見出し画像

1月4日「かくれぐも」

あの雲は、「かくれぐも」と申します。はっきりと境界のわからないもくもくとしたかたち、薄くくすんでその姿を少し誇張するようないろ。吹き付ける風にも抵抗してその場に留まろうとする図々しい胆力。すべての生きとし生けるものの父とも言える太陽の前に愚かにも覆いかぶさり、天からの寵愛を独り占めしようとする本当に憎いやつです。あやつが「かくれぐも」と呼ばれる所以は、その形にございます。あやつはその不透明な巨体で太陽を覆い隠すゆえに、地に生きる花々や生き物、やまや海からをも日々憎まれて追いかけられております。彼らの恨みは止まることを知らず、あやつが現れる時には皆怒り狂って、いつもあやつを引き裂いてはりつけにして、太陽への供物にしてやろうとあらあらとしております。それなのにあやつはいなくなるのです。何日も何日も太陽の寵愛を独り占めしようと現れる時もあるのに、ある日にはいないのです。また、ある日は昼間の間だけ、ある日は夜の間だけ。いつも逃げ隠れして追及から逃れるのです。故に、「かくれぐも」。

7月のある晩、皆が寝静まった丑満時に、その日はなんとも寝付きが悪くこれは床についていても無駄だなと思ってついそこの河原へと散歩に行くことにしました。その日はそれはそれは綺麗な満月でございまして、川のみなもに映る揺らめく金色の月はそこらに売られている金剛石や輝冠石なんか比にならず、この世の何者にも変えられぬ無限の価値を秘めているように感じられました。そして、この景色を河原で一人眺めている私は、本当に幸せ者にございました。すると、急に水面の満月が消え、あたりが水に墨を溶かしたようにほんの少し暗くなったのでした。私は突然のことにびくと驚いて、周りをきょろきょろと見回して見ました。ああ。あいつかと。そこにはいつの間に現れたのか、かくれぐもが私の空を奪ってしまったのでした。

「おい、くもやい。またお前か。その月を返せ。」

その日、かくれぐもは私が知る限り初めて、口を開きました。

「騒いでいるのはどなたかな。どこだい、私には見えないよ。」
「ここだここだ。お前から見て東に流れる川の岸さ。」
「ああ、あなたか。どうなさいましたか。私何かしたでしょうか。」
「ああしたさ。お前はいつもいつも我々から空を奪っていくじゃあないか。いつもみんな怒っているのさ。それなのにお前はいつも返事もせずにいつの間にか姿を消すじゃないか。みんな怒っているぞ。いいかげん空を奪うのはやめないか。」
「何を騒いでいるんだい。私は風の流れでたまたまこの地にきただけさ。空なんて奪っていないさ。空はこんなにも広いじゃあないか。私なんかが奪えるものではないさ。」
「何をおかしなことを。お前は現に今私が楽しんでいた月と多くの星々を飲み込んでしまったではないか。」
「ああ、なるほど。君にはこの大きな空がわからないんだねえ。わからないことは怖いものさ。なるほどなるほど。君たちは我々のことをしらないんだねえ。ただ風に吹かれてやってくることも、地上の声など空の強い風でかき消されてしまうことも、何も。まあ、僕はそろそろいくとするよ。風が出てきた。君の望みはそれだろう。さようなら。」
「訳のわからないことをいわないでおくれ。さようなら。もう空を奪わないでおくれよ。」

かくれぐもはいった通りその後すぐに消えました。ただ私の忠告も聞かずにまた次の日に現れたのです。なんて愚かなのでしょうか。彼には私の言ったことが理解できなかったのでしょうか。ああ不思議なことです。