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母になった友人、とわたし

社会は変わった、のかもしれない。けど…

2021年8月に籍を入れ、2022年10月に結婚式をした。そんな我が家は現状の方針では、子どもを作らない予定で話を進めている。

幸いなことに、社会のなかではさまざまな選択が許容されてきていることを感じる。夫婦別姓を選択した知人や友人もいるし、事実婚を選んだ人、結婚式を挙げない人などもいる。

一見すると、子育てについても例外ではなさそうに見える。事実、子どもは作らないつもりなんだ〜といった話をすると「そういうのもいいんじゃない」と多くの場合言ってもらえる。最近では著名人でも、パートナーシップは結んでいるが子どもをもうけるつもりはない、という宣言をしている方も見かけるようになった。

しかし、いざ友人が次々と母親になって奮闘している様子を見ると、当事者でないことの歯がゆさ、遠くに行ってしまったような感覚、他の人になってしまった気持ち、置いていかれる疎外感のようなものを感じてしまうことがある。

個人主義が台頭し、選択の幅も広がるなか、「それぞれの人生だ」と思うのが正しいと分かりつつ、近くに感じていた人が遠くに行ってしまうことを悲しく感じてしまうのも事実だ。これまで、仕事や住む場所、彼氏や趣味嗜好が変わっても特段そんなことは思わなかったのに、なんだか変な感じだ。

今回はこの現象について、考えてみようと思う。

※元ネタはツリーになっています

なぜ悲しみや疎外感を感じるのか

ではまずなぜ、母となった友人らを見てどことなく悲しみや疎外感を感じてしまうのだろうか。「子どもを生み、育てること」。どうやらそこには、単なる「選択の違い」だけではないものがありそうだ。

① 想像のつかなさ

まず1つに「想像のつかなさ」というのがありそうだ。

私たちがこれまで生きてきた時間が(親のため、とかはあるだろうが)自分のためのものだったとすると、子育て世界においては、存在目的のようなものが変わるケースもあると聞く。「世界がまるっきし変わって、子どもが第一の人生になっちゃうよ」と言っていた友人もいた(他方「子どもは子どもだからな。私と子どもは別だよw」と言っている友人もいるので、そこは個体差や価値観差の激しい領域だったり、月齢/年齢や子どもによって異なるのだろうとは思うが…)。

そこまで人生を大きく変えるような変化なのであれば、正誤や善悪ではなく自明な話として、当事者間にだけ通じるような「絆」はあるだろう(結婚式ですら、やった者同士のシンパシーを感じたのだから…!)。

私は基本的に、人間関係のプレイスタイルとして、
・あらゆることを経験し
・当事者の立場に立つ
(難しいなら生々しい客観情報のシャワーを浴びるなどする)
ことを通じて他者の理解を行ってきたので、到底想像できないことを目の前にすると足がすくむ。一般的に語られていることでは語り尽くせないくらいの大変さがあるんだろうと思うと、自分が挟んでいい思考などないように感じてしまう。

② 共感の難しさ

もうひとつに「共感を示すことの難しさ」がある。

これは「部外者がズケズケ入っていくのは憚られる」と感じるからだ。巷に出産育児の諸先輩方の経験談はたくさんあるし、また、比較的近くにいる知人友人たちもまた、日々戦争のような毎日を送っていることを見聞きしている。自分はそんな状況に立ち会ったことはないし、分からない・想像できない以上、共感を示すのもまた、烏滸がましいようにも感じる。

③ どう接すればいいのかの分からなさ

その結果として、「どう接されるのが心地よいのかが分からない」と感じてしまうことがある。理解するのはおろか、想像することすら難しい(①)し、生半可な気持ちで共感されても当事者ではないのでイラッとするのではないか(②)。そんななかで課題解決する立場になるのなんてまして烏滸がましいし、そもそも解決方法は勉強不足だったりもする。そんな関わりは求められていないんだろうから、じゃあどうすれば、と思うこともある。

④ 自分自身の劣等感

もうひとつはやはり「自分は周囲より劣っている」という感覚だろう。

自分は18年も他人(私は過干渉な親の元で育ち、親の成果物や親の人生のひとつとして捉えられるのがしんどかったため、子どものことは原則他人だと思ったほうが良いと思う派)を育てるだけの胆力がないと判断している。他方、友人たちはそういう辛さも引き取って、難しくも新しい決断をしている。

このように、周囲とジャッジが違ってしまった、人生の岐路が分かれてしまったことの不安や悲しさ、孤独感を感じてる部分は多少なりともあると思う。前提として子育てするのは当然偉いし尊いし応援しているしすごいことだと思うし、だからこそ、自分の選択は、同年代の女性の意思決定内容としては間違っているよな、とも思っている。

勿論この類の議論に正しさなんてないわけだが、こうも周りがそうしている(ように感じる瞬間が多いのは、バイアスなのか、SNSの副産物なのか…)と、自分が「間違っている」ような感覚は当然持ちうると客観的に感じる(あえて正しさを付与しようと思えば、子どもを産まないと国力が下がるというのはいにしえからの自明なので、現行の社会制度に物を申したい気持ちはあるものの、やっぱり産んだほうがえらい!とは個人的には、そして心から思う。むろん、社会のために生きるのか的な論点は別であるが…)。

⑤ アイデンティティの揺れ

私自身のコミュニケーションスタイルの揺れを発生させることが、アイデンティティの揺れを引き起こしている可能性もある。

私は今まで、他者との関わり方として「ただ在る」というよりは「自分が身を以て体験したり、その当事者の客観情報を持つことで、妥当な在り方を共に考える」みたいな方法を取りがちだった。そのため、本件に関する無力感・門外漢の気が強く、相手から見た「関わる意味」が自分に見出せないのではないか、と感じている。以前に、(本人は愚痴のつもりだったのかもしれないが)子育てに関わるやるせなさを共有された際、何とも言えず言葉に詰まってしまったときに、罪悪感やら無力感やらいろいろな感覚を持った。

上記からも分かるように、基本的に私は「◯◯やってみた」的なスタンスでことに当たるのだけど、これはおそらく「誰かの役に立ちたい、立たないといけない」という気持ちからで、そのスタンスの一貫性が本件に関しては(自分の「産まない」という一旦の意思によって)崩れていることが、自分で思っていた以上にアイデンティティを喪失させる一因になっているのかもしれない。

何に葛藤するのか

悲しいだけならまだしも、自分のなかには葛藤があると感じる。葛藤とは「こうありたい」という2つの欲求がコンフリクトするときに発生するものだ。では具体的に、何の間で葛藤しているのだろうか。

① 誰と向き合いたいのか問題

昨今、インスタを開けば、赤子〜キッズの写真のオンパレードだ。幸せを妬むといった気持ちはない(と思いたい)が、最初は「可愛いなぁ」と見ていたところから「流石に多すぎるな…」という気持ちに変化してきたことを感じる。そうだ、自分は妙齢の女性で、インスタには概ね同年代の女子しか存在していないのだ(注:女子校出身なので友人に締める女子の割合が非常に高い、かつインスタは概ね女子で占められている)。かつ、そのインスタにはなかなか本人が出てこない。そのことに一抹の悲しさを感じている側面もある。

もちろん、子どもを持つ人のことを(まして友人となれば)応援したいし、応援しているし、祝福しているし、世に降り立ったお子を可愛がりたいのも偽りならざる本音だ。私はかつて幼児教育の現場にいたこともあり、子どもの扱いはどちらかといえば得意な領域だ。

ただ、実際には子どもではなく「その子本人」と向き合ってきたし、向き合いたかったのに、と感じてしまう気持ちがあるのもまた事実だ。

② どこまで正直に向き合うべきか問題

2つ目は、こういった話を共有することが難しいと感じることだ。ここまで散々色々なことを考えてきたが、その上でも、「どういう立場で、どんな聴き方で、そこに存在すると良いのか」という問いに対する答えは分からぬまま、そしてそのことが聞けぬまま、踏み込めずにいる。

それは、この手の話題(子どもを産み育てることにまつわる価値観)は、信頼関係だけでなく、その人の家庭環境などのバックグラウンドに対する理解がないと厳しいと感じている(例えば私の場合であれば、子育てを躊躇する理由が幼少期の体験にあるだろうということはきっと古くからの友人は想像に難くないだろうとも思う)からだ。発言の内容によっては激しい軽蔑の対象にもなるだろうし、一発で人間関係から弾かれる可能性もあるとすら感じる。なんなら、宗教とか政治の話なんかよりも、同年代にこの話をすることのタブー感が強い。そんな話するくらいならアイドルとかサンリオの話してた方がいいやってなってしまう。

でも、腹を割って話すこと自体は、自分の人生でずっと大事にしてきたことなのでやめたいわけではない(だからこうやってスタンスだけ提示して、誰かにリアクションをもらうことを待っているのかもしれないが…)。ただ、お子さんがいるお母さんは大変なことも知っているので、こんなこと共有されたいと思っていない可能性が高い、とも思う。そうすると、やっぱり「言わない」になってしまう。

子どもが産まれて「続く縁」と「そうでない縁」の違いとは

とはいえ、自分の関係性を思い返すと、子どもが産まれて離れてしまった縁もあれば、続いている縁もある。子どもがいても、そのことを気にせず仲良くし続けている子はいて、その場合、出産前後で関係が変わった気はあまりしない(こちらの例のほうが割合としては多くないのだが)。

では、その違いはなんだろうか。

まずは「つまづき感を感じた関係性」について思いを馳せてみる。
例えば大学の旧友同士で同窓会などをするとしよう。その場に、母親になったばかりのメンバーが集うことがある。そうなると、場のテーマは子どもが大半を占める。私は(個人的な話で恐縮だが)視覚・言語優位の認知特性を持っているため、あまり理解・共感できないような会話に集中するのことにとても難儀する性質がある。そのため、自分が当事者性を失うと、途端に場の空気についていけなくなる。こういうときに「しばらくこの会を開くのは辞めておくか」という気持ちになる(私は「好ましい」と思う関係性なのに自分から縁を自然消滅させるのが本当に嫌なので、同窓会はたいてい幹事を引き受けることが多く、このシナリオになると、その縁自体は疎遠になることが多い)。

次に、「続く関係性」について考えてみる。
パッと思い浮かんだのは、たまに会う中高時代からの友人。子育てに仕事にといつも忙しそうだが、その合間を縫って、息抜きに時間を作ってくれている。話すことといえば子育てについてももちろんだが、仕事やパートナーシップの話も織り交ぜられ、地続きの彼女自身を感じられている。彼女自身の、時折毒舌の混ざった切れ味のある会話は出産前後だからといって変わることもなく、話すだけで嬉しくなる。
もちろん、会話の内容などを配慮してくれているのだろう、とも思うが、会話の内容いかんに関わらず、成り立っている関係もあるのは事実だ。

よくよく考えたら、どんな人であっても、母親としての顔だけを持っているわけではないわけで、(切り離せる話ではないとしても)(特に昔の顔を知っている場合には)取り立てて子どもを持つ母親としての分人にフォーカスしなくても良いのかもしれない。

結局寂しいだけなんじゃないか説

もしかしたら、色々と並べてみたが、もっと利己的な話で「子どもができる前であれば普通に会ったり話したりできていたところが、会うことも話すことも難易度が上がり、自分との付き合いの優先度が以前よりも圧倒的に低くなるから」というだけな気もしてきた。

それが仕事など、責任転嫁できる外部の現象ではなく、赤ちゃんという、本人が望んで作られた(と外野から見ると感じる)現象によるものであるものである、というところが、自分の寂しさを助長しているのかもしれない。

では、どうすれば良いか?

① 違いではなく、積み重ねてきたことにフォーカスする

先の検討のなかで「住まう世界が大きく異なる人とは関わらないほうが良いのではないか」とも思った。しかし、こと「これまで仲を紡いできた人」が相手であれば、違いではなく、これまで積み重ねてきたものに着目するのが良いのかもしれない。

「交わらない世界」を無理に理解しようとしないで良いし、これまで積み重ねてきたものの世界線で話せるなら良いなとも思えてきた。

過去に拘泥するのも気持ち悪い、でも今に寄り添おうとすると差し障りがある、なんて関係、きっと子育て以外にも色々ある気がしていて(キャリア選択とか住まいとかもそうかな)、もっと柔軟に、しなやかに、を意識すれば乗り越えられることのようにも感じている。

② 自分の人生を前向きに生きる

それから在るかもしれない可能性として、子育てをしている人は「新しい、大切にすることが自明な関係性を紡ぎ、環境を変化させることに踏み出した人たち」で、そうでない自分は「今ある関係性や環境に拘泥している」ように見えることが一因かもしれない。

だとすると原因は現状に拘泥している自分側にあるし、子育てなどに関係なく、自分の人生を生きることによってしか、このもやもやは解決できないようにも思えてきた。

③ いつかは縁が戻る日がくるかもしれない、とゆったりと構える

いくら解釈をこねくり回しても、友人は子育てで忙しく、自分はそれを理解するのが難しい現象は変わらない。かつ、友人が「母親としての分人」を重んじているとすると、今の自分で介入することは難しいし、相手にとっても必要性が薄くなるのは避けられないことだろう。
そうなったら、いつかおばあちゃんになったらまた交わる世界線があるかもしれない、と悠然と構えることも、スタンスとしては必要だとも感じた(ちなみに私はこれがとても苦手なので、「今あるもの」にフォーカスしがちだが、先の結婚式で、旧友から温かい言葉をかけてもらったり、思い出話をしてもらったことで、少しずつこの価値観が変化してきているのを感じる)。

少し前の自分が、結婚式の準備で忙しかったときは特に飲み会周りの付き合いが悪くなったり、それ以外のことに手がつかなかったように、こういうものは天下の回りものというか、順繰りに巡ってくるもののようにも感じる。

だから、今はお互いに向き合えなかったり、今は疎遠になったとしても、いつか、そのことも思い出になる、その日を待ち望む、そんなスタンスも、大事なのではないか。

大事なのは「強い縁」だけではなく「弱いつながり」だとする言説もある。私はここに対してやや懐疑的(つながりを信じるなら、つなぎにいったほうがいいじゃない!と思っていた)だったが、少しずつ変わっていく自分の価値観を味わいながら、でも過渡期にあっても寄り添ってくれる「強い縁」を持つ人たちのことも大切に、人生をしなやかに、そしてなるべく性善説的に渡っていきたいと願った。

終わりに

今回はTwitterでの独り言をきっかけに、最近自分のなかでもやもやしていた「子育てをする友人との関係性と眼差し」について書いてみた。

本件はまさに「誰かに話すのは憚られるが、色んな人の意見を聞いてみたい」テーマにカテゴライズされる話だ。ここまで読んでくれた人に畏敬の念を表明すると主に、皆さんの感想や意見を、まさに色んな人に聞いてみたいと願って、筆を置くこととする。

(本記事を書くにあたって、色々な方のコメントやリアクションを参考にさせていただき、またそれらのものを踏まえて自分の思考を醸成することができた。特に思考発酵コミュニティ「hygge」の皆さまと、普段から日々の内省に付き合っていただいているコーチのまめさんに、感謝の意を表明したい)

UXコンサル、BtoBマーケ、人事を経てコミュニケーションマネージャー(広報、マーケ、採用広報、組織開発)なう。 書くこと:パン偏愛、可愛いもの布教、働くこと、生きること、1日1考、新サービス考察、旅行、読書録、銭湯、恋愛。 頂いたサポートは、もれなくパンの研究に使われます。