトリガーを与えてもらう」という生き方でも受けることが出来ると思う。

# 自分という乗り物をいかに乗りこなすか

ここまでの話を総合すると、私は私自身を、
「私という乗り物に乗って、それこそ目的地は知らないし、軌道も別に描かないけど、
エンジンを補給したり、時々メンテナンスしたり、道を誤っていないか時々見に行ったりする人」

みたいなイメージで捉えている。

・美徳に反する
・主観的に意味がないことをしていると感じられる
・そのことによって自尊心が著しく傷つけられる

などのことがないかたまに見に行く管理人さん、といった感じだ。

ある種自分を客観視し、幽体離脱したかのような、あるいは馬に乗る騎手のような心象風景で生きることができれば、うまく自分を乗りこなせるような気がしていて、最近はそれを試してる。

※一例だが、朝渋に入ってから、自分の状態については、スプレッドシートで記録をしていて、何をするとどんなコンディションになるのか客観視しようとしている。こんな感じ↓

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# この考え方が合う人、合わない人

とはいえこの考え方は(特に資本主義社会におけるビジネスマンとしては)あまり良いとは思わない。

・出世や成果創出といった目的のためにはおそらくかなり高い確率で最短距離ではない
・セルフブランディング的な観点でも、行動に一貫性が担保されるわけではなく、あまり有利ではない

不安がないかと言われると(私も、もはや周りですら)不安だろうと思う。うまく生きていける保障はどこにもないし、(新自由主義的な社会風潮が更に強まっていくなかで、)どこかで一歩でも道を踏み外したら終わっちゃうなという考えは、今尚捨てることは出来ていない。

一方で、「自分の自分たる所以」とか「生きるうえでよって立つもの」みたいなのには近付いてる感覚はある。また、それによって人生が好転してきた感覚があるのもまた事実。なので一旦良しとしている。

自分のスペックとかエンジンを、利己以外の目的で使えたら、ちょっとは自分のことを好きになれるような気がする、というのも少しはあるのかもしれない(それがエゴなのだが)。

# そこに感情、あるいは愛はあるのか?

さて、「そこに感情はあるのか?」「そこに愛はあるのか?」「淡白なのでは?」と聞かれると、正直あまり反論する自信がない。

私は自分自身の(世界に対する)淡白さとか薄情さを認識しているし、そのことを気味悪がる人もいるかもしれないなとは思う。 
※いつも言っているが、周囲の人に対してはこの限りではない…よ!

私自身、自分の感情とか愛とか、みたいなものを知りたくて、他人と交わっている節はある。そういうのは他人を介してでないと発生しないし視認できないから。他人と向き合い、あるいは見出されてみて初めて、自分の感情の片鱗らしきものを理解する

# 対等でないのではないか?

また、上記については「相互信頼を前提にしているはずの人間関係において傍観者、受け身のスタイルを取るのは対等ではない。淡白かつ片務的なのでは?」という見方もあると思う。
ただ、これについては別の論点だと思っていて、「相手の立場に立って考える」とか「人に対して愛情深く接するべきだ」みたいな矜持も同時に持つことは出来ると思う。
(友人関係しかり、恋愛関係しかり)人間関係というある種の物語の始まりの引き金を誰が引く/どんな状況で引かれるのか、については片務的かもしれないが(私の場合、人間関係や物事全般について始まりの引き金は引かない傾向が強い)、上記に述べた世界との交わり方と、人間関係に対する矜持みたいなものはおそらく別物だと思う(人間関係については割と明確な持論があるのでいつか書く)。

# 拗らせた承認欲求ではないか?

同時に、「所詮そんなんカッコつけやろ」とか「高尚に書いているつもりかもしれないが、結局のところ承認欲求でしょ笑」みたいな目線も、避けるべくもないなと感じる。というか、そういうのもあると思う(自分で言っちゃってるし)(まあ、これについては「そういうことをあえて言ってくる悪意ある人とは交わらないようにする」という自衛手段を取るしかないね…)。

# 結論:自分を乗りこなすための思考は大事(雑)

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ここまで書いてきて、かなり何を言いたいのか見えづらくなってきたが、

「自分のスタンスや立ち振る舞いを決めることは重要。
私は自分を器とかmedium(媒介)として捉えることで、自分の人生を乗りこなせそうであると思っていて、
またそのことが自分の人生を豊かにする鍵になりそうである」

というお話でした。何となく近いスタンスとってそうな人いたらコメントorご紹介ください…!

# 追記(いただいた反響)

昔からずっと尊敬している川添さんが素敵なリプライをくださいました。「空気」とか「場」みたいなという表現をしてあんまりしっくりきてなかったのですが、まさに「疑似餌」という感じがぴったりだなと思ったので、使わせていただきたいなと思いました…!



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今回はTwitterの #1日1考 をnoteに変換しました。元ネタはこちら

先週朝渋のグループで「9月いっぱいで死んじゃうなら何をする?」と聞かれたときに「自分のすべてをオープンにして、死ぬところまで他人に還元する」「とにかく脳みそしわしわになるまで文章を書く」って言っていた自分を見て、ちゃんと文章を書こうと思って、最近は積極的にnoteを書いています。執筆1時間くらいかな…。もっとさくっと書けるようになりたい。

というわけで、次回もお目にかかれるのを楽しみにしています!毎日こんな感じの気づきなどをつぶやくアカウントはこちら↓。人事・マーケティング・キャリア・パン・恋愛・人間観察などについて書いてます!

さて、次回こそ!Twitter道場卒業論文を書こうと思います…!(いつまで言っているんだ)

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UXコンサル、BtoBマーケ、人事を経てコミュニケーションマネージャー(広報、マーケ、採用広報、組織開発)なう。 書くこと:パン偏愛、可愛いもの布教、働くこと、生きること、1日1考、新サービス考察、旅行、読書録、銭湯、恋愛。 頂いたサポートは、もれなくパンの研究に使われます。